01

暗がりの色はくれない

 使い込んだ木のまな板で、手際よく固い野菜を切っていくときに立つ音とよく似ている。小気味よいリズムで、まず五回。一拍置いて、十五回。客の絶えた朝のロビーに、すがすがしくその音が響くと、「淡竹屋」の看板色子の〈紅〉が、階下に姿を現すのだ。

 なぁんて。真さんならもっと上手に書くんだろうけど、俺にはこれが限界。でも、結構いけてない?

 さて、親愛なる俺のボス。

 もし、ボスの愛するこの店で働いていた一番人気のこどものことを、続いてゆくこれからの日々の中で思い出すことがあるならば、こんな風に思い出して欲しい。都合の悪い部分は思いっきり端折って見映えよく編集した、青っぽく光るショート・フィルムの、主人公が登場するシーンみたいに。

 一瞬だけ、サングラスの奥に光るその薄茶色の眼を、元気に働きまくる俺の上に留めて。


     ◆


 年季の入ったウチの階段を、軽い音で踏んで歩けるのは俺だけだ。

 他の誰が、どんなに気をつけて歩いたところで、すぐに、ギッ、と古びた悲鳴が上がる。ふつうに歩けばもっと、ギイギイうるさい。どうして俺にだけこんな軽い音が出せるのか、そのからくりは自分でも分からない。いつの間にか体が先にコツを覚えてしまっていた。

 俺にしかできないことだから、当然一発で判ってくれるだろうと期待して、毎朝ロビーへ降りるときには、必ずその音を立てることにしてる。『俺にしかできないこと』が、どんなに真剣に考えてもこれ一つしかないのは……、まぁ、ちょっと情けねぇけど、遡って、まだ何の特技も持たない俺の前に、「一つだけそなたにしかできないことを授けてやろう」とかうさんくさいことを言う神様か何かが現れたならば、やっぱり俺は同じことを真剣に頼んでるのかもしれない。

 今朝も明るい音を響かせて、この娼館・淡竹屋の真ん中に居座る、老いた大階段を下っていくと、左手に見下ろせる受付のテーブルの上に、行儀悪く尻を引っかけて文庫本を読んでいる、ドレッドの頭が見える。

 店長の『ボス』だ。

 もちろん、ボスのなまえはボスではなく、ちゃんとしたのが別にあるが、はじめてボスとまともに喋ったときについ「ボス」と呼んでしまったので、俺は今でもそう呼んでいた。

 長年磨き込まれて黒光りしている床板と、白い壁。ほとんどその二色だけで描かれている淡竹屋のロビーにおいて、ボス以上に目を引くものはない。

 それはボスが、牡丹唐草の刺繍が全面に入ったクリーム色のジャケットの下に、青と黄と緑と黒とピンクが複雑に絡み合う柄シャツを合わせ、くすんだ血の色のスリムパンツを履くという無茶な格好をしているせいだが、そんなボスの姿が受付にあるおかげで、ただ古くさいだけの店全体が、がぜんおもしろそうな雰囲気になるのだ。

 俺は最後の段を飛ばしてロビーに着地した。

「お疲れさまです」

「よう、紅。お疲れ」

 この声を聞くために今日も頑張ったんだなぁ、と、毎日思う。

 いちいちこっちを見ちゃくれないし、朝のボスの声は、徹夜と煙草の祟りでかすれていて、いつもよりずっと変だけど、でも、ボスでなきゃ、この声でなきゃ、俺の体にそっとまとい付き、ゆうべからの疲れを丸々吸い取ってくれるなんて芸当、できやしない。

「備品の注文いい?」

「どうぞ」と返事しながら、尻を左へずらして、俺が座れるだけのスペースを机の上に空けてくれる。視線はたぶん本の上に置いたままだ。たぶん、というのは、部屋の中でもボスは色の濃いサングラスをかけているから、本当に見ているのがどこなのかは、こっちが勝手に想像するしかないのだ。

 俺は用意された空間に飛び乗った。チビなので、机の上に腰掛けると、緩く組んだ足を床に投げ出す、というボスのしてるようなかっこいい姿勢にはならず、足は宙に浮いてしまう。格好はつかないが、俺はボスよりずっと若いので、これからまだまだ身長は伸びるはずだ。大丈夫。

「ティッシュ五箱、コンドーム一ダース、へちま水一瓶、紙やすりはいつものを十枚くらい。それと、こないだ茶請けに出した波羅蜜が評判良かったから、缶詰五缶追加で。あとは、ローション三本、おっきいボトルの方ね。ちょっと急ぎなのはへちま水だけ。他のはあと二週間くらいなら余裕で持つと思う。以上、宜しくお願いします」

 さっき部屋中を点検して覚えてきた不足備品を暗唱した。返って来るのは「はいよ」という生返事のみだったが、これでいて仕事はちゃんとしてくれるので、気にしない。

 ついこないだも、一度目の来店から半年以上の間を空けて、二回目の予約をしてきたお客さんが居たのだが、ボスは電話口で名前を聞いただけで、その人の顔と前回来たときの服装を思い出し、それに俺が喋ったらしい「お腹に黒子が大小合わせて三十個以上あってびっくりした」という、どうでもいい話まで覚えていて、その場に居た俺を仰天させたばかりだ。メモのかわりに、俺はボスの物覚えの良さをときどきこうして利用する。

 こうしてボスと並んでられる僅かの間、住人の殆どがまだ眠っているこの店は、世界の終わりにある。だから、もう誰も俺を買いに来なくて、〈紅〉という名前も捨てて、ボスとずっと一緒にここで並んで茶でも啜って過ごせるような気になってくる。

 男娼の仕事が嫌いなわけでも、ボスに貰った今の名前が気に食わないわけでも、ましてや、何にもせずにただ大好きなボスと一緒に居られたらそれでいいなんて、そんな慎ましいこと、この俺が願うわけもないのに。

 俺はそっと、ボスの横顔を盗み見た。

「痣、もうあんま見えないね」

「だろ? まだ押すと痛ぇけど」

 サングラスの陰にほとんど隠れているが、ボスの右の頬骨の辺りには、割と最近作られた擦り傷と青痣があった。今回も、飲み屋で酔って暴れて壁にぶつけたらしい。しょっちゅうだ。

「ボス、酒癖悪そうに見えないのに」

「人は見かけによらねぇもんだ」

「まぁ、そうかも」

「つか、いかにも酒癖悪そうだって言われることのが多いけどな」

 それは、そいつが俺ほどボスのことを見ていないからだ。声にはせず、でも、足の裏に地面があることと同じくらいの確実さで、そう思った。思いながらも、「まぁ、そうかも」を繰り返す。

「そうだ。今日、真、遊びに来るってよ」そこでようやくボスは顔を上げた。ちょっとこっちを向くだけで、俺の親指くらいの太さに編まれた長い毛先が、牡丹唐草のジャケットに擦れて音を立てた。

「ほんとに! てか、相手は? 俺?」

 淡竹屋は会員制で、更に完全予約制だ。遊ぶ娼妓は、予約のときにお客さんの方から指定するのが普通なので、客の方から「誰でも、そっちのお任せで」という申告がない限り、予約が成立した時点で、どの娼妓が相手をするのかも決まっているはずなのだ。

「さあ。ただ来るっつってただけだから」

 さすが真さん。見事なお任せだ。

 ウチで、娼妓をお任せにする客には二通りしかない。とにかく「淡竹屋で遊んだことがある」というので箔を付けたい不粋な連中か、真さんみたいに、ウチで遊び尽くしてるお大尽のどちらかだ。

「ねぇ、ちょっと、ボス。おーれ! 真さんは俺! ね、いいでしょ。えっと、」つまんない予約が入っていたら、蹴ってでも真さんを取ろう。なんて考えながら、背後の黒板を振り返った。

 受付の後ろの壁に取り付けられている黒板は、娼妓の番付兼予定表になっている。上段向かって一番左の〈紅〉の札を先頭に、部屋名の書き込まれた五センチ四方の名札が、〈紅・藤・桃・鳶・紺・萠〉下段に移って〈蒼・橙・黄〉という先月の売上順で並べられている。

 これに、現在番付から除外されている〈銀〉と、空き部屋である〈碧・白〉を足して、淡竹屋には十二の娼妓部屋がある。俺がそうであるように、各部屋に付けられた名前がそのまま、そこに住む娼妓の源氏名だ。

「……ボス、これ、マジで?」自分の札の下に何の予定も書き込まれていないのを見て、俺は素っ頓狂な声を出してしまう。

「マジで」

 そりゃ、マジだろう。その日に予約が入っていれば、ボスが朝一番に札の下にその旨を書き入れてるはずだから。三年連続売上ナンバーワンの記録更新中である、淡竹屋看板娼妓〈紅〉とは言え、こういう日もごく稀にあるのだ。単なるタイミングの問題だとは知りつつ、結構、へこむ。更に悪いことに、予定表をざっと見てみると、多少の差はあれ、今夜何の予定も入ってないのは俺だけだった。

「マジかよ……、あ、いやでもこれラッキーじゃん」

 そう、この不幸も今夜ばかりは、真さんの『お任せ』予約をすんなり自分のものにできる、またとないチャンスなんである。後で抜け駆けがバレたら、〈藤〉たち真さんファンクラブの中枢にやかましく言われるのは必至だが、俺以外の娼妓全員に予約が入っているこの状況なら、何とか言い訳も立つだろう。

「ね、ボス。今夜は俺に真さん下さいよォ」

「一番人気だけ売れ残ってんのも格好つかねぇしなぁ。好きにしな」

「やったぁ! じゃあボス、予約済って書いといて」

「自分で書けよ」

「俺、字なんか書けないよ」

 子供が読み書きを学ぶべき時間を、全部セックスに費やしてしまった俺は、当前、すらすら読み書きができるレベルではない。とはいえ、いくら何でもしょっちゅう仕事で使う『予約済』くらいなら書ける。でも言わない。だって、ボスの字で予定を書いてもらったほうが気分が良いから。

「あまえんな」

「じゃあ自分で書くからまずボスがお手本書いてよ」

「どういう二度手間だよ」

「お手本ないと書けない。これはマジで。ねぇ、」

「ああもう、うるせぇなぁ。書きゃいいんだろ書きゃ」読みさしのページを机の上に伏せて、ボスは黒板の前まで移動した。勝った。俺はぶらぶらさせていた足を机の上に引き上げ、膝立ちになって黒板を見た。

 ボスの手が、ごちゃごちゃと置かれたチョークの中から赤いチョークを選んだ。裸の腹を撫でられたときみたいに、俺の下腹に力が入った。赤は俺の色だ。自意識過剰だと分かっていても、たったこれっぽっちのことで高鳴る胸を、俺は持ってる。

 俺の尋常じゃない歓びになど、きっと気付いていないボスは、すらすらと俺の札の下に空いた深緑色のスペースを埋めていく。ボスの書く字は、ボスっぽい。派手で、だけど真ん中に背骨みたいなのが見えるのだ。

「うん、満足」

 ボスに書いてもらった、今日の俺の予定表は誇らしげだ。

 振り返ったボスは、にやついた俺の顔を黙って眺めている。顔を合わせたままの沈黙に俺はすぐに耐えきれなくなって、

「なに……?」と言ってしまったその途端、ボスの手が伸びてきた。

「なんでもねぇよ」

 唇の片端を吊り上げた意地悪な表情を見ずとも、分かっていたことだったが、この後の展開が決して色っぽいものではないことに改めて気付いて身構える。ボスは、指先に付いたチョークの粉を俺の顔になすりつけようとしているのだった。

「ちょっ、やめ、やだよ意地悪!」

 身を捩って避けようとするが、ボスは簡単に、両手でそれぞれ、俺の頬の肉を挟んだ。顔が近づく。治りかけたボスの青痣は、青と言うより黄色になっている。

 机の上に斜めになったまま、俺はすっかり固まってしまった。背筋が凍りついてゆく音が聞こえてきそうだ。さっきまで、客にはあんなとこまで平気で触らせてたくせに、ボスにはほっぺた触られるだけでもう駄目だ。ぶっちゃけ、おっ立ちそう。それだけはまずい、やばい、駄目駄目駄目。

 ほっぺたを左右に強く引っ張られたのを景気づけにして、俺は机から飛び降り、なんとか粉だらけのボスの手を振り切った。好きな人の指は、マジで凶器だ。

「なぁにが満足だアホ、これは手本なんだろ、ホラ、ちゃんと自分で書けよな」ボスは机越しに赤いチョークを突き付けてくる。

「やーですよーだ。ボスの達筆じゃないと意味ないんだもん」俺はぷいと知らん顔をして、ボスの指が触った場所を、ロンTの袖を捲った腕で拭う。きっと、チョークの粉でところどころが赤くなった、変な顔になっているんだろう。ボスはこっちを見て、ハッハ、と無遠慮に笑った。

 まったく、この人は、ちっとも恋心というものをわかってない。

 今朝起きてから部屋を出るまでの間に、蒸しタオルで顔を覆って、その後保湿して、リンパマッサージもして、何とか顔に出た疲れとむくみをマシにしようと頑張ったのも、少しでもボスにかわいい顔を見せたいがためだったのに。

 こんな商売してるくせに、休日ともなるといそいそと女の所へ出かけて行き、朝帰りの首筋から色っぽく香水のにおいなんてさせているボスのことなので、男のかわいい顔なんて見たって何とも思わないに違いないのだが。

「真さん、いつ頃来るの?」

「開店時間には来るってよ。さっさとメシ食って、少しは寝とけ」

「はーい。じゃ、また夜ね、ボス。おやすみ」

「ハイおやすみ」と言ったボスの顔は、すでに膝の上に広げた本の方を向いていた。

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