02

暗がりの色はくれない

 来て早々、「なんか面白い話して」とリクエストしてきた真さんに、俺は今朝のボスとのやりとりを聞かせていた。

 それが、「チョコレート食べさせて」のときもあれば、「一人エッチしてみせて」のときもある。とにかく、部屋に来て背広を脱ぐより先に、真さんが何ごとかをリクエストしてくるときは、締切前の、結構、切羽詰まっているときだ。先週来たときには、「もうすぐ上がる」と言っていたはずの書き下ろしの新作が、行き詰まってるんだろうか。

 ウチの真さんファンクラブの内、識字の出来る桃と藤の二人は、真さんこと伊木真一朗の小説の熱烈なファンでもある。新刊が発売延期にでもなったら、悲しむだろうなぁ、と、ひと事の俺はぼんやり思った。

「――ほんっと、ボスって意地が悪いよねぇ」

 受け取った背広を入口脇のハンガーラックに吊るして、丁寧にブラシを掛け、真さんの好きな、五十年物のワイン入りのボンボン・オ・ショコラを、飾り棚から取り出した紅色の切子の菓子入れに並べたところで、計算通りに話を終わらせた。

 真さんはベッドに寝転んで目を閉じていたが、話の途中で、何度も笑い声を上げていた。真さんの笑う声は、ボスの大げさな「ハッハ」という声とは違って、涼やかでのびのびとしている。

 チョコレートをベッドまで運んで行くと、真さんは「ありがとう」と起き上がって、早速一つ摘みながら言った。

「意地悪どころか、優しいじゃねぇか。弓助もだいぶ尻に敷かれてきてんな」

「そうかなぁ……」

 弓助、というのが、ボスの本当の名前だ。

 ボスの幼なじみである真さんが、ボスのことを「弓助」と名前で呼ぶのは当たり前なのだが、そもそもこの店で、ボスを名前で呼ばない人間はいない。娼妓もみんな「弓助さん」と呼んでいるし、客でも、馴染みの人達はやっぱり「弓助さん」か「弓助くん」。

 俺だけがボスを「ボス」と呼ぶ。

 そんな些細なことを、俺は特別な、透明に光り輝くパズルの一ピースのように、大切にしているのだ。

 なんだかアホみたいだなぁ、なんて、自分で退いて見たりするときもあるけど、結局は止められない。どれだけでも阿呆になれてしまうのが恋だと、俺はもう諦めている。かなり前向きに。

「でもいつか、ボスのこと俺のナマ尻で敷いてやりたい!」

 俺はその予行演習と言わんばかりに、ベッドの端にドカッと座った。よっぽど真さんのツボに入ったのか、今日一番大きな声で笑われた。それから俺の手を引いて胸に抱き寄せる。まったく、娼妓の俺より、真さんのほうが誘い方が自然で、上手い。

 でも、俺は淡竹屋の〈紅〉の部屋の娼妓なのだ。自然にしてたらいけない。大人しくしてたら意味がない。そういう奴とやりたいんなら、客も〈紅〉じゃなくって、〈鳶〉とか〈萠〉とか、今は空室だが〈白〉とかを買うはずだ。

 俺は〈紅〉。いま、真さんに向けている笑顔こそが、まさしく俺。

 金色の地毛が根元に覗けば、すぐさま栗皮茶に髪を染め直し、朝晩のまつ毛用育毛剤を欠かさず、放っとくとどんどん男らしくなろうとする成長期の肉体を、できるだけ子供のまま押しとどめようとあらゆる手を尽くす。これが、淡竹屋・紅の舞台裏。

 俺の舞台はこのベッド。今このときが大本番。一目で客の心を攫い、触れれば死ぬほどエロい生き物になる。

「お前ほんっと、かわいいな……」

 舌を抜くとき、ついでに俺の下唇を舐ってから、真さんはうっとりと呟いた。顎まで涎が伝っているのを、どのタイミングで拭こうかと考えていたら、それも舐めとられた。

 俺の服を脱がしにかかった真さんは、仕事のことなどもうすっかり忘れた顔をしている。おそらく今の状況は、締切が近づいていて、余裕があるとは言えないけれども、終わりもまた見えている、といった感じだろう。相手を観察したり、触ったり触られたりしていると、そういうことが何となく分かる。俺は天才とまでは行かないが、優秀な娼妓として必要な類の勘は、まぁまぁ働く方だと思う。そうでなきゃ、この店で看板は張れてないはずだ。

「さ、弓助よりまずは俺を敷いて。このやらしいケツで」俺の尻をわざとらしく撫で回して、真さんは言った。

「任せて。真さんのためなら何でもしちゃう」

 俺は真さんの股間の上に跨がって、腰を落とし、尻をくねらせた。こぼれる小さな真さんの喘ぎに舌なめずりして、くちびるに吸い付く。そこから、歯と舌も上手く使って、真さんの体を下へと辿って行く。

 喉仏を甘噛みすると、真さんが笑うのが振動になって口の中に伝わってくる。その動きを楽しみながらも、俺の両手は真さんのシャツの釦を外し、ベルトを緩め、スラックスの留め具を外してチャックも下ろして、と、忙しい。

 俺はいつだって、真さんが遊びに来てくれるのを、なかなか会えない恋人を待つような思いで待ってるのに、いざ買ってもらって、一緒のベッドに入ると、自分が真さんに恋してるわけじゃないということが、はっきりと分かる。客と娼妓という、お金の絡んだ関係だからこそ、俺は真さんが欲しいし、次に抱いてもらえるときを待ち焦がれたりもする。

 真さんが俺を贔屓にしてくれるのも、俺が自分の仕事を好きで、手を抜かないからだといいな、なんて考えていると、もう俺の脣は真さんの臍の下まで辿り着いていた。焦らさずに、その下でわずかな反応を示している性器を、一気に銜え込む。

 真さんは、細かい技術を使って的確にやるより、とにかく派手にむしゃぶりついた方が感じてくれる。「いつも小綺麗にしてる淡竹屋の娼妓たちが、獣みたいになる姿が愛らしい」のだと、いつか言っていた。快感の前では、優しい真さんも人並みにサディスティックだ。

 頭の中を真さんのにおいでいっぱいにしながら、たったの数秒間だけ、俺は俺の恋を薄やみの底から手探りで掬い上げて、眺めた。それは、針で空けた小さな穴から外の景色を見たときみたいに、にじむほど鮮やかだった。


 ボス。


 そしてすぐさま、夜へ手放す。恋の放った光は緑の残像になって、しばらく俺の視界を乱した。ぎゅっと目を閉じ、振り払うように、真さんのどんどん膨らんでくるペニスを強く吸った。

「……目が、光ってる。猫みてぇ」と、真さんが呟いたのは、向かい合って座った姿勢で、真さんの固くしたのを俺の体の中に沈めている途中だった。

 真さんのてのひらは、期待に総毛立って震える俺の背中をさすってくれている。ゆっくり瞬きをしてから、俺は不自然になる寸前まで大きくした瞳を、真さんへと向けた。真さんの目つきは、酒に酔った人がするような、正体ないものになっている。

「金色だ……今まで気付かなかった……」呟きながら、俺の肩を背中側から逆手に掴み、ぐっと下に沈めて、睫毛に唇を乗せてくる。

「あ、あ……ッ」強い刺激に、思わず閉じそうになる目を頑張って開いたまま、迎えた。密生した俺の睫毛が、真さんの唇に擦られて、さりさり鳴った。

 腰を揺すりながら、俺は真さんをいつもより粘っこく見つめた。真さんも、珍しいものを見るように、うっとりと俺の瞳に見入っている。

 この電球で決まりだな。満足の笑みを、俺は恍惚に忍ばせた。

 実は、俺の色素の薄い睫毛と瞳を一番きれいに見せる電球はどれなのか、色々取り寄せて試していたところだったのだ。真さんは、俺がビタミン剤を飲んだ翌日だとか、睫毛用育毛剤とか大殿筋を鍛える体操の効果が出てきた日を、すぐに見抜いて教えてくれるので、こういう実証実験にはなくてはならない人物なのだった。言うまでもなく、真実お客さんとしてもこんな最高な人は他に居ない。


 二回めも盛り上がって楽しんだ後、真さんがシャワーを浴びてる間に、俺は濡れタオルで体を拭いて、ベッドには新しいシーツを敷いた。

 サイドテーブルの上には、葉巻用具一式を並べておく。真さんがこの部屋に預けている小型の葉巻入れは、部屋の雰囲気に合うようにと、わざわざ新しく買って来てくれたもので、珊瑚色の本体に濃紺と金のラインが入った、華奢で美しいデザインだ。パッと見、女物のクラッチバッグのようにも見える。

 風呂場から戻ってきた真さんはもう、物語に神経をほとんど持ってかれてるときの顔になっていたので、声はかけないでおく。

 そろそろ、真さんが来てから三時間経ってしまう。ウチでは基本的に、三時間の滞在を『一切』、六時間の滞在を『片仕舞』、一晩、つまり十八時〜翌十時までの貸切りを『仕舞』とする、三段階の料金設定しかないため、最初の区切りがここなのだ。

 仕事も残ってるみたいだし、今日はもう帰っちゃうんだろうな。

 俺は、テーブルの上の水差しから、レモン水を勢いよくコップに注いで、飲み干した。

「虫がさ、」ベッドの上で葉巻に手を伸ばした真さんが、そう話しかけてきた。

 吸い口を切るのも、火を点けるのも、真さんの楽しみの内なので、俺は手伝わずに、ただ「うん」と相槌を打って、ベッドの端に腰掛けた。ヘッドボードに寄せたボディピローに背もたれて、葉巻をくゆらせはじめた真さんとは、少し距離を取る。

 ゆったりと誰かが葉巻を味わっている時間は、侵すべからず。

 これは無数にある、『何となく俺が勝手にそうしたいと思っていること』の中でも、かなり厳密に守っている事柄の一つだった。

「虫っつっても、よく見たら文字とか、読点とかなんだけど」薄い煙の向こうで、眉間に皺を寄せ、少しの身振りを付けて話す真さんは、いつもよりずっと年を取って見えた。渋さの出たその顔も、またうっとり見飽きない。どうあっても世界一好みの顔だった。

「その文字の虫どもが、体じゅう這い回ってるような気になんの。上手く書かれないときなんか、特に。んで、眠れない」

 真さんには、俺がこの店へ来た当初から買ってもらっているので、もう付き合いも七年近くなるが、こんな話は初めて聞く。

 俺には、ちょっと楽しそうに思えた。例えば、『淡竹屋』とか『紅』とか『弓助』とか『伊木真一朗』が、体に絡み付いてくる。伸びたり縮んだり、色とりどり、たまに裏返ったりして。ちょっとくすぐったいかな。そのくらいだ。

 でも、真さんは俺の何百倍、何万倍もの文字を知っている。来る日も来る日も、もの凄い数の文字を使って仕事をしている。きっと頭の中も外側も文字だらけだ。それに、ボスがいつも読んでるような本に載ってる文字はだいたい黒いから、真さんに見える文字の虫たちも黒一色の気がする。そしたら、さすがに気味悪いかも。体が、小さな闇に、あちこちから飲まれていく感じかな。

 真さんが、葉巻を灰皿へ置いたので、俺はそっと近寄って、ガウンの裾から剥き出しになってる脛を、自分が文字の虫になったつもりで撫でた。風呂上がりの脛毛は、普段より柔らかくて、触るのが楽しい。

「くすぐってぇよ」

「こんな感じ?」

「だったら、楽しいなぁ」真さんから零れる涼やかな笑い声は、上等のかき氷を口に入れたときみたいに、ふわっとして、すっと消える。

 もっと楽しくなってほしくて、体じゅう撫でた。

 真さんの指が、ゆるゆると俺の腕に絡んでくる。緩慢な動きで俺の手を剥がそうとするのは、逆にやめてほしくない合図だ。もっともっと、撫でた。

「紅」

「ん?」

「今日、仕舞にしてもらって」

「いいの?」

「お前と居ると寝られそう」

 俺の腕に縋り付いて目を閉じた真さんの、骨の形がわかる、皮の薄い頬を見下ろす。男っぽくて、きれいなラインだ。俺の丸い頬と比べたら、きっと誰でも本当に同じ男かと目を疑う。

 かっこいいなぁ。真さんは、本当に格好いい。背も、俺より十五センチもでかいボスよりも、更に拳一個ぶんくらいは高いし、鼻筋の通った端正な顔は、まるで映画俳優みたいだ。

 寝息をたてはじめても、真さんは、俺の腕を抱いたままだった。その寝姿が、狙い澄ましたキメのワンシーンみたいに完璧すぎて、自分まで画面の中で演技しているような気になる。

 起こさないよう、経験を積んで体得した上手なやり方で腕を抜いた。規則正しい寝息をたて続けている真さんの隣で、俺もふとんをかぶって、朝までぐっすりと眠った。

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