04

暗がりの色はくれない

 札入れに残った金を全部渡すと、ハイヤーの運転手は頭を低くして「毒蛇にくれぐれも宜しく」などと言ってくる。俺は、上品に、と意識して笑顔を返し、車を降りた。

 緑の目で、淡竹屋の建物を見上げる。

 あの後、客引きに行く振りをして、俺は店から逃げ出し、裏道を抜けて駅まで走った。聞いたことのある大きな街まで出て、朝を待ち、まず、服を買った。何てことはない、白い開衿シャツと、黒いパンツだ。着替えて、理髪店に行った。金髪だった地毛を焦茶に染めてもらい、伸び放題の毛先を揃えた。それから雑貨屋に行き、緑色の、度が入っていないカラーコンタクトレンズを買った。たったそれだけのことで、俺は毒蛇の息子もどきになることができた。

 白い煉瓦の外壁に黒い瓦屋根を載せた、二階建ての古めかしい洋館。淡竹屋は、灰色の雑居ビル群が犇めき合う裏路地の狭間に、そこだけ時代に取り残されたように、もしくはたった今、忽然と現れたとでもいうような非現実さで建っており、外観の美しさも相まって、辺り一帯の風景に少しもなじまなかった。

 分厚い飾り硝子の嵌った両開きの重厚な玄関扉に、金色の文字で『淡竹屋』と書かれてある。『屋』はたしか「や」と読むから、たぶんこれは「はちくや」と書いてあるのだろう。その他には看板一つ出ていなかった。北に向いた建物は、雲の多い午後の黄色い光を背負って、全体がうすく陰になっており、けだるげだったが、ここで例の凄惨な事件が起こったのだと思い起こさせるような暗さは、なぜか少しも感じられなかった。

 俺は、背筋を伸ばして、玄関の前に立った。硝子越しに俺の顔を確認した警備員らしき男が、慌てて内側から鍵を外して出てきた。

「お久しぶりです。ぼっちゃん一人でいらっしゃるなんて、珍しいですね」警備員は、笑顔でそう話しかけてきた。

 まさか、本物を知っているらしい人間までこうも簡単に騙せるとは。そんなに俺と毒蛇の子供は似ているのだろうか。

 ここまで、気が昂っていたせいか自分が緊張していることなんて忘れていたのに、玄関を跨いだ途端、心臓がものすごい音を立てているのに気付いてしまった。警備の男は、玄関を入った先にもう一つある引き戸を開けて、にこやかに何か言いながら俺を中へと促すのだが、俺の耳には男の声は届いていなかった。

 室内は、どこかで嗅いだことのある、花の匂いがした。それと、おいしそうな食べ物の匂い。どこからか、女の人の喋り声もしている。ロビーの真ん中には、古びた大きな階段が、いかめしく上方で左右に腕を広げて構えていた。

 その男は、階段の向かって右手側に置かれた受付机の、奥の扉から出てきた。

 ソフトドレッドの短髪に、色の濃いサングラスをかけ、光沢のある何とも言えない色のスーツの下に、釦を全部開けて着たベストは白っぽいが、ただの白ではなく、生成り色の糸で牡丹唐草の刺繍がうるさく入っている。中に着たシャツには、黒地に鮮やかな色で細かな草花が描かれていた。それに、白くてつやつやした、先の尖った運動靴みたいなのを履いている。靴紐は揺れるとあらゆる色に光った。

 その、ものすごく変な服装に度肝を抜かれた俺は、しばらく自分が何をすべきかも忘れて目の前の鮮やかな色に見入ってしまった。

「…………お前、誰だ?」

 変な格好の男はまず、そう訊いてきた。俺は背筋を伸ばし、男の顔を見据える。

「名前は、ないです。あなたは、ここのご主人ですか」

「俺はまぁ……店長かな。オーナーは、お前がなりきってる奴の親父さんだけど、残念ながら、ここにはたまにしか来ないぜ」店長だと言う男は、俺の格好を確かめるように顎に手を遣り、何度か首を小さく右へ左へと傾けて、そう言った。

 たまにしか来ないということは、来るということだ。

 ここに居れば俺は本当に、毒蛇に、会えるかもしれない。

「ここで働かせて」

 店長だと言う男の、見えない目を睨むようにして、俺は言った。緊張と昂奮で叫び出しそうになるのを堪えて、ごくふつうの声量で、だがきっぱりと言う。

 男が、サングラスをずらした。現れた薄茶色の目が、俺の全身を舐めていく。鋭い奥二重の瞼が、きれいだった。

「病気持ってねぇか」

「先月の定期検診はオールグリーンでした」と返すと、それ以上なにも訊かれなかった。拍子抜けするほど、簡単だった。

 案内されたのは、昨夜まで俺が商売していた場所とは比べ物にならないような、贅沢な部屋だった。広々とした洋間に、クローゼットと風呂とトイレが付いている。部屋で一番場所を取っているのが窓際に置かれた天蓋付きのベッドで、その手前には二人掛けのソファと低いテーブルがあった。扉を開けてすぐの左隅には、猫足の鏡台がちょこんと置かれ、右側の壁には見上げるほどでかい飾り棚が貼り付いている。中には、美しい硝子の食器やお酒の瓶が並べてあった。この部屋を、俺が自由に使っていいという。今日から客を取れるか、と訊かれたので、取れる、とすぐに返した。

 部屋に一人になってから、もう用のなくなった、ゴロゴロするだけのコンタクトレンズを外して、捨てた。それから、ベッドに飛び乗ってみた。ふとんは信じられないくらいふかふかで、いい匂いがして、ここでちゃんと眠れるか逆に不安になるくらいだった。仰向けに寝転んで、向こう側が見えるほどに薄い布が巡らされている天蓋を見上げる。

 果たしてこれは、現実なのだろうか。

 つい先刻まで、俺の目の前に迫っていたのは、自分の惨殺死体だったのだ。俺は頬や、太腿や、腕を、強くつねった。痛いような、痛くないような、あやふやな感じしかしない。急に恐くなってきて、今度は平手で頬を叩いた。それでもよくわからない。あちこち何度も叩いたり、つねったりしてみたが、自分が確かに生きているという実感には繋がらなかった。でもとりあえず、夢から覚めて前の店に逆戻り、ということは起こらなかったので、俺はやっと少し安心して、目を閉じた。


 それから一週間。俺は、客の反応に戸惑っていた。

 部屋に入って来た瞬間に落胆されたりする。ほとんどの客が勝手に俺のことを「ベニ」と呼ぶ。そして「ベニ」らしくないとか、「ベニ」のくせにとか、どこが「ベニ」だとか言われる。何回かは打たれた。前の店から引き摺ってきた傷と痣の上に、また新しいのが増えて、俺の裸は赤・緑・黄と、まるで俺の新しいボスの格好みたいにへんてこになっていた。

 あんなにお客さんが怒るのだから、受付にもクレームが行ってそうなものだが、ボスはあれ以降、俺に何も言ってこなかった。一体、どういう理由で俺はこんなに怒られるのか、一度ちゃんと訊ねたかったが、あの新しいボスは格好も含めてどうにも掴めない人だから、余計なことを言って不興を買えば、急に鬼のようになって店を追い出されるかもしれない。そうなった後のことを考えると、胃が竦んで、声なんか出せなくなる気がした。

 でも、このまま黙ってわけも分からず暴力を受け続けていたら、前の店に居たときと変わらない。それじゃ、逃げて来た意味がない。ちゃんと訊かなきゃ。

 俺は、ここへ逃げてくる前にやったように、とにかく自分の全身にそう言い聞かせ、それから何も考えずに拍動を数えた。拳を作って心臓の上を何度もグッと押す。俺の心臓は、まだ元気に動いてる。

 朝の十時過ぎに、一階へ向かった。この時間なら、ボスもまだ受付に居るだろう。階段を下りる動作がきつかった。体の軋みがそのまま音になったのかと思うような、ギィギィ古くさい音が、階段の板を踏むたびに小さく、ある段では愕くほど大きく、響いた。

「ボス、ベニってなに」

 ようやく階段を下りきった俺は、すぐにそう訊いた。机の上に尻を乗せていたボスが、読んでいた本から顔を上げて俺の方を見る。

「ボスって何だボスって」

「あなたの名前より、今は俺の名前の方が先だ。お客さんがみんな、俺のこと、ベニって呼ぶ。何で、って、客に訊いていいことかどうか分かんなかったから、今まで黙ってたけど、俺のことをいつまでも俺が分からないのは困るし、……教えてくれませんか」

 せっかく勢いをつけて言ったのに、くれませんか、のところで、声が震えた。

 サングラスに隠れているので、視線が正しく俺の上にあるのかは分からなかったが、俺の新しいボスは、顔をこちらへ向けたまま、暫らく動かなかった。と、ボスが手にしていた本が、床に落ちる。俺はボスに近づいて、それを拾った。真ん中あたりのページが何枚か折れてしまっていたので、指の腹で強めに伸ばした。

「……紅って色はわかるか」

「わかる。洋種山牛蒡の色でしょう」

 前の店でただ一人、俺に手を上げなかったあの客から教わった知識だった。本物を持って来たこともある。やわらかく小さな実を指で潰すと、一気に爪の間まで染まった。洗ってもしばらく取れなかった。

「そりゃ、紅っつうより紫じゃねぇの? まあ、でもイメージはあれに似てるな。ちょっとでも触れるとバッと染まる。うん、色よりイメージが大事だ。炎の先っぽ。ガゼルに食いつく瞬間のライオン。わかるか?」

「それが、何」ガゼルというのは知らなかったが、ライオンに食いつかれるのだから弱い動物なんだろう。俺は話の先を急かした。

「部屋の入り口ようく見てみろ。〈紅〉って書いてある札が下がってる。つまり、お前が当たり前に紅って呼ばれんのはそういう訳だ。そんで今度はこっち」顎で、受付の背後に取り付けられている黒板を示す。机を迂回して、俺はその正面まで移動した。

 黒板の真ん中には横線が引いてあり、上段下段にそれぞれ六枚ずつ、計十二枚の、何かが一文字ずつ書いてある札が並んでいた。札の下に空いた黒板のスペースにも、文字が書かれている。書かれていない場所もある。

「これが娼妓の番付、兼、予定表だ」ボスは説明した。

 札に書いてある文字は「白」だけ読めた。あとは難しくて分からないけど、ベニ色に、白だ。他の部屋にもおそらく色の名前が付いているんだろう。近くに来たボスは、さりげなく下段の一枚を指差した。 〈紅〉と書いてある。ベニ。

 ……紅。

「これが……俺の……」

 触った指が、震えた。はじめて貰う、まともな名前だった。その小さな札は、俺が今、この世に生きている、たった一つの証みたいに思えた。頼りなく、薄っぺらく、でも前を向いて真っ直ぐに掛かっている。

「そんで客は、この札だけを見て娼妓を買うことになる。つまり、」

「俺は〈紅〉の札に恥じない娼妓でなきゃなんない、ってこと?」

 やっと客の言い分を理解した。こんな簡単なことなら、もっと早く訊いとけばよかった。膝の力が抜けて、その場に崩れそうになる。

「お前は頭がよく回るな。助かるぜ」笑いを含んだ声と共に、後ろから、頭を軽く二度叩かれた。

 この人は、服は変だし、おそらく、この店において一番重要なルールを、新入りに対して教え忘れてしまうような恐るべき無神経だが、何だかとても、とても良い感じがする。背後のボスに向き直って、俺は言った。

「髪を、もう少し切りたい。色も、赤毛にした方がいいかな。あと、部屋の一番大きいカーテン、あれも赤いのにしたい。先にそれだけ、俺に金を使って。いいでしょ? もし最初にボスがこのこと教えてくれてたら、そのくらいの金、この一週間で稼げてた」

「ボスを脅すのかよ、とんでもない奴だな、お前。ま、でも、今回のことは完全に俺のミスだ。それで許してくれるんなら、言う通りにするよ。……本当に、悪かった」

 ボスは、俺に頭を下げた。

 俺はびっくりして、本当にびっくりして、何の反応もできなかった。深く下げられたボスの頭を見ていたのは、おそらく二、三秒くらいのことだったのだろうが、俺にはものすごく長い時間に感じられた。頭を元に戻したボスは、「他に欲しいもんはねぇのか? 今なら俺はお前の言いなりだぜ」と、歯を見せて笑った。

 俺の涙腺が働いていたら、今頃ぼろぼろ涙をこぼして泣いていただろう。俺の前に突っ立っているこの人は、毒蛇じゃないけど、娼館で子供を働かせるような人間だけど、でも、まともだ。今思えば、最初からそうだった。見ず知らずの、しかも、毒蛇の息子に変装してやって来た妙な子供相手に、ボスはふつうに話をしてくれていた。

「あ…………、ありがとう。ありがとう。ありがとうございます、ボス。あの、準備は、ボスに任せてもいいの」

「ああ。理髪師呼ぶから、それまでに昼飯済ませとけ」

「ここに呼ぶの?」

「……お前、ジョギングが趣味とか言わないよな」

「言わないけど、どうして?」

「たった一歩でも、娼妓が表に出るのは禁止してる。裏庭も駄目、窓から顔を出すのも駄目だ」

 ずいぶん徹底している。あんな恐ろしい事件があったのだから、当然かもしれない。

「わかりました。……そう言えば、警備員も店の中に居るけど、俺たちが外に出られないのと同じ理由なの?」

「そう。世の中物騒だから」茶化すように節をつけてボスは言った。

 この店に居るということは、当たり前に守られているということだと、改めて知って、自分の体から噴水のように歓びが振り撒かれているのが見えるようだった。

「お前さ、毒蛇の子供の特徴、よく知ってたな」今さら、そんなことを訊かれる。

「……毒蛇にそっくりだってことしか知らなかったよ。そんなに似てた?」

「遠目に見たらな。結構似てた」

「そっか。……ほんとに、居るんだな。毒蛇って」

「夢みたい、か? ここに来た奴は、最初にだいたいみんなそう言う」

「夢みたいだよ。この辺の路上で生きてる子供は、毒蛇に守られる日が来ることを夢見て、その夢だけを土産に死ぬのが、決まりなんだ」

 そう言ったとたん、前の店で一緒に働いていた奴らの顔が、どんどん、目の前を横切って行って、止まらなかった。死んだ奴、生きてる奴、一言も口を利いたことのない奴。そこに、あの、俺に懐いていた金髪の少女の顔が大きく映った瞬間、俺が店を逃げ出したことで起こり得る、最悪の事態も一緒に頭に浮かんで、また鋭く、こめかみが痛んだ。

 俺は、あの子の笑顔も、泣き顔も、振り払ってボスを見た。例えあの子が、絶望の中で殺されても、後悔はない。俺は、後悔しない。何度でも言い聞かせる。

「でも、毒蛇は聖人でも神様でもないただの人間で、この店も、ただの娼館だ。ここで暮らしたきゃ、お前はこれからも大人相手に体を売って金を稼がなきゃならない。前の店より多少はマシな環境かもしれねぇけど、結局やることは一緒だぜ」

「俺が前の店でやってたことは、客のおもちゃになることだったから……多分、俺がこの店で〈紅〉としてやらなきゃならないこととは、だいぶ違うと思う」

 俺は言った。ボスは、少し口を開きかけたが、結局何も言わなかった。

「じゃ、ご飯食べてきます」

 食堂に向かって歩き出したところで、背後から、「紅」と呼ばれた。俺が自分を〈紅〉だと自覚してから、初めて呼ばれた、俺の名前だ。

「はい」大事に返事をして、足を止める。

「髪な、赤毛にするより、今の色の方が似合う。どうせそれも染めてんだろうけど。睫毛の色が元の色か?」

 思っていたより、細かく観察されていたらしい。俺は思わず髪に手を持っていった。

「睫毛より髪の毛の方が、もっと薄い金色だった。……髪、切ってもらうだけにします」

 再び食堂へと顔を向けかけた俺に、「あ、」とまた何か思い出したように声を掛けてくる。俺が、前に傾けた重心を後ろへ戻すと、ボスはこう続けた。

「それと、食堂に居るコックは医者もやれる」

 その言葉に、何と返事をするのが一番スマートだったんだろう。「わかりました」とか、「ありがとう」だろうか。俺は、どうして怪我をしていることがバレたのかと焦ってしまって、咄嗟に返す言葉が出なかった。客が「殴りました」と申告するわけもないだろうし、顔に目立つ傷もなかった。長袖を着ているのも、初夏の長雨に入るか入らないかという時季を考えれば、不自然ではないはずだ。

 俺は、ボスを体ごとちゃんと振り返って、見た。

 さっきボスに感じた、『なんだかすごく良い感じ』が、もっと濃く、もっと、ぐっと密度を上げて、俺の心の、自分でも触れないくらい熱いところに落ちてきて、もう俺にもどうにもできない。

「……ボス、俺、あなたに惚れそうだ」

 口にしたときには、もう取り返しがつかないほど惚れていた。


「初恋は実らない」なんて言葉、そのときはまだ知らなかった。しかも、ボスが、大人の女しか好きにならないだなんて、それが大人の男の大多数だったなんて、大人に買われてばっかりだった俺には、知る由もなかった。

 でも、きっと知ってても無駄だった。何万の壁があっても、何億の甘い囁きを聞いても、俺は絶対にボスを好きになっていた。

 その裏付けのない頑固さが、俺のいまだ続いている七年物の初恋だった。

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