05

暗がりの色はくれない

「紅ィ、ちょっといいか」

 月に一度の店休日明けの朝だった。

 ボスの声で目覚めるなんて贅沢、一年に何度もない。幸福を噛み締める間もなく飛び起きて、「すぐ開けます」と返事をしながら、鏡台の抽き出しからへちま水を取り出して顔にはたき、鏡を覗き込む。睫毛が一本抜けているのを摘んで捨て、扉を開けた。

「悪ぃな、休憩中に」

「いえ、…………、」

 ボスの隣に、白いのが居た。

「お前には先に紹介しとこうと思って。こいつは深果。今日から〈白〉の部屋に入る」

「はじめまして。深果と言います。よろしくおねがいします」

 澄んだ薄青い双眸で、俺をまっすぐ見上げて、ミカは言った。

 俺は一瞬、知っている、と思った。しかし、こんな、ほとんど硝子玉の光り方をする瞳を嵌めた人間など見たことがないので、気のせいだろう。俺を見ているはずなのに、澄み渡る瞳は、まるで何も映していない。しんと静まり返っていた。

「俺は紅。よろしく」愛想笑いで俺も自己紹介をした。

「べに、さん」ミカは俺の名を繰り返した。

「男は今、お前と銀だけだろ。色々教えてやって」

「えっ、男なの?」

「はい」ミカは、妙にはきはきと返事をした。

 俺はべつに、女だと思っていたから愕いたわけではなかった。こいつに、男だとか女だとかの性別が付いているということ自体に、ぎょっとしたのだ。ぎょっとして、そして、釘付けになった。色の薄い、柔そうなふっくらとした肌と、金の産毛。白金の細い髪。大きな二皮眼に、長い睫毛。子供の美を集約したような造形をしている。陳腐な例えだが、本当に、まるで天使だ。外見だけで採点するなら、俺は百点満点を付ける。それくらい、このミカという新入りは、出来過ぎた、これまでの〈白〉の中でも、飛び抜けて〈白〉らしい見た目をしていた。

 俺の反応を見て、ボスはニヤニヤしている。

「さ、深果。次はお前の部屋だ」ミカの肩に軽く触れると、俺の部屋の中には一歩も足を踏み入れないまま、ボスは身を翻して廊下を歩いていってしまう。「はい」と、また変な歯切れの良さで返事をしたミカが、それを追った。

 俺の部屋は、中央階段を上って右手側、西翼の一番端に位置する。〈白〉の部屋は逆の端だ。俺は扉を一旦閉めて、そこに耳を押し当てた。二人の足音は、廊下に敷きつめられた暗緑色の絨毯に吸い込まれてしまい、戸板を隔てると全く聞こえてこない。息を殺し、東の端の扉が閉まる僅かな音が届くのを待ってから、俺は部屋を出た。

 ボスが受付に居なけりゃ、朝だろうと夜だろうと、上手な音で階段を歩く意味もない。いつも通りにやろうとする体の動きを捩じ伏せ、わざとギィギィうるさい音を鳴らせて降りはじめた。

 クソ、本当だったらこの時間は俺とボスのラブラブタイムなのに。胸の奥から、黒い煙を吐くたくさんの虫が湧いてくる。こんな妙なイメージが浮かんでしまうのも、こないだ真さんから文字の虫の話を聞いたせいだろう。

 階段の真ん中を過ぎた辺りで、俺は左側の手すりに寄りかかって足を止め、ボスの居ない受付を見下ろした。机の上には、読みさしの文庫本が伏せて置いてある。「アア」と声にして、俺は乱暴なため息をひとつ、本に向かって落とした。やっぱり、こんな不貞腐れたやり方は俺らしくない。そう思い直し、受付でボスが本を読んでいるいつもの朝と変わらない調子で、残りの階段を降りることにした。左足で次の一段を踏むと、軽やかな音が立つ。調子良くそのまま下っていき、最後の一段を飛ばしてロビーに着地するころには、黒い虫たちのイメージも蒸発していた。

 ボスの居ないロビーは、相変わらず主役を待つ背景といった趣でくすんでいた。ボスが受付に居るときより、照明三つ分くらいは暗い気がする。ボスの格好がどんなときでも派手だから、極楽鳥の花を飾るよりずっと明るくロビーに彩りを添えることができる。それはそうに違いないんだけど、きっと本当に、ボスの代わりに受付に豪華な花を生けても、何の意味もない。着飾った娼妓を連れてきてここに座らせても一緒だ。ボス以外に、ボスの居ないロビーの空虚を埋められるものなどありはしない。

 この店が静かに待っている主役は、俺たち娼妓なんかじゃなくて、ボスなのだ。ボスの居ない受付を見るときに、俺はいつもこのことを思い知る。

 俺はがらんどうのボスの指定席を占領した。机の上に放ってある文庫本を、勝手にしおりの位置で開いてみる。当たり前だが、小さな文字がずらっと並んでいて、さっぱり分からない。

「お疲れ」

 受付に戻ってきたボスは、俺の姿を認めると、営業時間外には珍しく、ちゃんと椅子に座った。俺にいつもの場所を取られていたからだろう。受付の椅子は、背もたれと肘置のある黒い革張りで、見るからに年代物だが、座り心地は悪くない。俺はボスを振り返らずに机の先に腰掛けたまま、「お疲れさまです」と返した。 

「どこで見つけて来たの、あんなの」俺はちょっとひねくれた気分のまま問う。あんなの、と言ったが、これは悪い意味ではなく、『あんな上等なの』の略だ。ボスは「そのへん」とぞんざいに答えた。

「道の上に居たの?」

「裏通りでぼーっとしてたから釣ってきた。大物だろ」

 店の娼妓に欠員が出た場合には、裏路地のストリートチルドレンや、街娼の中から、補充すべき部屋の娼妓としてふさわしい素材を見つけて来るのが、ボスの元々のやり方だった。ただ、この辺りでは近年、そういう子供の数はずいぶん減っているので、近ごろはボスが自分で探してくるより、遠方の娼館からの紹介でやって来る職業娼妓の方が多くなっていた。裏路地から、ボス自ら子供を拾ってくるのは久しぶりだ。

「じゃあ、あいつ、ウリ?」

「いや、それがさ、何とさららしいぜ」

「マジで……?」

 思わず振り返る。あの顔を引っ提げてバックバージンで居られるだなんて、七年前だったら有り得ないことだ。半日も持たないと断言できる。まったく、神様――毒蛇の影響力というのは凄まじい。

 ボスは全く悪びれた様子もなく「さらっつっても、拡張してから客に出すんだから意味ねんだけどなァ」と、欠伸混じりに言った。それから「本返せ」と手を差し出してくる。渡すときになって、俺はようやく表紙に『伊木真一朗』と書かれてあるのに気付いた。真さんの本なら、ボスは単行本の内に貰って読んでるはずだ。書き上げてすぐのやつや、ゲラの段階で見せてもらって、偉そうに中身に文句を付けていることまである。文庫になったのを読み返すなんて、よっぽど好きな話なんだろうか。ボスがどういう話を好んで読むのか、想像もつかなかった。俺はボスのどうでもいい細かい好み――カラーを混ぜるより黒一色のドレッドが好きで、爪は白い部分を一ミリ残すくらいで短くしておくのが好きで、女は尻が命、等――はあれこれ知っているが、重要だと思えること――どんな女と付き合ってきたのか、昔はどんな子供だったのか、なんで娼館の店長なんて仕事を選んだのか、等等――はほとんど知らない。すぐそこに見える、壁と一体化した受付の奥の扉から先が、どんな部屋に繋がってるのかすら知らなかった。扉の向こうはボスの生活スペースになっているらしいが、俺は中に入れてもらったことがなかった。「ボスの部屋はどうなってるの?」と質問の一つでも出来れば、あんがい簡単に事は運ぶのかもしれないが、それを訊くのは娼妓の分を超えてしまう気がして、口に出すことができないでいる。

 俺は常に、淡竹屋の看板の〈紅〉で居たい。

 お客さんの前でそうあるのは当たり前だが、俺は誰よりボスにとっての、完璧な〈紅〉でありたかった。俺が淡竹屋の看板娼妓である限り、ボスはきっと、稼ぎの分だけ俺を他の娼妓より特別に扱ってくれるし、俺もボスの傍に胸を張って居られる。そのためなら、なんだってする。

 今、俺の居る『ボスの愛する店の一番人気』から『ボスの愛する人』まで、一体どれくらいの距離があるのだろうか。ノンケのボス相手じゃどんなに頑張ってもここまでしか進めないし、これ以上を望んでボスを困らせることなど死んでもしたくないので、距離を知った所で、どうにもなりゃしないんだけど。

「はよーございます」

 頭上からいきなり降ってきた挨拶に、顔を仰向けたその瞬間、何か白い固まりが俺めがけて落ちてきた。咄嗟に避けようとして、バランスを崩してしまう。座っていた机の端から、落っこちる、その寸前に、俺は腹をぐいと後ろへ抱え上げられて助かった。

「ただの紙くずだ」

 耳のすぐ後ろで、ボスの声がする。腹に廻されているのは、ボスの腕だった。ボスに抱きとめられているのだ。不自然に宙に投げ出された俺の足の向こうに、ボスの言葉どおり、丸められた紙くずが転がるのが見えた。くっついている背中が熱くて、二の腕と太腿の外側が、ヒリヒリと、焦れったいようになった。ボスのことを一人で考えてるときにも、たまにこうなる。店を飛び出してどこまでも走って行きたくなってしまう。たまらず身じろぎすると、俺の首の後ろ、ボスの胸許から、ジャスミンぽい女物の香水のにおいが上ってきて、俺の鼻の奥にこびりつく。すると、今の今まで俺を走らせようとしていたヒリヒリは、腹の中のものを余さず掃除機に吸い取られているような、ぞっとする痛みに紛れて、分からなくなるのだった。

「すみません。ありがとう、ございます」

 急いで体勢を立て直して、俺はボスから体を離し、もう一度上を向く。紙くずを投げた犯人は、階段の手すりから身を乗り出してこっちを窺っていた。銀色の髪が、踊り場の格子窓から射す日に溶けて輝いていた。笑って「悪ぃ」と片手を上げているこいつが、ウチのもう一人の男の娼妓である〈銀〉だった。

「それ、急ぎの注文なんだ。弓助さん、すんません、できたら今日中でお願いします」床に転がった紙くずを指してそう言うので、俺は仕方なく拾って皺を伸ばし、ボスに渡す。すると今度はボスの眉間に皺が寄った。

「お前なぁ、こういうのはもっと早く言えよ」上向いて、乱暴に言う。

 銀は階段を派手に軋ませながら駆け下りてきた。

「だって今思い出したんですもん。ほんと、申し訳ないですけど、宜しくお願いします!」

「何?」俺はボスを見上げて訊ねる。

「篠山さんの誕生日プレゼントだとよ」手の中の紙を元のようにくしゃくしゃに丸め、それをボスは銀の顔めがけて勢いよく投げつけた。「手間賃取るからな」と言い捨てて、受付奥の扉の向こうへ引っ込んでしまう。これから、きっとあらゆるツテを駆使して、大急ぎで品物を手配するのだろう。

 俺たち娼妓が、必要な備品を十日前後も余裕を見て注文するのには理由がある。それは、例えばトイレットペーパー一つでも、ちょっと足りなくなったからそこまで行って買ってくる、ということがこの店においては不可能だからだ。ボスは、ここら一帯の商店や同業者、果ては事情通の一般人にまで、徹底的にシカトされている。物を売ってくれないばかりか、店の傍を通るのも嫌がられるそうだ。現在、淡竹屋に物品を卸してくれているのは、全て毒蛇の息のかかった業者だった。

 だから本来なら、今日の今日で頼まれた品物を用意するなんて無理な話なのだが、物が篠山さんへの大事なプレゼントとなるとそうも言っていられない。なにしろ、篠山さんという人は、破格の契約金を払って銀を無期限で独占予約している、上客中の上客なのだ。

「尖ってるとこ刺さった……」銀はのんきにそう言って、通った鼻筋の真ん中あたりをさすっている。

「自業自得だっつの。あーあ、銀サイテー」

 全く今日はついていない。ボスとのラブラブタイムを邪魔されまくりだ。わざとふてくされた態度で、足下に転がっていた紙くずを拾い、屑篭に投げた。かすりもしない。

「なんだよー。俺のおかげで朝から弓助さんと引っ付けたんじゃん」

 俺が毎朝せっせと受付に通う理由を知っている銀は、反省の色もなくそう言った。俺は大げさにしょげた表情を作って銀を見る。

「女の香水のにおいした」

「……そ、そりゃあ、……ごめんよ」銀は、素直に謝ってきた。

 そう、昨日は折しも店休日。俺たち娼妓は、それ以外にも月七日以上の休みを取らねばならないことになっているが、ボスにとってはひと月に一度の、丸々店を空けることの出来る日だ。どうせ、朝まで尻の形の良い大人の女とお楽しみだったんだろう。ちくしょう。

「な、メシもう食った?」言いながら銀は、俺が枠から大幅に外した紙くずを、屑篭にちゃんと捨てた。

「まだだけど」俺は唇を尖らせて返す。

「じゃ、お詫びに良いモンあんだ。食堂行こうぜ」そう俺を誘うと、下手な作り笑いのように見えるいつもの顔で笑った。

 銀は、目許が特にきつく、一見かなり冷たい感じのする美貌をしている。そのせいか彼が本当に笑うと、きっぱり貼り付いていた目鼻の配置が歪められて、ぎくしゃくして見えるのだ。俺はその下手な笑顔を気に入っていた。

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