06
暗がりの色はくれない
「……いいもんって、コレ?」「そ。昨日ダーリンに貰ったの。みんなで食べてって」
銀は、客との間の恋を誰にも隠していなかった。むしろ見せつけている風ですらあったが、それを少しも厭味に感じないのは、銀の心が、二人の間に積み上げられた札束のタワーを乗り越えて、いつも篠山さんに寄り添おうとしているからだろう。
調理場の前にくっついた配膳台の下に、簡易いけすが置いてある。覗くと、底の方に太くて黒いうねうねが見えた。俺は反射的に顔ごと視線を上に向ける。そのまま「先生、俺、親子丼が食べたい」と抑揚のない早口で調理場のコックに注文し、いけすに背を向けて奥の席へ急いだ。
コックを「先生」と呼ぶのは、ウチの調理主任が医務室長でもあるからだ。どっちが本職というのでもないが、娼妓はみんなこの人のことを「先生」と呼んでいた。
「ちょ、紅、ここは鰻を注文すべき所だろー。空気読んで、空気。先生、俺はもちろん鰻ね。せいろ蒸しがいいな」
なんと面倒な注文をするんだと俺は呆れたが、先生は二つ返事で引き受けている。そういえば、これまでに先生に頼んで出てこなかった料理などないのだった。
「お前、鰻嫌いだっけ」
「泥臭いし、あと、見た目が。なんかぬるっとしてるし……」
「アレみたい?」
俺は答える代わりに、正面に座った銀を思いっきり鼻で笑ってやった。今から鰻を食べるのはこいつなのだ、馬鹿め。しかし当の銀は、そこまで考えが至っていないのか気にもならないのか、肘杖をついていけすの方を見遣った。
「でも鰻が駄目とは困ったなぁ……詫びは今度な」
「期待してねぇよ」
銀の「詫びは今度」という言葉に、深い意味はなかったのかもしれない。でも、その律儀さに、喉の奥が絞られた。
俺と銀は、淡竹屋へ来るまでの道のりが、少し似ている。気が付いたときには、大人のペニスと暴力を受け入れて飯を食ってて、蔑称以外のろくな名前を持ってなくて、何度も死ぬ目に合い、今度こそもう死ぬ、その直前で、淡竹屋という活路を見出した。そしてこの店で、俺はボスを、銀は篠山さんを、好きになった。
生き方の形が似てるから、銀が篠山さんを想う気持ちが俺にもよく分かるかと言うと、そう上手くは行かない。俺はボスを好きだと思う限り、永遠に片想いをしていくだけだが、銀の恋はすでに叶っている。その違いを置いても、俺には篠山さんへの恋など理解不能だ。同じように、俺がボスを想うときのみじめさとか、嬉しさとかを、銀と分かち合えてるとも思わない。分かち合いたいとも。
でも、俺たちは、あの地獄から抜け出して、今は、つやつやした肌で人を好きになることが出来るという奇跡を、互いを見るたび確認する。俺たちの現在の日常。かつては奇跡だったもの。それは、今も心のどこかで、途方もない恐怖に震えて唇を噛んでいる小さな俺たちの頭を、夏の夜のわずかな風みたいに撫でて行く。もちろん、そんなんじゃ大して涼しくなりはしないから、俺たちはもっともっとと欲張る。火の中の焼け石にスポイトで少しずつ水を垂らして冷まそうとするような、勝算のない、苛立たしい挑戦でも、いつかどうにかなるだろうと、俺たちは半ば投げやりに、熱々の暗がりをそれぞれに抱えて、作業を続ける。ここで暮らし、交じり、たまには全てを面倒に思ったりしながら、続けていく。
ゆっくり味わってめちゃめちゃ美味しい親子丼を平らげ、食後の緑茶を飲んでも、銀の注文した鰻のせいろ蒸しは出来上がる様子がない。付き合ってだらだら遊んでいると、誰かが階段を降りてくる音がしはじめた。
「桃」銀はそう言って、卓上の楊枝入れから爪楊枝を一本抜き、テーブルの真ん中に置いた。
「紺」俺も応じて、同じように楊枝を置く。楊枝一本が、次に客から貰うチップ一回分の、俺たちがよくやる他愛ない賭けだ。互いに無言になって、足音に注意する。
所々に大小のビーズの飾りが付いた、長い紐暖簾をかき分けて食堂に入ってきたのは、藤だった。「なんだよーつまんね」と低く呟いて、銀は二本の楊枝を爪の先ではじいた。
「先生、ピルなくなりそうなの。新しいシートちょうだい」入口を潜るなり、藤は調理場に向かってそう声を掛ける。コックにピルを注文する娼婦、という珍妙な風景も、ここ淡竹屋では日常のものだ。
先生が薬を取りに調理場の裏にある医務室へ行ってしまうと、奥の席に陣取る俺たちの方へ、藤が意味ありげな流し目を寄越してきた。俺たち、と言うか、目線は完全に俺一人を捉えている。どうも、嫌な予感しかしない。
藤はじぃっと俺の目を見据えたまま近づいてきて、俺の左隣の席へわざとらしく足を組んで座った。
「こないだ、仕舞だったそうねぇ……」更に髪を大げさにかき上げてみせる。亜麻色の巻き毛がシャッと俺の頬を叩いた。
「え、何。何の話?」銀も、おもしろがって身を乗り出してくる。
「確かにあの日はあんた以外みぃんな予約が入ってたみたいだけどさ。真さんの仕舞なんて、他の予約客を蹴ってでも手に入れたい、有難ぁいものよねぇ。銀も、そう思うでしょ?」
「うわー、紅、そりゃ駄目だわ。真さんファンクラブの一員として有り得ないわ」
藤たちが勝手に作った伊木真一朗ファンクラブに、俺も銀も強制入会させられているのだった。活動目標は『文壇の若き獅子こと淡竹屋ナンバーワンウルテク美形常連こと伊木真一朗を、皆で公正に愛し、感謝すべし』というふざけたものだが、おそらく俺はこの『公正に』という部分に反したことになるのだろう。
「申し開きがあるなら聞いてあげてよ、紅ちゃん……」
いつもはちゃん付けなんてしないのだ。甘く上がった語尾がおそろしい。
あの日の『お任せ』は、最初から仕舞の予約だったわけじゃなく、途中で真さんの気が変わったのだ、と説明したところで、俺が抜け駆けしたのは事実だし、聞く耳など持ってくれないだろう。
「ボ……ボスに聞いたの……?」
「誰だっていいでしょ」腕組みをして、俺のまぬけな質問をぴしゃりと跳ね返す。まるで閻魔様だ。銀はと言えば、同じように神妙な顔で腕組みをして、藤の言うことに頷いたり、俺を上目で睨んだりして、一人で遊んでいる。まったく、さっきお預けにした詫びの代わりに、今、助け舟を出してくれれば良いものを。期待しないでおいて正解だった。
「ごめんなさい……」小さくなって謝ってみるが、
「ごめんで済むならファンクラブなんざいらないのよ!」
アルトのよく通る声で一喝されてしまう。閻魔様ご自慢の、枝毛ゼロのふわふわの長い髪が、今日は地獄の業火に見える。俺はぴったり合わせた両方のてのひらを目の高さに持っていって、頭を下げた。
「次から抜け駆けなんかしねぇから許して、ホラ、あの上等の太った鰻、俺の分は藤にやるし! お願い、勘弁して」
一瞬だけ、藤に分かりやすいようにと思って、床と水平になった腕の上からいけすを覗き見た。が、慌てて視線を戻す。やっぱり気色悪い。藤もいけすを一瞥したが、俺とは違う理由で、すぐに眇めた目をこっちに戻してきた。
「あんた鰻嫌いじゃない」
「いや、まぁ、そうなんだけど……」
さすがは閻魔様。何でもお見通しだ。いいかげん、変な汗が出てきたところで、
「…………嘘よ。冗談よ」
てのひらをひらひらと振って、藤はやっと閻魔様ごっこを終了してくれた。俺は安堵して、温くなった二杯めの緑茶をさっさと飲み干し、新しい一杯を注ぐ。
「もぉ、昨日の仕舞客がさ、下手糞なくせに朝方までガツガツガツガツ、ちっとも寝かしてくんないの。それでイラついてて、つい意地悪言っちゃっただけ。ごめんね。でも鰻は貰っとくわ。今夜も仕舞だし、精を付けなきゃ」藤はそう言うと、いつの間にか先生の戻っている調理場に駆け寄って行って「わたしも鰻がいいわ。蒲焼きにしてね」と注文をつけている。早速、いけすから一匹の鰻が掬い上げられた。俺はまたもや目の端であの気味の悪いうねうねを見てしまって、今度は体ごと調理場の逆方向を向いた。身の毛がよだつ。手足の体毛はすべて処理してるので、俺には立つべき毛などないのだが。
「ほんとに太った良い鰻。おいしそうだわぁ。でも、どうしたの。きっとものすごく高いんじゃない?」訊ねつつも、贈り主の見当はついているのだろう。席に戻ってきた藤の視線は、銀に当てられていた。
「さぁ。昨日貰ったんだ。篠山さんが釣ったんだって」
「やだ、すごい。いいわねぇ、愛されてるわねぇ」
「まーね」銀は曖昧に笑って流した。俺はそれにちょっと引っかかる。銀の性格なら、もっと、のろけの一つでも返しそうな場面だったからだ。
「よぉくお礼言っといてね」
「了解」
「あ、俺が食わなかったとか絶対言うなよ」
「了解了解」本当に了解したのか疑わしい軽さで返事しながら、銀はようやく出来上がったせいろ蒸しを配膳台まで取りに立った。
「ね、紅。そう言えば今日、新しい子が来るんでしょ? しかも男の子! もう見た?」藤が俺を覗き込んだ。
「ミカだろ。朝見たよ」
「ミカ? ……へぇ、名前あんのか。すげーな」黒塗りの四角いせいろを大事そうに両手で持って、銀が席に戻ってくる。
こだわりのない調子でそう言った銀も、藤も、俺と同じくこの店で与えられた源氏名の他に自分の名前はない。現在の淡竹屋において、親から貰った名前を持っている娼妓は、ミカを除いて四人居るが、四人とも、その名を口にしたがることはない。初めから親が居ないか、親によってどん底に突き落とされた奴しか、この店には居なかったのだ。ミカのような奴は初めてだった。
「で、部屋どっち?」銀が問う。ここのところ娼妓が欠けていたのは〈白〉と〈翠〉の二部屋だけだった。
「白」
と答えた俺の声と重なって、
「わ、すっごい、おいしそう! ねぇ、ちょっとちょうだいよ」
話の途中で銀がせいろ蒸しの蓋を開けたので、藤の興味はそっちに飛んでしまった。湯気の上に顔を持って行ってはしゃいでいる。
「えー、藤の鰻もすぐ来るって」
「だってあたしのは普通の蒲焼きだもの」
「しょうがねぇなー」文句を言いつつ、銀はひっくり返した蓋に、藤の分をよそってやっている。俺はそれを横目に、ある冬の朝のことを思い出していた。
なぜかは分からないが、おしなべて、濃い色の部屋に暮らす娼妓よりも、淡い色の部屋の娼妓のほうが長く続かない。請け出されたり、施設や学校に入れてもらえたりして、この暮らしから早々と上がって行く奴も多いし、弱って仕事が続けられなくなったり、最悪、死んでしまう奴も、これまでに何人か居た。
例に漏れず、ミカの前に居た〈白〉も、ほんの一ヶ月ほどで淡竹屋から出て行ったのだ。玄関からじゃなく、二階の、自分の部屋の窓から。
あの朝、〈白〉が飛び込んだばかりの窓枠に切り取られた晴れ空を眺めながら、俺は、(俺にとっては極楽であるこの場所が、他の誰かにとったら耐えがたい地獄だったりすることもあるんだろう。俺の大好きなボスが、周りからは徹底的に避けられているように)と、そんなことを思っていた。(輪郭の甘い冬の雲に彩られた晴空はとてもきれいだ)と思うのと、あまり変わらない強さで。
「にしても、そっか、〈白〉かー、……今度は長続きすればいいな。で、どんな奴?」銀が話を戻す。
「俺よりチビで、金髪碧眼の天使みてぇな超美形。年はお前らより下じゃないかな」
藤と銀は俺より一つ下の十六歳だが、二人の発育が良すぎるうえに俺がチビなので、とても年下には見えなかった。
「やだ、天使だって! すっごい楽しみ。あたしかわいい弟が欲しかったのよねぇ。あんたたち全っ然かわいくないんだもの」藤は失礼なことを平気で言う。
「銀はともかく俺はかわいいだろ」冗談で反論すると、
「バッカお前、顔見せただけで相手勃起させるような奴は、かわいいとは言わねんだよ」
「そうよ、ノンケの客だってその気にさせちゃう超絶魔性のくせに」
二人して真顔で言い返してくるので閉口した。大げさに言い過ぎだ。俺の魔性が有効なのはごく一部の男だけで、一番効いてほしいボスも、当然どっちにも含まれてないんだから。