10

暗がりの色はくれない

 また、鬼畜の仕舞予約が入った。深果の代わりに相手をしてからというもの、妙に気に入られてしまい、太った腹を揺らして週に何度もやって来る。

 最近ますます常連ぶるようになったこの客は、特別扱いをされないと拗ねてどうしようもないので、道具を使うときにも、一階に連絡を入れることができなくなっていた。ボスにバレたら、最悪、クビかもしれない。俺はそれだけが気がかりだった。自分の身に危機が及ぶ可能性についても、考えないではなかったが、娼妓の部屋には緊急用のブザーが、客の目に付かぬようあちこちに隠されているので、もしものときにはなりふり構わず、それを思い切り押せば良い。

「紅、ベッドから降りて四つん這いになるんだ。さぁ早く」

「はい」

 さっさと服を脱げと言われて言う通りにしたら、次はこれか。どうせ仕舞なんだから、焦ることなんてないのに。内心毒づきながら、鬼畜に尻を向けて床に這いつくばる。

「足をもっと開くんだ」

「はい」

「尻の穴を自分で寛げろ」

「はい、只今」

「みっともない姿だなぁ、汚ならしい」

 そんなせりふに、屈辱など感じないが、みっともないのは誰が見たって無闇に太ったお前の方だと、俺は腹の中で唾を吐いた。煮えくり返るはらわたを更にひっくり返すようにして、中指と薬指で自分のケツの中を掻き回す。

「……っ、っん、う…………」

「指はそれだけしか入らないのか?」

「……い、いいえ、只今、」人差し指も挿入する。

「尻をもっと持ち上げろ」

「はい」

「そのまま立て」

「は、」

 予想外の指示が飛んできた。指を止めてしまう。「誰が止めていいなんて言った?」とすぐ見咎められて、俺は許しを請いながらまた指を動かしはじめる。

「立てと言ってるんだ。早くしろ」

「はい、只今」

 右手を尻に突っ込んだまま、何とか立ち上がった。鬼畜の視線が俺の顔よりずいぶん下に当てられている。どうせ俺の股間を見て昂奮してるんだろうと思いつつ、鬼畜の視線の先を盗み見た。やっぱりそうだ。密度は濃いが、生えている範囲の狭い恥毛の下で、半分勃起した俺のペニスが間抜けだった。

「壁にあすこを擦り付けてみせろ。さあ、」

 何を言い出すんだ、この馬鹿は。

「……は、……はい…………」

 俺は急に重たくなった左手を、壁までなんとか伸ばした。指の腹でやんわりと、紅色の壁紙を触る。ほんの少し湿気を含んだような、優しい感触だった。白い指先がそこから馴染んで紅色の中に溶けていけばいいと思った。ベッドの端に腰掛けている鬼畜をちらと振り返る。そしてまた、左手の指先で壁の模様をそっとなぞる。焦らして喜ばせようとしてるんじゃない。俺は本当に、壁紙を汚すのが嫌だった。

 この部屋の壁紙は、俺が初めて十二ヶ月連続で売上一位を成し遂げたときに、褒美としてボスから貰ったものだ。何でも買ってやると言われて「紅色の壁紙がほしい」と答えた俺のために、何冊もカタログを取り寄せてくれて、それでも決まらず、ボスや真さんとも相談して、牡丹唐草の浮き上がる紅色の壁紙を特別に作ってもらったのだ。

 牡丹唐草と言えば、ボスだ。ボスは、牡丹唐草の刺繍が入った白いスリーピーススーツを色々と着回して、長年愛用している。初めて俺がこの店に来た日には、上下揃いの別のスーツの下に、このベストを着けていた。こないだは、ジャケットを。俺のは、赤い牡丹唐草の壁紙。モノどころか、同じ牡丹唐草でも図案が全然違うので、とても対のようには見えないけれど、俺は密かにお揃いのつもりでいた。ボスが、あのスリーピースのどれか一つでも身に付けている日なんて、一日中繋がっているような気がして、朝から飯はうまいし誰彼かまわず世話を焼きたくなるし地顔が笑顔になるしで、平然を装うのが大変だ。

「何をしてる。こう、だ」男はまごつく俺の尻を鷲掴むと、壁へ向かわせて、そのまま下半身を前へ押しやった。ペニスが、壁と自分の体の間に挟まれ、擦られる。客はそのまま、両手で抱えるように掴んだ俺の尻を、上下に乱暴に揺すった。

「あ、ああ、ああッ」

「自分で動け」そう言い捨てたのと同時に、尻を掴んでいた手も離れる。俺は、そのまま壁から離れようとする自分の恋心をシャット・ダウンして、膝を曲げたり伸ばしたり、腰を上下左右に揺らしたりしてペニスを壁に擦り付けた。汗だの、先走りだのが、壁紙に擦り込まれていく。見てるだけで鬼畜がビンビンになるくらいのやらしい動きで腰をくねらせ、ペニスだけじゃなく乳首も擦り付けて、もちろん右手は指四本でケツ穴を掻き回しながら、アンアン声を上げて見せた。

「尻がもう準備万端だ。入れてほしいんだろう」

「はい……っ」

 ありったけの切ない声で返事をする。白けてきていたが、入れて欲しいのだけは本当だったので、本気で切迫した良い声が出た。そのことに、ますます馬鹿げた気分になる。それでも、盛大に行ったマスターベーションで、俺の体は完全に昂っていた。相手が俺と過ごす時間に金を払っている以上、その時間、俺の顔と体とケツ穴は、この客を慰めるためだけに存在している。

「入れて下さいと言え」

「入れて下さい」

「どこに何を入れてどうしてほしい、」

「い、……あぁ、あなたの、めちゃめちゃ太くて熱いペニスで、俺の穴をめちゃめちゃにして……」

「もっとだ」

「あなたのペニスを入れて下さい、俺のいやしいアナルを、あなたのペニスでいっぱいに広げて下さい」

「もっと」

 鬼畜はまだ許してくれない。さすが、鬼畜だ。クソ、何でもいいから入れてくれよ。

「……ああっ、は、やく、……いっ、あ、入、れて…………」

「駄目だ。ちゃんとねだるんだ」

「お願いです、入れて下さい。俺のお尻の穴に、あなたのペニスを根元まで突き立てて下さい、お願い、早く、早く下さい、早く下さい、入れて下さい、俺にあなたのペニスを早く」新しい言い方なんか思いつかなかったので、俺はただ同じことを繰り返した。欲しくて欲しくてたまらない。鬼畜の短小でも何でもいいから、ケツに指より太いモンを入れて内側からゴリゴリと刺激してほしかった。想像に、涎が止まらない。

「腰が止まってるぞ」

 再び俺の尻を両手で掴んだ鬼畜は、まだ挿入してくれず、代わりにさっきしたよりも何倍も無茶な動きで俺の体を揺らして、壁に擦り付けた。

「ああ、ッ! ああっああっああっ、だめ、おねが、お願い、入れてぇ…………!」

 情けないことに、「入れて」とねだりながら俺は射精した。壁紙や床に、派手にぶっかけてしまう。ボスが俺にくれた壁紙。俺がボスの特別になりたくて頑張った、その証に。目が回る。最悪だ。

「お前みたいにみにくい淫乱色子は初めてだよ、紅……」

 うるせぇよ、ボケカスが。

 さっきまであんなに太い刺激を求めていたのが嘘のように鎮まったアナルに、ようやく捩じ込まれたのは、客の粗末な持ち物ではなかった。かと言って、鬼畜好みの馬鹿でかい張り型でもない。得体の知れない今更の質量に、脇の下に冷たい汗をかいた。

「さぁ、良い声を聞かせてくれよ、変態淫売」

 前の店で、さんざんこういう種類の人間の相手をしたので、笑えるほど簡単に見抜けてしまう。こいつは間違いなく、いつ何時でも、子供をいたぶることしか考えてないマザコン野郎だ。例えば、この瞬間には俺を殴らなくても、最終的には俺に暴力を振るうことが出来るようにと、それだけを考えて行動しているはず。

 次の瞬間、俺は、その考えがまったく間違っていないことを身をもって知ることになる。

 突っ込まれていた中途半端な太さの何かが引き抜かれ、一拍置いて、尻から太腿の裏に激しい熱と衝撃が走ったのだ。

「…………ッアア!」

 打たれる心構えがなかったので、愕きと、熱い痛みに、腹がひくひくと痙攣した。鬼畜はそれを目ざとく見つけて、俺を壁際に立たせたまま表向きにひっくり返すと、腹から萎んだ俺の一物にかけて、ゆっくりと鞭を這わせた。喜悦に顔を歪ませた鬼が握っているのは、安っぽい九尾鞭だった。さっき突っ込まれてたのは、鞭の柄だったのだろう。俺はいつ次の打撃が来てもいいように、奥歯をグッと噛み、間違っても壁紙に爪を立てたりしないよう、両方のてのひらを結んだ。もうこれ以上、ボスから貰ったものを汚したくなかった。

 鬼畜のぶよぶよの腕が振り上がる。

 胸を集中的に打たれた。尻や足を打たれるより、何でか知らないがずっと痛みが酷い。鬼畜は、俺を鞭打ちながら、自分の左手で達した。俺は床に零れた分を余さず舐めとり、出し切れなかった分も啜ってやらなければならなかった。ひどいにおいに吐き気がして、上手く飲み込めない。その間にも、尻や背中を打たれ続けた。

 また、頭痛が酷くなっていた。こないだ、めちゃくちゃ頭が痛くなったときも、鞭打ちの後だったような気がする。長時間、奥歯を強く食いしばって耐えるせいかも知れない。

 二度目の射精を終えると、ようやく気が済んだのか、鬼畜の鞭が止んだ。恐怖と緊張からようやく解放された俺は、疲れた体を支えきれず、壁際に崩れた。しかしすぐに、両足首を掴まれ、下肢が宙に浮く。されるがままの俺を、鬼畜はそのままベッド脇まで引き摺っていく。死体になった気分だ。見上げると、鬼畜の、汗まみれの段腹が上下しているのが見えた。ベッドの端に足を開いて座った鬼畜のために、苦労して上半身を起こす。さっきまでとは打って変わった眠たげな動きで、鬼畜は俺の後ろ髪を引っ掴み、自分の股間に押し付た。促すように、軽く前後に揺らされる。鬼畜の陰毛が瞼をチクチク刺した。俺は毛を押さえ込んで、半端に膨らんだ鬼畜のペニスを飲み込み、口と手で丹念に愛撫した。けれど、なかなかそれ以上固くならない。さっきイッたばかりだからだろうか。それとも……、と思っていると、

「下手糞。お前を痛めつけてるときのほうが、ずっと感じる」鬼畜はそう言い捨て、みみず腫れの何重にも付いた俺の胸を、ひとさし指で戯れに引っ掻いた。

「……ッぐ、…………う……っ」

 間違いなく、それとも、の方だ。

 いきなり、口の中の鬼畜の暈が増した。痛みに唸りながら、俺は決して鬼畜のペニスに歯を立てたりしないよう、必死で自分を律して、フェラチオを続けた。間違いない。こいつは、子供をいたぶらないと昂奮できない、本物の変態なのだ。

 鬼畜は、俺の傷を抉ったおかげで、何とか使えるようになったしょぼい持ち物を、申し訳程度に俺のケツに突っ込んで、突いた。その短いアナルセックスを終えると、シャワーも浴びずに寝入ってしまう。長時間鞭を振るい続けたせいで、さすがの鬼畜も疲れているようだった。

 尻が多少腫れていたり、縛られた痕が残っていたりするくらいでは、俺の他のお客さんたちは話題にもしない。でも、ここのところ三日に一度は、痣や傷痕について突っ込まれるようになっていた。見て見ぬ振りが出来ないくらいに、鬼畜に付けられた傷あとが増えてしまっているのだ。その上、今日はついに全身にみみず腫れまでこしらえてしまった。今月はまだあと五日も休みを消化しなきゃならないから、明日から五連休を取ろうか。それより、そろそろこの客を何とかしなければ、無許可の鞭打ちがボスに知れたら、タダじゃすまない……。

 ベッドの底まで沈むんじゃないかってくらい、体は重く疲れ切っているのに、考えるべきことが多すぎて、脳みそが休まらない。ついでに、鞭打たれた傷の痛みと、頭痛と、腫れ止めの薬の匂いまでもが、俺の眠りを妨げた。

 そういう状態じゃなかったなら、俺はそのかすかな音を聞き逃していたかもしれない。

 闇に混じって、聞き慣れない音が、俺に何かを知らせようとしていた。全身の神経を耳に集中させる。戸を、廊下側から誰かが引っ掻いているような、気味の悪い音がかすかにしていた。鬼畜は気付かずまだ夢の中だ。俺は、音を立てないようにだるい体を起こしてベッドを抜け出した。ガウンを羽織り、扉を薄く開く。

 そこに、銀が、真っ青な顔をして立っていた。

inserted by FC2 system