15

暗がりの色はくれない

 妙な時間に予約が入った。朝十時。仕舞客の最終チェックアウトの時間だ。睡眠時間を削れば何とかならないこともなかったが、今夜は得意客の仕舞予約が入っている。本音を言えば、少しでも寝ておきたかった。

 予約を入れてきたのが真さんじゃなきゃ、承知しなかったかもしれない。

「真さん、お久しぶり」

 二ヶ月ぶりくらいだろうか。もっとかもしれない。頭がしゃきっとせず、すぐには思い出せなかった。そのうえ自分の顔が遠くにあるような感覚に陥り、いつもより笑顔を作るのに骨が折れる。

「久しぶり。元気そうだな」

 俺のごまかしが上手いのか、真さんの疲れが酷いのかは判断がつかなかったが、真さんの目に俺はちゃんと〈紅〉として見えているらしいので、安心した。

「真さんは……元気じゃなさそうですね」

 髪型も身なりも、いつもと変わらず整っていたが、やつれた顔までは隠せていなかった。

「そう。やっと今朝、一番重要なの上げてきたんだ。まだ細々したのが残ってるけど……お陰でここんとこ寝てねぇわ寝られねぇわ。もうどうやって書いたかの記憶もねぇよ。こうなることなんかとっくに判ってんのに、どうしてもつまんねぇ話書きたくなるんだから本当、コレ、病気だな」

 仕事の区切りをつけてすぐに、俺に会いに来てくれたのだ。途端に、顔の筋肉が、すっとほぐれた。頭も、少しすっきりする。

「つまんなくないよ、真さんの本は」

「お前、いつ字ィ読めるようになったんだよ」

 とぼけた顔をしてからかってくるので、俺はわかりやすく眉を寄せて真さんを見た。

「いじわる。でも、分かりますよ。読めなくても真さんのこと知ってれば、分かる」

「そんなもんかねぇ」ことばの最後は欠伸混じりだった。

「……寝る?」

「ん。サービスいらねぇから、ちょっと抱き枕になってて。俺が寝たら勝手に遊んでていいから」

 また、虫に飲み込まれそうになってんだろうな。寄りかかってきた体を抱きとめる。真さんは、俺の心を読んだように投げやりに笑って、言った。

「血管の中までうぞうぞして、お前が居ないと眠れやしねぇ」

 真さんの短く刈られた頭を胸に抱いて、てのひらで撫でる。やさしく、より、強めに。でも、強すぎないように。

 すっかり深果に盗られてしまったと諦めていたが、まだ、俺を必要としてくれていたのが嬉しかった。

「紅、」

「うん?」

「気持ちいい。ありがとな」

「……うん。おやすみ、真さん」

 寝息が聞こえはじめたので、細心の注意を払って真さんの頭を、俺の膝から枕へと移した。寝息は変わらず続いている。俺は、背中とヘッドボードの隙間に枕を挟んで、背もたれた。疲れが薄く浮かんでいつもより一層セクシーな、真さんの寝顔を眺める。早く、真さんとめちゃめちゃエッチなことしたいな。


「おはよう」目を開けて、しばらくしてから、ようやく真さんはそう言った。

「おはよう、真さん。すっきり?」

「すっきりすんのはこれから」

 ベッドの上を半回転して、俺の腰に腕をまわしてくる。

「けど、よく寝られた。お前はほんと有能だなァ」

「褒めてもらうのは嬉しんだけど、もう夕方近いよ。仕事だいじょぶなの?」

「え、夕方?」

「十五時まわったとこ」

「あいたたた……つうかお前の方こそ、仕事は?」

「今夜は仕舞が入ってるから、それまでなら」

「仕舞? なら今日はいいよ。ごめんな、休ませてやれなくて」

「えっ、やだ!」自分でも愕くくらい、大きな声が出てしまった。「あ、いや……。ごめんなさい。あの、これから真さんも、すぐ仕事戻んないとまずい?」

「……なに、やりたい?」

「すごく。だって、俺、朝からずーっと真さんの寝顔眺めてドキドキしてたんですよ。何度襲っちゃおうと思ったことか」

「そりゃ悪かった。ほら、こっち来な、」

 片手で俺を手招いて、もう片方の手で早々に釦を外してゆく。寝ていたせいで皺の目立つ白いシャツがシーツの上に落ちた。真さんは軍人でも、会社勤めでもないのに、いつもスーツを着てやって来る。その理由がおかしくて、「弓助に舐められないため」なんだそうだ。真さんはボスより四つも若いので、今でも子供扱いされてたまらないのだとか。

 真さんのあたたかさ。真さんの指。真さんの抱き方。かっこいい顔。体。首の後ろから腿の裏に至るまでの線の描かれ方は特に完璧で、とにかくエロい。

 そして、真さんの口からふらっと出てくる言葉。どれもこれも、俺たち淫売にとっては珠玉だ。よだれが出るほど欲しい。そしてそのことを言っても「俺はこれでも小説家なんだぜ」と笑い飛ばす。さすがは、淡竹屋抱かれたいお客ランキング七年連続ナンバーワンの技だ。

「それ、淡竹屋ランキングじゃなくってお前の個人的な番付だろ」ツッコミ入れて笑う真さんの、なんと爽やかなことか。

「俺と紺ランキングだよ。ちなみにここ数年は藤と桃と銀も参加してんだから。最新版には鳶も。これでもご不満?」

「いやいや、淡竹屋人気娼妓総出だとはいざ知らず。身に余る光栄です」

「その人気娼妓たちは揃って二ヶ月も放っとかれて、ブーブー言ってましたよ。真さん、次にあいつらのとこ行くときは注意してね」

「ハイハイ、もうどっちが娼妓か分かりゃしねぇ」

「あ。……ごめんなさい。言い過ぎました」

 失敗した。何を言ってるんだろう、俺は。

「冗談だって」

 真さんは全く気にしていないようだったが、今のは淡竹屋の看板娼妓の言っていいせりふではなかった。どんなに仲良くしてもらっても、ボスの友達でも、真さんはお客さんで、俺は娼妓だ。こうやって一緒に過ごすことで金を貰っている以上、その線を超えて甘えてはいけない。ぜったいに。

「でもさぁ」真さんは上体を起こすと、ぐいっと伸びをして、「俺、深果を〈白〉として気に入って一点買いしてたわけじゃねぇじゃん。なんで皆してそんなに短気なわけ」と、伸びの延長の動きで首を傾げた。

「え、そうなの?」

「うわ、……もしかして、初耳?」

 その言葉で、大体のことは了解した。たぶんボスが無精して、真さんが来られなかった理由を俺たちに伝えなかったのだ。俺は、ゆっくり頷いた。

「マジかよ。クソ、弓助の野郎……。贔屓にしてた奴らに悪いから、ちゃんと説明しといてくれっつったのに……」

 でも、ボスのこの手抜きは、責められるべき事でもなんでもない。真さんが優しいだけで、普通、贔屓の娼妓にわざわざ「これこれこういう理由で行かれないので申し訳ない」と連絡をしてくれるお客さんなど居ないし、当然ながらそんな連絡、する必要もないのだ。

「弓助にゴリ押しされて仕方なく、〈白〉を仕込んでたんだよ」

 予想は付いていたが、俺は呆れた。いくらなんでも、お客さんに娼妓を仕込ませるなんて。

「したら、突き出しの日にあんなことになったんで、一昨日までまた再教育。まぁ……一ヶ月……もう二ヶ月近いか? 確かに、ちょっと時間かけすぎたのは、俺のせいでもあるんだけど」

 ちょっと、どころの話じゃない。真さんのことだ。深果がさらだったので、情けをかけてしまったのだろう。

 一昨日まで、ということは、やっと昨日から、普通に客を取りはじめたということか。俺は昨日の、こわばった深果の顔を思い出す。最初から、時間をかけて真さんの味を教え込まれるというのは、さらの娼妓にとって、幸せなことだろうか。

「深果が、なんであの客をあんなに怒らせちまったのか、真さん、何か聞いてる……?」

「いや。俺も何回か訊ねたんだが、どうも要領を得ない返事しかしやがらねぇんだ。よっぽど恐い目に遭ったのかもしれねぇし、変な風に刺激すんのも良くないかと思って、あんまり突っ込んで訊けなかったんだけど……」

 俺だけでなく、真さんにも、深果は鬼畜との間に何があったのかを話していない。紐暖簾の向こうから、深果が俺を見ていたときに感じたのと同じ種類の悪寒がした。深果、あいつはいったい、何者だ。

「そうだ、あん時、深果の代わりにお前があの客の相手してくれたんだったな。弓助に聞いたぜ、見惚れるほど鮮やかな技だったそうじゃねぇか。深果も、あれからちょっとだけ、何て言うのかな、……ふつうの子供らしくなったっつうか。少し前にも、質問ばっかの質問おばけみたいになった時があって、急にどうしたんだって訊いたら、お前から『分かんないことがあったらお客さんに訊け』って習ったんだって言ってたぜ」

 そう、あのとき食堂で、俺は深果に、分からないことがあったら『お客さんに』訊くのも手だと言った。それを深果は、惑いなく『真さんに』と返してきた。真さんが特別なお客さんであるということが、ごく当たり前の常識として擦り込まれている俺は、その言葉をするっと聞き流してしまったけれど、注意深く聞いていたなら、あの時点で、『深果にとっての客が真さんだけである』ということくらい予想できたはずだ。

 そして、それはつまり、深果が〈白〉として取るはずだった、最初の客というのが、他でもない、あの鬼畜野郎だったということだ。

 頭の上に、あたたかい重さがのっかった。俺は俯けていた視線を上げた。重みは、真さんのてのひらだった。

「深果は、俺を懐かしくさせるんだ。たぶん、昔のお前に良く感じてたのと同じようなもんを感じるからかもな」と、真さんは言った。優しい声だった。

「体の芯は恐れや憎しみに真っ白になってるのに、表面では取り繕おうとする。でも、たぶん本当は、誰かに気付いてほしくて、その、甘えみたいなのが目ん中に映ってるから、こっちはどうも放っとけなくなっちまうんだ。そんで、なだめたりあっためたりしてさ。早く恐いことなんてほっぽり出して楽しもうぜ、って……客の俺には、そんくらいしか出来ないからな」

 恐れと憎しみ。俺が深果の瞳から、全身から、あまりに強く、見ていられないほどに感じている感情は、言葉にすればまさにそれだった。

 真さんの手が、俺の短い髪をガシガシと混ぜ返した。

「大事に見守ろうと思ってたのに、弓助なんかに惚れちまって、しかも、お前はちゃっちゃと何でも自分で考えてやっちまうから、俺の出る幕なんざこれっぽっちもなかったけどさ」

「そんなことないよ。ていうか、知らなかった。真さんにそんな風に思われてたなんて。ありがとう。本当に、真さんのおかげだよ。俺がこうして、淡竹屋の紅としてバリバリ仕事ができるのも」

「でもお前……まだ、ここ……」

 と言って、真さんは俺の心臓の上を、手の甲でトンと叩いた。突然の刺激に、俺の抱えた暗がりは揺れ、焼け石は踊った。真さんの言おうとしていることは分かっていた。俺の体の芯にも、まだ、真っ白の部分が、しつこく残っている。俺がかつて笑いながら死ぬ目に遭わされたことと、同じような苦しみの中で生きていた奴らをたくさん犠牲にして、今ここで生きているということは、消えないし、その記憶を細かく思い出そうとすれば、気が狂いそうになる。

 だけど俺はもう、誰も恨まないし、自分を見下げたりもしない。

「……うん。でも、いいんだ。ゆっくりやるよ。おかげさまで、前よりは随分、自信もついたし」

 俺は、真さんの顔を見上げた。百年前から同じ表情をしてる彫像みたいに、なにもかも知ってて、包み込む微笑がそこにあった。

「もっともっと、自信を付けな。俺は放っとけねぇからって、出来の悪い娼妓を七年も贔屓にしたりはしないぜ」

 真さんは、「これはもう暫らく黙っとくつもりだったんだけど」と前置きして、俺をまっすぐに見た。

「俺な、お前をはじめて抱いたとき、『弓助の願いはこれで叶う』って思った。お前がこの店に居る限り、お前が弓助に愛想つかさない限り、この店が潰れることはないって、そう、確信したんだよ」

 ものすごい褒め言葉だった。でも、俺はそれどころじゃない。

「それは……ボスが、淡竹屋を愛してるってことだよね。ずっと、これから先もずっと、店を続けたいって、ボスはそう思ってるってことだよね?」

「弓助の心の中は、勿論俺にも覗けないけど、これまで淡竹屋の為にあいつがしてきたことを並べたら、自然とそういうことになると、俺は思う」

 ずっと、信じてきたことでもあったが、真さんの口から聞くと、とたんに輪郭がはっきりする。

 テーブルの上に飾った山あじさいをじっと見つめて、真さんは、「この店は元々、弓助の嫁の店なんだ」と続けた。

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