17
暗がりの色はくれない
久しぶりに、鬼畜の、仕舞予約が入った。その朝、俺はまずシャワーを浴びて、サブリナ丈のワンウォッシュのデニムと、紅色から裾に向かって色の抜けて行く、ボートネックのTシャツに着替えた。
カーテンを大きく開く。閉め切った窓の外から、気の早い、今年最初の蝉の声が聞こえた。俺は、鏡台の椅子に座って、じっくり、鏡の中から自分を見返す自分の顔を見た。
自信に満ちた、艶やかな男娼の顔だ。
美形と言うなら、真さんなんかそこらの映画俳優より男前だし、藤も、誰が見ても美人と形容するような、華やかでうつくしい顔をしている。そして、深果。彼の、腕の立つ人形師が持てるすべてを注ぎ込んで制作したような、左右対称の顔は、完璧な芸術品だった。
俺は、美形とは違うが、くせの強い良い顔をしていると思う。ただ、好き嫌いにきっぱり別れる顔だった。洋種山牛蒡の実を潰して、爪の中まで染み渡る赤紫を、飽きずに面白い物として眺められる人間も居れば、慌てて手を洗っても、爪の生え際に入り込んだ色が中々取れないのを、苛々しながら睨み続ける人間も居る。前者には受けるが、後者には顔だけで撥ね除けられるのが俺だ。ただ、〈紅〉を買う客は前者か、場合によれば前者にもなれる後者が大多数なので、この顔を疎ましく思ったことはあまりない。もっと鼻が高けりゃいいのに、くらいのことは毎日思うけど。
七年前。ここに映っていたのは、頬が痩け、目が落ち窪み、肌もカサカサで、いつも不安げな眉をした、みすぼらしい子供だった。まだ、生きているという実感も掴めず、初めて与えられる自分用の部屋や、ベッドや、食事に見合うだけの価値が果たして己にあるのかと、不安だった頃の俺の顔だ。 あれから七年経って、今、俺の肌は水分をたんまりと含み、頬は丸く、睫毛のたっぷりと生えた双眸はエロティックに瞬く。日に当たらないせいで、白く透き通った肌には、むだ毛もなく、見た目も触り心地も最高に良い。
藤も、銀も、桃も、ここに居るほとんどの娼妓が、そういう変化をしていった。俺たちは淡竹屋で初めてまともな衣食住を得て、ボスや真さんに見守られ、お客さんや仲間から学び、それぞれの部屋の色にふさわしい娼妓として、堂々と振舞うことができるようになっていった。
淡竹屋は、俺たちの生まれ故郷だ。ここで、俺たちは初めて、人間になった。
深呼吸して、俺は〈白〉の部屋の前に立った。ノックは省いて、中に入る。深果の姿はなかったが、浴室からシャワーの音がしていた。俺は、勝手にソファに座って、深果の出て来るのを待った。
程なくして、浴槽から水が溢れ出すような音がしているのに気がついた。湯船に浸かっているのだろうか。だが、シャワーの音も相変わらず続いている。
「深果、いるのか?」
返事がない。嫌な予感がして、俺は浴室の扉を開いた。
「深果!」
高い位置で固定されたシャワーから、勢いよく湯が注がれ、溢れだしている湯船に、上半身を突っ込むような妙な体勢で深果は溺れていた。慌てて引き上げ、ぐったりとした体をうつぶせにして腹と背中を圧迫し、水を吐かせる。深果は、嘔吐し、激しく咳き込んだ。
お湯が出っぱなしのシャワーノズルを立ち上がって外し、吐瀉物を流した。そうしながら、空いている方の手で、咳の止まらない深果の背中をさする。
「何してんだ、お前」すぐに返事をすることができないのを分かっていながら、俺は、そう問わずには居られなかった。
深果の体を拭いて、ガウンを着せ、ベッドに連れて行く。俺も全身ずぶ濡れになってしまったので、断ってから客用のガウンを借り、濡れた衣服をバスタオルに包んだ。浴室から戻ると、深果は、ベッドに体を起こしていた。目には涙がいっぱいに溜まっていて、いつこぼれ落ちるか、時間の問題だった。
「死にたかったの?」俺は訊いた。
「……分かりません…………」深果は小さく言った。
「何がしたかったのか、もう、ぼく、ぜんぜん、わからない………………」
涙が滴った。深果の泣き方は、とても静かだった。窓の外から聴こえる孤独な蝉の声すら、かき消さない静かさだった。
「お前、あの鬼畜の、仲間なんだろう」
俺は、今日最初に言うはずだった言葉をようやく深果に投げた。深果は、答えなかったが、否定もしなかった。
「……お前、二度目に買われたとき、あの客とふつうにセックスしたって言ったよな」
「はい……」
「あれ、嘘だろ?」
答えない。俺は続けた。
「こないだ見たとき、お前の体には引っ掻き傷一つなかった。でも、あの客は、子供を痛めつけなきゃ勃起なんてしないんだよ」
そうなんですか、と、ひと事のように呟いて、深果は目を伏せた。
「この前、鬼畜と二人で一切の間、何をやってたんだ?」
「この店を潰す算段を」投げやりに、深果は言った。疲れ果てて色をなくしたような双眸が、ちらりとこちらを窺う。俺はそれを射た。
「いいか、深果。俺は、淡竹屋を潰そうとする奴は絶対許さない。俺が百回死んだって、この店は潰させない」
ボスを殺そうとする奴は絶対許さない。そう言うのと、同義だった。
深果は、うるさそうに眉を寄せて、再び視線を足下へ落とした。
「周りじゅうから嫌われて、毒蛇の後ろに隠れて自分の身だけ守って、大怪我した子供を病院に連れていくこともしないような人に、何の価値があるって言うの?」
俺の言った「淡竹屋」と、ボスが、同じ意味だとちゃんと聞き分けて、深果はそう言ってきた。
「あなたは、毒蛇の子供のふりをしてこの娼館に来たんでしょう? 弓助さんじゃなくて、毒蛇が助けてくれると思ったから、前の店の子供たちを裏切って、この店へ逃げ込んだんじゃないんですか?」
「毒蛇に救ってもらおうなんて、思ってなかった。毒蛇の存在は、たしかに俺の背中を押したけど、……俺はただ、前の店で殺されるのが嫌だったから、逃げただけだ」
俺がどのようにしてこの店へ辿り着いたのかを、深果に知られていることに関しては、大した愕きはなかったが、わざわざ「裏切った」という表現をしたのが気になった。それは、深果の中で沸き立つ、俺への強い憎しみへと通じている。
「お前、淡竹屋を潰したいと思ってるのか?」
「ぼくの雇い主は、そう思っています。弓助さんのことを、ものすごく、恨んでいるようですから」
「雇い主っていうのは、鬼畜のことじゃないんだな……」
「はい。あの人は、ぼくと同じように雇われているだけです。『一度子供を殺してみたかった。それで金まで貰える。こんな良い仕事があるなんて』って、言ってました」
つまり、あの鬼畜が実行犯となり、深果は内側からそれを支援する役回りなのだろう。そして、雇い主は、すゞ弥さんを殺した奴らでおそらく間違いない。天下の毒蛇を後盾につけた淡竹屋に仇なすような命知らずは、他に居ないだろう。
「お前、本当にさらだったんだよな……」
「はい」
「そこまでして、人殺しの手伝いなんかする理由は、なに……?」
「あなたが………………」
深果はぶるっと身を震わせ、険しい瞳で俺を見た。俺もまっすぐ見返す。
「あなたが、この店に、居たからです」
深果は、言った。
瞳の底に見え隠れしていた影が、ときおり俺の肌を刺した殺気が、目の前で解き放たれた。今。
「本当は、もう、計画は実行されてるはずだった。でも、あの日は……、銀さんが刺されたせいで、警備員の数が増えてたから、延期したんです。今日に。あなたが……最初に殺されます。ぼくが、あなたを真っ先に殺してほしいって、あの男に頼みました」
「俺はお前にずいぶん、嫌われてる」
俺が最初に殺される。ということは当然、俺以外の奴も殺されるということだ。ボスを今なお恨み続けてる連中は、もう一度、淡竹屋の娼妓を皆殺しにする気なんだろう。長い時間と、金と、労力をかけて、報復の、そのまた報復をやり続ける、執念。恐れ入る。
深果は、正面に立つ俺を見上げた。
知っている。
初めて深果の顔を見たときに、真っ先に思ったことを、また、思った。
「さっき……、前の店で殺されるのが嫌だったって、言ってましたけど……、……あなたが、一人でそこから逃げたせいで、ぼくの三番目の姉は、その、『前の店』で、殺されました。姉のこと、覚えてますか……?」
さっきまでより、幾分声を高くして、深果は言った。
「姉たちの稼ぎで、ぼくの家族は何とか、屋根のある所で暮らせてた。お金を持ってきてくれるとき、姉から、あなたのことをよく聞かされました。あんまり喋らないけど、頼りになる人で、傍に居たら安心なんだって。いつもいつも、あなたの話しかしなかったから、ぼくは顔も知らないあなたが嫌いだった。嫉妬してたんです、今思えば。姉がぼくに掛けてくれた言葉は他にもいっぱいあったはずなのに、覚えてるのは、あなたを褒めた言葉だけ……」
こう言うと、冷たい人間だと思われるかもしれないが、俺は前の店で働いていた奴らを、仲間や友だちだったとは思わない。
でも、最初からそうだったわけではないのだ。あの店で出来た友だちを、最初の一年間で二十人以上失ってから、俺は、必要がなければ誰にも口を利かなくなった。他の生き残った奴らもそうなっていった。あの店に長く居れば居る奴ほど、無口だった。だから、俺が逃げる直前のあの店に、俺と仲良しの娼妓なんて、本当は居なかったのだ。
いつでも俺の傍に居たあの子は、周りから見れば、俺の唯一の友だちだったのかもしれない。彼女がどんな顔をしていたか、思い出そうとしても、もう、細かい目鼻の感じまでは呼び起こせなかった。ただ、大きすぎるくらい大きな目や、誰よりも痩せていたことは断片的に記憶されていて、そう――そうだ。俺は、もっと太ったなら、この子はさぞ美少女になるだろうと、そう思っていた。
あのとき俺が想像した、現実には存在しない、健康な丸い頬の美少女。
「…………お前、あの子の……弟なのか……」
あれはまさに、今の深果、そのものだった。
「………………本当に、……覚えてるんですか……?」
深果は、混乱しているように見えた。上等の桃のような、深果の若い頬。一枚剥けば、甘い汁の代わりに、俺への憎しみが滴るだろう。
「覚えてる」
たまに、震えて擦り寄ってくるようなときだけ、慰めの言葉を持たなかった俺は、彼女の頭を撫でた。最後に会ったときも、そうだった。前室の隅で、いつまでも泣き止まない小さな頭を、彼女が部屋を出て行くまで撫で続けていた。
「姉が死んでから……ぼくは、あなたを、見つけ出して殺すことだけ、考えてた……」
誰が犠牲になっても、逃げたことを後悔しないと決めていた。
でも、俺が逃げたせいで、あの子は殺され、深果は、復讐のために生きることになったのだ。
「淡竹屋に来て、やっと姉の仇を討てるって、最初はそれだけで頭がいっぱいでした。でも……、もう、分からないんです。あんなに酷い目に遭わされて死んだ姉のことを思っても、真さんがどんなに優しくしてくれても、お客さんの相手をするのは辛かった。あなたを殺したって、姉は絶対に戻らない。ぼくがやってきたことは、全部、無駄だったんです……」
深果は、また、静かに涙を流した。全身から、力が抜けている。
「無駄じゃない」俺は、深果の前で中腰になって、目線を合わせた。
「理由が何でも、お前が死ぬほど頑張って今ここに居ることくらい、俺にも分かる」
「……あなたを殺すために、来たのに……?」
「でも、お前は殺さなかった。それで、こうやって、仇の目を見て、話をしてくれてる」
新しい涙が、また、深果の頬を伝った。
ごめん、という言葉が、喉まで出かかったが、言えなかった。今はまだ、自分の気を楽にするための謝罪になってしまう気がした。ただ、あの子の無念を思って、深果の、復讐に費やした時間と傷ついた心を偲んで、その言葉を言える日が来るまでには、きっと長い時間が必要になるだろう。その日まで、俺は、何とか生き延びたい。深果にも、生きていてほしい。そう願うのも、結局は自分のためなのかもしれないけれど。
「深果。もし、今夜、あの客が俺の部屋に入ってから、一時間経っても何も起こらなかったら、それか、まぁ無いと思うけど万が一、鬼畜が一人で外に出てきちまったら、そんときはすぐに下に行って助けを呼んで、ボスに洗いざらい話すんだ。いいな」
伏せていた目を真ん丸にして、深果は俺を見た。
「待ってください。ぼくが今から、弓助さんに全部話してきます。その方が、確実です」
「たしかに確実だ。確実に、お前は店を辞めさせられるし、その後、お前の雇い主に見つかりでもしたら、確実にどうなるか……予想はつくだろ?」
深果が秘密を漏らしたことで今回の報復が頓挫したと知ったなら、深果の雇い主――十年近く、ボスを狙い続けている執念深い大馬鹿共は、どうやってでも深果を見つけ出し、殺すだろう。それだけは、絶対に避けなければならない。
「あの鬼畜は、プロの殺し屋じゃないんだよな? ま、プロが、あんなにブクブク太ってるってのもおかしな話だ。だったら……俺にも、勝機はある」
例えば、鬼畜に二、三発殴らせおいて、緊急用ブザーを鳴らし、後はとにかく、「許可してないのに殴られた」と言い張ればいいのだ。簡単に済む。計画は明るみに出ず、鬼畜だけが店を追い出されて、とりあえずはそれで終いだ。
「でも、……ぼく、娼妓の部屋に緊急用のブザーが隠されていることも、教えてしまいました。たぶん、紅さんの部屋のどこに付いているかくらいは、調べているはずです」
「だったら、これから、隠し場所を変えるまでだ」
と、言ったものの、俺は正直、ビビっていた。鬼畜は、最初のときだけは、ベッドの上で俺を縛って鞭打ったが、それ以降は、壁際に立たせたり、ソファとベッドの間の床に四つん這いにさせたりして、鞭打ちを楽しんでいた。どちらも、ブザーに手の届かない場所だ。考えている。
「紅さん、でも……駄目です。ぼくはあなたを、殺そうとしたんです。あなただけじゃない。何の恨みもない藤さんや、他のみなさんも。もし、上手く行ったとしても、何も無かったような顔で、ここで暮らすことなんて、できません……だから、」
「それをやるのが、お前の罪滅ぼしだ。お前を助けることが、俺の罪滅ぼし、……には、ならねぇけど。……ま、何事も無く上手く納められれば、それが一番だろ。んじゃ、今夜は、よろしくな」軽く言う。バスタオルに包んだままの濡れた服を抱え、俺は早足に部屋へ戻った。
もう一度、鏡台の前に座って、自分の顔を見る。眉が顰められ、唇は固く結ばれ、まるで同情を引きたがってるみたいだ。反吐が出る。鏡の中の男娼を、俺は拳で殴った。鈍い音が立つだけで、皹も入らない。
ここまで生き抜いた、と言えば聞こえは良いけど、要は生きる為に他人を犠牲にした、人殺しだということだ。他に生き延びる方法がなかろうと何だろうと、他人の命を奪ってまで生きる価値がある奴なんて、この世のどこに居るだろうか。
後悔しない、なんて。馬鹿だ、俺は。
めちゃめちゃ後悔してる。あんとき、死ねばよかった、って、初めて思った。思ったら、終わりな気がして、絶対考えないようにしていた。俺は死ぬべきだった。黙って、短い人生の終幕を引き受けるべきだった。そうやって、俺があの汚い売春宿で当たり前に殺されてても、深果のお姉さん、金髪の、あの痩せ過ぎの少女が生き延びたかどうかは分からない。けど、少なくとも、「俺が逃げたせいで見せしめとして残虐に殺される」ことはなかったのだ。
俺は逃げた。あの子は殺された。
割れそうな頭を、鏡に打ち付ける。二回、三回。皹も入らない。嗚咽が喉を震わせた。生きていたかった。後悔しないと決めて、この足で逃げ出したあの日の俺を、今日、どれだけ後悔しても、俺は殺せない。だって俺は、今このとき、生きているから。
もう、この世に居ない人のために、生きてる俺が何を出来るだろう。後悔も、感謝も、つぐないも、人生も、捧げられない。どんな手を使っても、血を吐くまで足掻いても、決して届かない。
だったら、繋げていくしかない。生きるものへ、生まれてくるものへ、捧げられなかった想いを、循環させていく。俺はそうして生きていく。