04

うつしおみ

「おはよう。気分は?」

 そう言って俺を覗き込んでいたのが女だったので、全身に虫が這うような怖気が走った。逃げようとしたら、いきなり真下に尻から落ちた。ベッドから落ちたのだ。それを理解して、痛みを感じるまでに、少しかかった。女は、珍獣に出会したような目で俺を見下ろして、ため息と一緒に小さく笑う。

「元気みたいね、あちこちガタガタな割には」

「……ここ、は、……」俺の出した声は、掠れきって、ほとんど声としての形を成していなかった。あれから、自殺しかけていたあのときから、どれほどの時間が経っているのか知らないが、喉は相変わらず、痛いを通り越してじんじんと熱い。

「淡竹屋。娼館だよ」歯切れのいい声で女は答えた。

 娼館。それなら、こいつも娼婦か。そう、思いかけると、もう血の気が引いてくる。目玉が瞼の奥に引き付けられそうになる。ごぉんごぉんと、金物の桶を高い所から落としたときのような音が全身に広がって、自分がひび割れていく感じがする。女のハイヒールの爪先が向きを変え、俺から離れた。つられて上を向くと、女は窓際に寄りかかって、煙草に火を点けた。細く開いた窓の外へ、煙が散っていく。

「医者が嫌? 女が嫌?」ぞんざいに訊きながら、煙草の手を窓の外に出して、俺を見下ろした。その角度の女の顔は、特に嫌いだ。俺は素早く眼を伏せた。「医者……?」

「医者が嫌だとこれからちょっと問題だけど、苦手なもんは仕方がないね」

「ちが、……アンタ、医者……?」

「そうだよ。この店専属の医者で、台所も預かってる。ああ、台所って、文字通りの、そのままの意味でね」

 娼婦じゃないのか。俺はほんの少し安心して、息を吐いた。あんまり深く吐くと内臓まで吐いてしまいそうだったから、細く、そっと吐いた。芯までガチガチになった緊張の、その表面がほんの微かにだけ緩んでゆくのを感じながら、考えを、できるだけ短く、声にする。「……嫌なの、医者じゃない。女……、娼……婦、が…………、」

 娼婦と口にした途端、急激に、顔から血の気が引いた。喉に酸っぱいものが上がってきて、めまいと頭痛が同時に起こる。女に対する嫌悪のせいで、こんなにあからさまに体が反応したのは、初めてのことだった。どうしよう。どうしたというんだろう。あまり体の調子がよくないせいで、過敏になってるだけだろうけど……。喉もとを押さえて、大波に揺さぶられるような悪寒を、何とかやり過ごす。

「男を呼んでくるよ」女は、白い、薄手のコートのような妙な服の裾を翻して、部屋を出て行った。

 烈しいめまいが通り過ぎてしまってから、俺はとにかく、床から立ち上がろうとした。だが、膝にも、下腹にも、全然力が入れられない。俺はベッドの脇に落っこちているしかなかった。

「助かった…………のか……?」

 静かな部屋に、枯れた自分の声が、安物のコンドームより頼りなく響いて、黒い木の床に吸い込まれるように消える。清潔な床だ。パイプベッドの下の空間にも、埃がたまっていなかった。窓辺の明るい陽が表面に映り込んで、池に落ちた月のように、うるうると光っている。遠い鳥の声が、やたらと耳に立つ。それ以外の音は、ほとんど何もしなかった。俺は急に、自分が、とても心細い気持ちになっていることに気づいた。

 あんまり待たされずに扉が開く。入ってきた、サングラスにコーンロウの男を見上げたとき、「毒蛇」と、俺の口は勝手に動いていた。男は、少し頸を傾けるようにして、俺の方に顔を向けた。「じゃ、ねぇぞ。俺はここの店長で、名前は弓助(きゅうすけ)だ」

「でも、あんた……、俺を、助けてくれた、……だろ、」自殺しようとしていた俺に、鉄格子の向こうから声を掛けてきたのは、確かに、この人だった。いつの間にか、あの部屋の中に入ってきていて、俺を抱き上げてくれた人。間違いない。凝った模様に編み込んだコーンロウブレイズに、濃い色のサングラス。図柄は前に見たときと違っているが、あのときと同じくらい目が悪くなりそうな色合わせの、奇抜な服装。こんな変な見た目の男が、何人もいるわけない。

「最近、この辺りの街一体で、妙な噂をやっててな。その出所を探ったら、おまえがいた男娼窟に行き着いたってわけだ」

「どんな……」

「毒蛇が、数日中にこの店に来る、って噂だよ。おかげで、野次馬だの、自分を売り込みたいガキどもだのが、大勢押しかけてきて大変だった。もうだいぶ落ち着いたが、まだ今でも外に何人か潜んでやがるからな。ったく、おまえの友達は頭がいい」

 友達、と言われて頭に浮かんだのは、あの通りで最初に会った子供と、その親友のチビの、最後に見た、格子越しの笑顔だった。

「…………まさか、……あいつら……が……?」

「ああ、たぶん、おまえの思ってるそいつらだろうな。チュンとした顔のと、ちびっこい赤毛の、兄弟みてぇな二人組だよ。《毒蛇》の息のかかったこの店なら、おまえを助けられる。店長の俺を動かすには、店に迷惑がかかるようにすりゃあいいって、全部、兄ちゃんの方が考えたことらしい。天才だろ、って、弟の方がすげぇ得意げにしてたぜ」弓助さんは、脣の端を上げておかしそうにそう言った。

「あ……いつらに、会ったの……? それ、……元締めに、バレたりは……」

「心配すんな。俺の知り合いがやってる施設にちょうど空きがあったから、二人とも、今は一緒にそこで暮らしてる。俺はあの人と違って甘ぇからな。ルール違反の印籠だって、持ってりゃすぐ使っちまう」

「いんろ……?」

「毒蛇の店を預かってるこの俺が自ら出向いて、毒蛇が欲しがってると言えば、どんな事情のある奴でも、金さえキッチリ出せば大抵は引っ張ってこられる、ってことだ」

「……なんで……金、使ってまで…………」

「ああ、別に、おまえに何か見返り期待してるわけじゃないから、安心しろ。準備万端で死にたがってた奴を、テメェの勝手で助けたんだ。支払うべきものがあるのは、むしろ俺の方だろう。その金だよ」

 弓助さんはそう言うと、身を屈めて、俺の前に手を差し伸べた。考える前に、俺はその手に、自分の、包帯でぐるぐる巻きになっている手を重ねていた。体を支えられて何とか立ち上がったが、視界は涙でぼやけているし、どちらの脚にもやっぱり上手く力が入れられなくて、真っ直ぐ立っていることもできない。俺はそのまま、弓助さんに抱えられるようにして、ベッドに横になった。

「あ……の……、きゅう……け、……さ……ッ、」言葉の途中で、喉がおかしくなって咳き込んでしまう。弓助さんが椅子からベッドに移動してきて、俺の上体を抱き起こした。サイドテーブルの水差しから、グラスに水を注ぐ。咳が少し治まるのを待って、それをこちらに差し出した。リスみたいに包帯の両手で挟んで持って、自力でどうにか、飲むことができた。

「喉の炎症が酷いらしいから、しばらくは筆談にした方がよさそうだけどな。おまえ、字は書けるか?」弓助さんは、俺の手から取ったグラスをサイドテーブルに戻しながら、言った。俺は頸を振る。「しばらく、ろくに動けなくて暇だろうし、勉強してみるか?」少し迷ってから、俺は頷いた。弓助さんは「よし」と言って立ち上がり、扉の脇の壁に張り付いた電話で、どこかに連絡をとっている。受話器を置くと、また、ベッド脇の椅子に戻ってきた。

「そう、おまえの体だけど、眠ってた三日の間に、折れてた骨接いだり、破れた皮膚だの内臓だのを縫い合わせたりしてある。本当なら、何ヶ月か入院するべき大怪我だ。病院に置いとく金がねぇもんで、医者には無理言って、今朝、連れ帰ってきたとこだったんだが……まぁ、女のナースが多いからな。結果的にはそれで正解だったか」

「あ……、ありがと……」空気が洩れるだけみたいな声で、俺は何とか、そう言った。

「どういたしまして」弓助さんは、口もとを少し緩める。「つってもこの家、娼館だから、女だらけなんだけどな。男は今、ひとりだけだ」

「おれ?」自分を指さして言うと、弓助さんは頸を振った。「いや、男娼として働いてる奴が、ひとりいる」

 扉がノックされる音がして、俺は思わず身構えた。弓助さんが、「どうぞ」と返事をする。

「ボス、これでいい? とりあえず、初級のだけ持ってきた」入ってきたのは、俺より若いんじゃないかという見た目の、髪の短い娼婦だった。赤くて分厚い脣と、バサバサの睫毛に縁取られたバカみたいにでっかい瞳が、小さい顔の中にどうにか収まっている、というような、バランスの悪い顔だ。本を数冊、そういう仕草がかわいいとでも思ってるんだろうか、胸の前に両手で抱き込むようにして持っていた。何秒も見ないうちに胸が悪くなってきて、俺は急いで、上掛けを頭の上まで被った。

「おう、あんがとよ」

「新しい子?」

「いや、しばらく預かることになった怪我人だ。そういや、注文の菓子と酒、さっき届いたぜ。受付ンとこ置いてある」

「よかったぁ、間に合った! じゃ、頂いていきます。また夜に、」娼婦はそう言うと、すぐに部屋を出て行った。扉が閉まる音が聞こえた後で、もそもそとふとんから顔を出した俺を見て、弓助さんは、「ここは医務室だから、娼妓の出入りが結構ある。とりあえず、脚が治るまでは、俺の部屋にいるといい」と、言った。

 その日から、俺は、弓助さんの寝台を借りることになった。弓助さんの部屋は、受付の背後にある、壁と一体化した扉の向こうにあった。入ると、廊下が右手の方へ延びていて、最初の部屋が、ソファとテレビのある居間、次が本だらけの寝室、一番奥に、手洗いや浴室などの水場、というつくりになっている。

 俺がいる間の弓助さんの寝床は、居間のソファになったようだ。床に積みあがっていた本や、書き物机も、そっちの部屋に移された。それでも、寝台の足側の壁一面に作りつけられた巨大な書棚は、天井まで、本で埋め尽くされている。娼館の店長という仕事からも、あの奇天烈な服装からも、こんなに本を読むような人には見えないが、よく考えてみれば、この店はただの娼館じゃない。裏社会のボスたる《毒蛇》の、直営店だ。店長にも、そしておそらくは娼妓たちにも、相応の知性が必要とされるのだろう。

 俺は、半身を起こして、膝の上に、国語のテキストを開いた。手でペンを握ることはまだできないので、今のところは黙読か、声が問題なく出るようになってからは、音読をすることもある。喉の腫れは二、三日でほとんど引いたが、俺の声は、完全に元の通りには戻らなかった。声帯に傷がついたせいらしい。喋り声だけじゃなく、鼻歌の音程まで怪しくなってしまったが、でも、まぁ、ハスキーで、良い感じかもしれない。このくらいは、すぐに慣れるだろう。

 先生――例の女の医者のことだ。みんなそう呼んでるらしいので、俺もそれに倣うことにした――は、勉強を見てくれるだけじゃなく、食事を持ってきたり、包帯を替えたりと、何かと世話を焼いてくれている。おかげで、一週間も経たないうちに、彼女にはすっかり慣れて、少し、自信がついてきた。週に一、二度通わせてもらってる病院でも、女のナースと会話することが、だんだん、苦ではなくなってくる。薬膳粥ばかりでなく、普通の食事もとることができるようになって、先生の料理が、とんでもなくうまいことも知った。体重が増え、肌つやが見違えるほどよくなって、病院で会う女たちの目つきも、心なしか、前より粘っこいものになってきたのを感じる。


     ◆


 病院から戻ったとき、弓助さんは、ちょうど風呂に入っていた。助けてもらってから、ちょうどひと月が経とうという頃だった。俺は、松葉杖で浴室の前まで移動すると、磨り硝子のドア越しに、声をかけた。「弓助さん、俺、白粉のにおい嗅いでも、だいぶ平気になってきた」

「どうりで最近、病院から戻ってくるのが遅いわけだ」反響する大声が返ってくる。

「最初だけ途中でダメんなったけど、後の二回は上手くいった。俺ちゃんと、女の客もとれるよ」

「そしたら、ストレートの女の客は、おまえが独り占めだ」弓助さんは、すぐにそう言った。

「…………え、っと……、いいの……?」俺は、硝子扉を細く開けて、中を伺った。湯気が、どっと流れだしてくる。

「そのつもりで、真面目に毎日勉強して、女嫌いまで克服したんだろう? いいぜ、ちょうど、おまえに向いてる部屋も余ってるしな」弓助さんは、湯船の中で読んでいた本から、俺の方に視線を動かして、言った。いつもはサングラスで隠されている切れ長の目に見つめられると、ちょっと、ドキドキしてしまう。

「むいてる?」

「うちの娼妓部屋は十二あって、全部に、色の名前がついてる。今空いてるのは〈銀〉と〈白〉と〈鳶〉だが、その中だとおまえは〈銀〉だな」

「どうして?」

「何となくの雰囲気だ。おまえ、まともな名前がないって言ってたよな」

「うん。病院じゃ、弓助さんの苗字で呼ばれてたけど……」

「じゃあ、これからは銀って名乗るといい」

「銀、……か。何か変な感じするけど、いっか」

 俺は、出来る限りのそっけなさで言って、扉を閉めた。寝室に戻って、枕に顔を埋める。

「銀」

 自分にしか聞こえない声で、俺は言った。

「銀……!」

 初めての自分の名前だ。銀、だって。かっこいい。俺の名前。俺が、自分から名乗っていい名前。誰から呼ばれても、恥ずかしくない名前。

「俺は、銀。銀……。銀……!」

 脚が治ってたら、きっとじっとしていられなくて、家じゅう走り回っていただろう。それができないから、俺は枕を抱きしめて、寝台の上で左右にゴロゴロ、じたばたして、喜びに爆発しそうな体をどうにかなだめすかした。

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