01

積雪14センチメートル

「あん、ボス……だめぇ……」

 揉み込んだ手の中で、親指を先っぽに食い込ませるように押し付けると、紅は溶け出しそうな声をあげて、俺の長いドレッドの毛に噛み付いた。

 寒波に負けて、セックスしている。

 朝方、寒いと言って脚を絡めてきた紅の体を撫でていたら、うとうとしたまま火が点いて、この有様だ。大人しく暖房でもつければよかったのに、わざわざ脱いで運動して汗をかこうというんだから、物好きもいいところである。

「ボス、……ぁ……あ、」

 俺はすっかり目が覚めていたが、紅はまだ、浅いところで微睡んでいるようだった。俺のを擦るてのひらの動きがそぞろだ。裸でいるときに、紅がこんな上の空でいることは滅多にない。蜜柑の木に林檎がなってるのを見つけたようで、強く気を惹かれた。いじってやりながら、俺は紅の細部、紅の全部、紅がいるこの空間を、眺めた。

「紅……」

「ん、……う、……っん」

「紅、気持ちいいか……?」

「うん……い、……ボス、いい……」

 こんなときにこんなこと言わせても、どうなるわけでもないのに、訊いてしまう。

 俺は詰まるところ、自信がないのだ。

 なにしろ、男とこういう仲になるのは初めてである。しかも、紅は若い。齢は俺の約半分しかない。そのうえ元凄腕娼妓とくれば、三十も後半の衰退の一途を辿る精力で、ちゃんと満足させてやれているのか、甚だ心許ない。

 それなら他に、俺は紅に何をしてやれるだろう。遺産を残すことくらいしか思いつかない。それだって、俺の稼ぎじゃ微妙なことになるのは目に見えている。何もしてやれないのかもしれない。何かしてほしいなんて、紅は思ってないかもしれない。思ってるかもしれない。

 何でこいつは、俺なんかを好きなんだろうか。

 いや、果たして紅は今も俺を好きでいてくれてるんだろうか。思いのほか紅に本気になりすぎたせいで、今も昔と同じように捨て身で愛されているという、都合のいい錯覚をしているだけなんじゃないだろうか。廊下。老化。……駄目だ、眠ぃ……。

 いかせて、後始末して、服を着せて、暖房と加湿器をつけて、朝までもう一眠りする。紅は何かを口の中で言っていたが、すぐに寝息をたてはじめた。


        ★


 目がちかちかすると思ったら、自分の服だった、ということが、少なからずある。一階に下りるエレベーターの鏡に映った俺は、玉虫色のスーツに、黒地に蛍光ドットの開襟シャツ、靴は明るいオレンジのレースアップという格好をしている。周りには、自分の服が眩しくてサングラスをしているのだと思われているかもしれない。

 開店直後にもかかわらず、店の一階ロビーには、客どころか三人居るはずの従業員の姿すら見当たらなかった。その代わりに、真が、一人で受付に座っている。

「何だ貧乏作家、またうちでバイトか」

「ただ働きの店番様にンな口がよくきけるな」ノートパソコンから上げた顔の眉間に一本、まっすぐな皺が刻まれている。その間も指は淀みなくキーを叩き続けていた。

「おまえが受付に居るとファンだか何だかが寄ってきて迷惑なんだよ。営業妨害だ」

 最近真は、雑誌やテレビ番組に無駄に顔を晒すようになっていた。昔所属していたモデル事務所に復帰したとかで、いつも本業(エセ作家だ)に追われているくせに、その合間を縫って、演技やスピーチのレッスンまで受けているらしい。こいつの行動力にだけは舌を巻く。

「妨害ィ?」真はそこで一瞬、指の動きを止めたが、すぐにまた高速タイピングに戻る。「逆だ、逆。招き猫や恵比寿様より真一朗様のがよっぽどご利益あるぜ」

「この閑散とした空間のどこにそのご利益があるっつうんだ?」

「こんな日の朝から浮かれてお化け屋敷に来る奴なんかいるか」と、真は表を顎でさした。

 店の前の並木道を、除雪車がごうごういいながら通っていた。積雪十四センチ。この地域では、雪がこんなに積もるのは珍しいことである。交通機関はおかげで大混乱しているらしいが、真も、今日のバイト二名も、店の徒歩圏内に住んでいるので関係がない。俺と紅に至ってはこのビル内に住んでいるので、雪でも槍でも店は開けられるのだった。

 歩行者路では、この辺の店の従業員が一緒になって、手作業の雪かきに精を出していた。雪かき、というか、ほとんど雪遊びになっているように見える。どの店でも、今朝の客はもう諦めているらしい。臨時休業の貼り紙を出している店もあった。

 硝子張りのエントランスの向こうで、紅とバイト店員二人が、みな鼻の頭を赤くして、三段に重ねた雪だるまの形を整えている。真はそれを眺めながら、「そういや、前の店の頃いっぺんだけ、俺のこと『ボス』って呼ばせていかせたことがあるんだけどさ」と、突然とんでもないことを言いだした。

「お、……まえ…………………………」

 当時の紅が俺に惚れていたことは、紅の得意客だった真も当然知っていたはずである。嗜虐っぽいところが微妙にある奴だとは思っていたが、まさか、紅相手にそんなえげつないことをやっていたとは思わなかった。

 口を開いても「死ね」以外の言葉が出て来なさそうだったので、俺は黙っていた。

「怒るなよ。つうか、こっちの気持ちにもなれよ」真は言った。そう言う真の方が、よっぽど怒っているような口調だった。

「こっちの気っておめぇ、まさか紅に本気だったわけでも……」

「本気だったぜ」

 真は、紅から、パソコンの画面に目を戻して、そう言った。

「あいつが淡竹屋に居た七年間、徹頭徹尾ってわけじゃあねぇけど、でも、本気だった時期はある。だっておまえ、あんなかわいいのに懐かれてその気にならねぇなんて、男じゃねぇよ」

「つまりおまえは俺を七年間男じゃねぇと思ってたってわけか」

「今頃気付いたか阿呆め」真は俺を横目で睨んで、鼻から息を抜いた。「……でも紅は、その阿呆のことを、七年間、徹頭徹尾本気で想ってたからさ。俺のは、思えば呪うってやつだ」言いながら、テキストエディタに『思えば呪う』と入力する。フォントが変更され、その文字はより大きく、禍々しいものに変わった。

 紅も、俺を呪ったことがあったろうか。

 あったろうと、思う。

「あの後……泣いてたんだ、紅。俺が帰ってから」

「何で帰った後のことをおまえが知ってんだ」

「廊下から鍵孔覗いて見たんだよ」

「……にしたって、あいつあの頃、泣けなかったはずだろ」

 真は、音を大きくたてて、バックスペースキーを叩いた。

 思えば呪|

「そう。泣けないはずの紅が、泣いてた。……ありゃあ、最高に後味悪かったなぁ」

 思えば|

「で、どうやって謝ろうかって割れるくらい頭悩まして早いに越したことはないって意を決して次の日また買ってみたら、あいつ、けろっとした顔で前日の話もおまえの話も、普通にするわけ」

 思え|

「それで俺、ぐっときちまってさ。もう、すっぱり自分の恋は諦めて、何があってもあいつの最高の客でいてやることが、俺にできる唯一の罪滅ぼしだって、心を入れ替えたわけよ」

 思|

「……、でも、あいつはもう淡竹屋の〈紅〉じゃない。俺はとっくにお役御免だろ?」

 |

 一際高い音がロビーに反響し、禍々しい文字は消え失せた。真は、ふぅ、と小さく息を吐いた。

「だからおまえがあいつに、死ぬまで死ぬほどいい目みせてやれよ」

「……死ぬほどいい目って、どんな目だよ」

「死ぬまでおまえが紅の『ボス』でいることだよ」

 そんなことが紅にとっての死ぬほどいい目なのか。

 そうか。

 …………そうか?

 考えれば考えるほどわからなくなる。本当にそうなのかも、その言葉の意味すらも。しかし、わからなくとも考えずにはいられず、そのうち考えるために考えているような、頭の中が妙な感じになってくる。そこへ、最上階から一気に下りてきたエレベーターがポン、と鳴いて開いた。

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