01

愛の耳

 嫌な夢を見た。そのせいか、朝からほんの少しだけ、頭が痛かった。

 公休日の、昼下がり。秒針の廻る音しかしない、一人きりのリビングで、俺はただソファに座っていた。時計に目を遣る。2時52分。さっき見たときには、51分だった。この部屋だけ、時間の流れが遅くなっているんじゃないだろうか。早く3時が来て、そしてあっという間に過ぎ去ってほしい。

 3時に、予定が入っているのだ。予定があるのに、俺はこうして、部屋着のままで家にいる。本当なら今頃は、病院の待合室に居なければならない時間だった。

 月に一度、俺は心療内科で、定期カウンセリングを受けている。特に何か問題を抱えているというわけでもなくて、もっと気軽な、メンテナンスのようなものだ。担当の医師も、先生――俺が前に男娼をしていた娼館・淡竹屋で、コック兼医者をしていた人で、今はこのビルの最上階にある創作料理店のシェフをしている――の知り合いの、面白い人で、病院の場所も、ここから走っていけば10分くらいの近場で、だから、いつもならカウンセリングに通うのは、ちっとも苦なんかじゃない。

 けれど、今日は、どうしても行く気になれなかった。

 夢の中から追ってきた頭痛に、体を乗っ取られでもしたんだろうか。俺は何度も、『そんな嫌な場所じゃないんだから、行ってもいいじゃん。ていうか、予約してあるんだから、行かなきゃ。とりあえず、着替えよう』などと自分に向かって言ってみるのだが、そういういつもの、ピンピンしている俺の一部分は、頭痛の元のところらへんにあるらしい何かによって、すぐに端に追いやられてしまう。着替えて病院に行くより、世界最高峰の山にでも登った方が楽なようにすら思えてくる。まるで、あの嫌な夢の中にいるときと同じ、無力感だった。

 嫌な夢、というのは、淡竹屋の前に働いていた、子供専門の娼館時代の夢のことだ。

 その夢の中では、俺は常にヘリウムガス入りの風船みたいになって、部屋の天井のところに漂っていなければならなかった。自分の意志で動くことはかなわず、目線も真下に固定されていて、瞬き一つ許されない。そうやって、強制的につくられた俺の視界の中には、幼い頃の自分がいて、たいてい誰かに殴られているか犯されるかしているのだった。もしくは、部屋の隅に膝を抱えて縮こまっている。小さな頭。小さな肩。子供の小ささには、夢を見るたびぎょっとする。

 でも、そこまでだったらまだいい。もちろん、どう考えても楽しい夢ではないし、見ないふりも、助けてやることもできないのは歯痒くて仕方がない。でも、俺が何より嫌なのは、その子供が必ず泣く、ということだった。

 夢の中で、子供の俺は泣きわめく。天井に貼り付いた俺にまで涙の飛沫がかかる気がするくらいに、烈しく、はばかりなく。しかし、そのうち目がとろんとしてきて、気持ちよさそうな、安心したような顔になって、やがて涙をこぼしながら眠ってしまう。殴られていても、犯されていても、ひとりぼっちで膝を抱えていても、そのままにっこりとさえして眠るのだ。それがもの凄く、嫌だった。今すぐ下まで降りていって、華奢な首を折ってやりたいほど。

 アア! 俺は、痛む頭を両手で抱えて、何も考えられないように締め付けた。『夢の中で子供の頃の自分が泣くのが嫌だ』と、そう思っただけで、気持ちが悪くなる。肩のあたりがぞわぞわしはじめ、暑いのか寒いのかわからなくなって、全身に鳥肌がたつ。それで、現在の自分まで泣きそうになるのが、最高に嫌だ。

 俺はソファから勢いよく立ち上がり、静かすぎるリビングの窓を開いた。するとすぐに、何の音ともわからない雑多な外の世界の音が、なつっこい風と共に窓辺の俺を包んだ。春のにおいのする風は、うっすらとしめった俺の目の際を撫で、髪や、服の間にも入りこんでくる。

 目を閉じて、瞼を日光のあたたかさに晒しているうちに、トゲトゲした頭痛のもとが、丸く溶けてゆく。俺はその様を、瞼の裏の赤の中にみつめていた。

 秋の透き通る陽に、しばらく頭を撫でてもらってから、背後を振り返る。時計の針は、午後3時2分を指していた。

 俺は窓際からふたたびソファへと移って、そこから明るい室内を見渡した。スリッパを脱いで、足もソファの上に引きあげる。抱えた膝頭に右の頬をくっつけて、細く長い息を吐いた。吐けるだけ全部息を吐いて、たくさん空気を吸う。でも、取り入れた空気が、胸の奥まで届いてないような、変な感じがした。

 あぁ、やだな。湿っぽいのとか、昔の嫌なこと思い出して暇な昼下がりにぼーっとしてみるとか、そういうの、俺は本当に好きじゃないのに。けれど、動く気にもなれなくて、俺はキッチンのテーブルの上に生けられた野草の花束を見遣ったり、全然上手くいかない深呼吸を繰り返したりして、うだうだしていた。そこへ、玄関の鍵が開く音が届く。

 ボスだ。

 俺は顔をがばりとあげた。どうしよう。迷ったが、結局、ソファから下ろした足をスリッパに突っ込んだだけで、そのままそこに座っていた。

 リビングの摩硝子の扉に、めくるめく色彩の洪水が映る。今日も、ものすごい配色の服を着ているボスは、部屋に入ってくるなりこっちを向いて、「おっ」と低い声をだした。

「紅。居たのか」

「うん。ボス、もしかして今からお昼?」

「そ。今日も大盛況だよ。ったく、スズさまさまだな」

 俺の親友のスズが、最高級移動娼館『ザ・サーカス』のスターとして表紙を飾った雑誌が発売されて以来、店は連日の大入りだった。取材やロケの申し込みも引きを切らない。スズが、その雑誌のインタビュー記事の中で、うちの店の名を挙げたのだ。


質問5.今、一番興味のあることは?

――『ハチク』っていう、歩いて見てまわるお化け屋敷。なんていうか、ギャーっていうより、生唾飲んでゾゾーッて感じの怖さなの。寝る前とか思いだしちゃったりすると、”やべぇ、便所ムリ!”みたいな(笑)。もう十回は行ってるんだけど、行けば行くほど怖くなるんだよね。


 スズの言う、この、『行けば行くほど怖くなる』というのは、うちの店の密かな売りだった。受付で予め、何度目の来訪かを訊ねておいて、その回数に応じたシナリオでお客さんを迎えるのだ。とはいえ、内容を大幅に変えたりすれば、役者や裏方の仕事が考えられないほど大変になってしまうので、その変化はどれも微妙なものだ。例えば、すごく遠くからこちらを窺っていた人影が、回を重ねるごとに少しずつ近づいてきたりする、といったような、気付かないお客さんがいてもおかしくないくらいの違い。しかし、それに気付いてしまったときの怖さは、結構効くのだ。俺も、シナリオを練る段階で協力しているので、そのことは身をもって知っている。

「……それはそうと、紅お前、今日カウンセリングの日じゃなかったか」

「あ、うん……」目線が泳ぐ。

「サボりやがったな」その声は、薄い笑いを含んでいた。俺は、彷徨わせていた視線を、そっとボスに向けて、言った。

「……ごめんなさい」

 ボスは軽く頷いて、電話をかけはじめる。

「お世話になっております。本日十五時に予約の……ええ、菊竹です。ご連絡が遅くなってしまって申し訳ありません、……」

 電話のときのボスは、普段の喋り声より耳あたりの良い、すらすらした声で喋る。よどみない流れの中に混じった、『菊竹』という言葉に、俺はちょっと身構えた。『菊竹』は、ボスの名字だ。そして、今の俺の名字でもある。でも、俺はなんだかいまだに慣れることができなくて、自分から名字を名乗らねばならないときなんかには、指先が冷たくなるくらい緊張してしまうのだった。

(ボスの、亡くなったお嫁さんの、家族の名前)


 俺にちゃんと日時を確認して、今日の替わりの予約を取り付けてから、ボスは電話を切った。

「ごめんなさい、ボス。ありがとう」

「ん。別に、行きたくねぇときは行かなくってもいいと俺は思うけどさ、とりあえず、連絡は入れた方がいいぜ」ボスは、電話のときよりもざらっとした、いつもの声で言った。「ひとこと言ってくれりゃあ、こうやって俺が電話してもいんだし」

「うん。……ごめんなさい」

「馬ァ鹿、んな何べんも謝るようなことじゃねぇよ。ただ、向こうも今のお前みたいな顔で、約束の時間に来ない患者を待ってるかもしんねぇからさ」

 その言葉に、顔が熱くなった。なんで、他人に迷惑をかけてしまうことに思い至らなかったのだろう。しぜん俯こうとする俺の頭は、眉間に伸びてきたボスの親指によって、そのままぐいっと、上に押しあげられる。無理に上向かされた目線の先に、サングラスに隠れたボスの瞳があった。ボスは、ヘッと噴き出し、

「困ったアルパカみてぇな顔ンなってる」と言って、俺の眉頭をさらに持ち上げた。きっと、ハの字にされた太い眉とでかい目が、ちょっと間抜けなあの動物の顔を連想させたんだろう。

「なってないよ!」言い返して、俺は眉を平常の角度に戻すために、左右の眉尻を思いっきり上に引っ張って対抗した。アルパカに申し訳ねぇくらい変な顔。また意地悪を言って笑ってから、ボスは手を離した。

「お前昼飯は? もう食った?」

「あ、まだ」

「じゃあ一緒に食おう。何食いたい?」流しで手を洗いながら、ボスが訊いてくる。

「……パスタ」

「おぉ奇遇、俺も麺類の気分だった。何パスタ?」

「えっと……きのこの」

「じゃあ、好きなの好きなだけ出して。鶏肉も」

 俺は冷蔵庫の野菜室に入っていたエリンギとマッシュルームとしめじを、量はよくわからないので、とりあえずある分全部出す。

「多いっつの」

 水をたっぷり入れた大鍋を火にかけたボスが、きのこを山盛り抱えた俺の方を振り返って、唇の端を緩めた。

 俺が洗ったきのこを、隣でボスがさくさく切っていく。まな板を叩く包丁の音は、いつ聴いても、懐かしい感じがする。俺はその音と、ボスの服からかすかににおう煙草の残り香から、ほんの一瞬、懐かしい淡竹屋の食堂に居るような錯覚を起こした。そこからさらに、真夜中に二人で立った調理場の思い出がたちのぼってきて、昼下がりの清潔なシステムキッチンの上に、淡い影を落とす。

「……淡竹屋に居た頃、夜中にボスに牛丼つくってもらったこと、あったよね」俺が言うと、ボスは「あぁ」と包丁の動きは鈍らせずに、ゆっくり頷いた。

「あったなぁ。俺のは玉葱丼だったけどな」そうだった。薄暗い調理場で、あのときボスは多すぎるくらいの玉葱を、こんな風に上手にじゃんじゃんスライスしていた。

「あん時、お前本当うまそうに食っててさ、……嬉しかったんだよなぁ。あんまり嬉しくって、本格的に先生に弟子入りして、料理人目指そうかとまで血迷ったもんだよ」

「ほんとに?」ほんとに。語尾を下げて、ボスが繰り返す。

 俺は、びっくりして、笑った。そして笑いと一緒に、急に涙がこみ上げてきたので、またびっくりに戻らねばならなかった。

 ボスにつくってもらった世界一おいしい牛丼を食べて、にこにこしていた、あの夜の俺。叶うはずのなかった片恋の中で、せいいっぱいの幸せを噛みしめていた、十七歳の俺が、ボスを嬉しくさせていた。

 声は出ず、涙だけがたくさん流れた。気持ちよかった。けれど、何にも見えなくなるくらいの勢いで溢れてくる涙に、立っていることも覚束なくなってくる。俺はシンクのふちを両手で掴んで、一刻も早く泣き止もうと、奥歯に力をこめた。その間も、食材を刻む包丁の音は、キッチンに淡々と響いていた。

 俺が泣いていたのは、ほんの1、2分のことだったと思う。涙が止まってから隣を窺うと、まな板の上のきのこが、やけに細かく刻まれていた。俺が泣き止むまで、邪魔しないように、黙って待っていてくれたのだろう。

「クリームソースでいい?」ボスはそう言って、背後の冷蔵庫の方を向く。そのついでという感じで、ボスの手が、俺の頭のてっぺんを掠めていった。春の風のようにやさしい感触。俺はまた、泣きそうになってしまう。

「……それなら、麺はフェットチーネがいいよね。俺、急いで先生にもらってくる」

 そう言って早足にリビングを飛び出したときには、目に映るものすべてが、ぼやぼやと膨張して、光って見えていた。

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