02

愛の耳

 エレベーターに乗り込んで、『創作料理・淡竹(はちく)』のある、最上階のボタンを押す。壁に寄りかかって、目を閉じると、瞼に切られた涙が、頬の上を滑り落ちた。

 気持ちいい。

 その自分の心の声に、記憶の中の、よく知っている声が重なる。

『気持ちいい。泣いたら、なんでこんなに気持ちがいいんだろうね』

 誰の声だっけ。少し考えて、あぁ、と納得する。それは、過去の自分の声だった。これは俺が昔、スズに言ったことばだ。

 そうだ。俺は淡竹屋に居た頃にも、泣いたことがあったんだ――。

 今ではこのようにいつでも無様に涙を流せる俺なので、それが何だと思われるかもしれないが、当時の俺は、自他ともに認める、泣けない人間だった。

 スズの前で泣いたあの日……そういえばあの日も、ちょうど今日のように、俺は朝から少しおかしかった。理由は、自分でもわかっていた。

 真さんのことを『ボス』と呼んで没頭したセックスに、俺は思いのほか、打ちのめされていたのだ。

 それは決して、真さんに強要されておこなったことではなかった。確か、真さんとボスの雰囲気が似ているとか、そういう他愛もないことを話していて、その流れで、「じゃあ今日は、俺のことボスって呼んでみる?」ということになったのだ。

 正直、嫌だった。そんな破廉恥な――どんな恥ずかしい体位より、この世の終わりみたいなディープなプレイより、よっぽど『破廉恥』という言葉が似合う――ことをしてしまったら、何か大事なものを、二度と取り戻せなくなるんじゃないかという、漠然とした怖れもあった。

 しかしその一方で、「本当はやってみたかったんじゃない?」という問いを、「そんなわけがない!」と突っぱねられる自信もない。あの頃の、まさかこうして、ボスと二人で暮らすようになるだなんて夢にも思えなかった十五の俺ならば、ボスに抱かれる、その気が狂いそうに甘い夢を、ひとときだけでも見てみたかったはずだから。

 そしてやっぱり、俺はそのセックスで、すごくすごく昂奮した。

 真さんを「ボス」と呼ぶ度、熱湯だとわかっているお湯に手を浸さねばならないような、恐ろしい震えが次々にわいてきて、だけど俺は、信じられないくらい、感じた。それまでに経験した全てのセックスの中で、一番だった。「ボス」と叫んで、ボスに似た人に縋り付いて、俺は何度もイッた。

 最高だった。だから、最悪だった。

 けれど、俺はその次の日も、朝から受付のボスのところへ下りていって、机の上で並んで過ごしたのだ。その時間は、当たり前だけど、普段のように楽しいものではなかった。息苦しくて、吐く息も真っ黒になっていそうだった。

 スズが、珍しく事前に連絡を寄越すことなく、一年ぶりに淡竹屋へやってきたのは、そんな暗い朝のことだった。

「ごめん、胃の薬貰える?」

 開口一番に体の不調を訴えてきたスズを休ませるために、俺はスズを連れて、自分の部屋へ戻った。そのときの俺の中には、親友を心配する気持ちだけでなく、ボスの傍に居なくてもいい理由ができたことを喜ぶ気持ちも、しっかりとあって、そのことを見つめるとますます暗い気分になった。

 顔色の悪いスズを、ベッドへ寝かせる。常備薬の箱の中から胃薬を取り出して渡そうとすると、自分から言い出したくせに、「ちょっと横になってたら治るから」と言って、スズは枕の上で首を横に振った。その首が、筋張っていて、とても細かった。仰向けになってはじめて現れた、髪に隠されていた頬も、骨の形がわかるほど痩けていた。

 俺の視線を察したのか、スズは笑って、

「ここんとこ、飯食う時間もないほど忙しくってさ。気が付いたら、何日もろくに食ってなかったりするんだ」と言った。それだけだから、心配しないで、と。

 俺はもちろん、その言葉を鵜呑みしたわけではなかった。そんな甘っちょろい痩せ方じゃなかった。たぶんスズ自身も、今の言葉で俺を上手くごまかせたとは思っていないだろう。その上でなお、嘘をついている。

 俺はスズの意志を尊重して、「そうなんだ」とだけ返し、安堵する振りで少し笑った。

「ごめんな、ベッド占領して。お前、これから寝るとこだよな」

「まだ寝ないから平気。スズ、今日は一日お休み?」

「うん。本当は明日が移動日なんだけど、俺だけ先に来たんだ。紅に早く会いたくって」なのに、迷惑かけちゃった。すまんね。茶化すように軽く言って、スズはベッドの端に座った俺を見上げた。じっと見つめてくるその目は、少しも笑っていなかった。本気で、俺に会いたかったんだと、ふたつの緑の宝石が語りかけてくる。

「嬉しい」俺は言った。会いに来てくれて嬉しい。俺も、スズに会いたかったんだ。言葉より、スズを見つめ返した瞳に、俺の気持ちは丸ごと表れていたと思う。

 そうしてスズとしばらく見つめ合っていたけれど、演技じゃないから余計に照れてしまって、互いに目の奥がむずむずしてくる。俺は、もう限界、とにっこりしてから、

「じゃあスズ達、これからしばらくは、この街に居るんだね」と言った。うん、と頷いたスズも、もう笑っている目を俺からずらして、天蓋を見上げた。

「今回は、ひと月くらいの興行の予定。イチカさ……団長が、買い物する場所がないとか言って、移動の時期早めたりしなければ」そういうことがよくあるのだろう。もう諦めたような口調だった。

「この辺、歓楽街しかない田舎だからねぇ」

 俺は言いながら、3年前に、ザ・サーカスの新しい団長として挨拶に来た、背の高い女の人の姿を思い出した。頭のてっぺんから爪先まで、全て高級ブランドの最新のものを、身に着けるというより、従える、といった迫力で着こなしていたのが、印象に残っている。

「あの人、身なりには特にうるさいんだ。下着まで勝手に買ってきたりすんだぜ」しかもものすごい派手なやつ。はくの? はいてる。見る? 見ないよ! 俺は笑って、ふとんの上からスズをちょっと小突いた。

「団長っていうより、お母さんみたいだね」

「まさにそう。うちのサーカスの恐ぁい母親だよ」

「そのお母様には悪いけど、やだなぁ、そんな理由で移動が早まっちゃったら」

 例え同じ街に居たところで、俺はこの店から出られないし、興行が始まればスズの方が忙しくなって会う暇などなくなるのだが、やっぱり、物理的に離れているのと近くに居るのとでは、気分がだいぶ違う。

 スズは、そんな俺の気持ちを見越しているかのように、

「大丈夫。我慢させるよ、今回ばかりは」と言って、頼もしい笑みをみせた。そのスズの表情は、俺を誇らしい気分にさせる。

「ごめんね、いっぱい喋らせて。具合どう? 何か、お茶とか飲む?」

「ありがと、でも大丈夫。喋ってると気が紛れるから、逆にありがたい……」そう言いながら、しかしやはり少し疲れたのだろう。スズは、ふう、と息を吐いて、掛け布団を鼻まで被った。

「ふとん、紅のにおいする」我慢してよ。笑って言う。

「ちが……、安心して、眠くなる……」それに抗うように、スズは目をぱちぱちやった。

「寝ていいよ」

「駄目だよ」

「いいんだよ。ゆっくり休んで、スズ」

 俺はふとんの上から、スズの肩の辺りを軽く叩いた。ポンポンと、優しい速度で。

「…………紅も、お母さんみたい……」スズの呟きに、俺は笑う。

「なら、もっと甘えてよ」と言うと、スズも目を細めて、笑った。

 俺には、母親というものの記憶がない。スズも、本当の母親については、ほとんど何も知らないそうだ。

 でも、……いや、だからなのか、『お母さん』という存在は、俺の体の中に、ずっしりとした温もりのある像を結んでいる気がする。本物を知らないぶん、その『お母さん』は、ぶれることなく、常に鮮明にそこにあるのだ。

 俺は、『お母さん』ならこうするだろう、という力の加減で、スズの髪を撫でた。スズは、気持ちよさそうに、すっと目を閉じた。しかし、安らかな形に描かれていた眉は、その後あまり間を置かずに曇りはじめ、とうとうぎゅっと顰められたかと思うと、

「ごめん……俺、泣くわ……」スズはそう、目を瞑ったままで言った。その声は、かよわく揺れていた。

 あっという間に、閉ざされた瞼のふちから涙が溢れて、こめかみへ伝い落ちる。右手を額にやって、顔を隠すようにして、スズは泣いた。俺はスズの髪を撫でていた手を、そっと枕の端まで移して、目線も自分の足下へ逸らした。

 スズが俺の前で泣くのは、これが初めてではない。俺とは反対で、スズは、昔から年齢よりずっと大人びて見えるくせに、泣き虫なのだ。けれど、手の甲にくっきりと浮いた骨の線や、青い血管が、今日のスズの涙を、何かとてつもなく寂しいものにさせていた。

 俺には、スズがこんなに痩せてしまった理由も、今日の涙の理由も、推し量ることもできない。親友のつもりでいるけれど、会えるのは1年に1度くらいのものだし、会えても互いに仕事があるので、そんなに長く一緒にはいられない。俺はおそらく、スズのお客さんより、スズのことを知らないだろう。

 でも、スズが今、とても辛い状況で踏ん張っているのだということくらいは、わかる。

 そして、そういうときに、スズは俺に会いたいと思って、体調が悪いのも押して、本当に会いに来てくれたのだ。

 そのことを、忘れないようにしようと、俺は思った。聴こえているスズの嗚咽に、悲しくなったり、寂しくなったり、妙に温かな気持ちになったりしながら、俺は自分でも何が何だかわからなかったけれど、絶対にそうしようということだけは、決めた。

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