05
愛の耳
なんで、嫌なのに、気持ちいいんだろう。淡竹屋の前に居た、子どもしかいない粗末な娼館で、当たり前のように暴力をふるう客の相手をしながら、俺はいつもそう思ってた。客につけられた傷の痛みでなかなか寝付かれない朝などは、痛みを我慢するのにいっぱいいっぱいで、他に何も考えられなくて、むしろ楽だったほどだ。それくらい、いつも思いつめていた。考えすぎて、全身がかゆくて、毎日たくさん髪の毛が抜けていた。
淡竹屋より前の記憶は、今でもほんとは、1ミリだって思い出したくない。全体をさっと見渡すくらいなら我慢できるけれど、どこかに焦点を合わせようとすると、発狂しそうになる。
あの、底なしの己への失望。
殴られても蹴られても、ひとたび大人のでかいのを突っ込まれれば、俺はすぐに気持ちよくなって腰を振った。体は形を変えてよろこんだ。『自分を痛めつけて喜ぶ相手と、泣くほど嫌なことをしていても、俺は気持ちよくなれるような人間なんだ』――俺はこの世の何より、自分が信じられなかった。気持ちよがっている自分が気持ち悪くて、嫌で嫌で嫌で嫌でほんとうに嫌でたまらなくて、自分の肉をむしって捨てたかった。
そんな中で、俺は泣かない練習をはじめたのだ。おそらく幼い俺の体は、言葉にして認識してはいなくても、泣いたら気持ちいいと知っていたのだろう。
そして俺は、気持ちよくなんて、なりたくなかった。
「気持ちいいのなんて、もう、たくさんだったんだ……」
「……そう」先生は言った。
「そう」俺は、少し眠たいような気分で、その相槌を繰り返した。わけがわかって、気が抜けたのだろう。先生を見上げたら、いつの間にか、下ろしていた髪を後ろで一つにまとめていた。
毎日のように見ているのに、懐かしい顔。
いつもこの顔があった淡竹屋の食堂は、今思えば、安心の象徴だった。裏庭の日差し。娼妓仲間たちとのおしゃべり。暇つぶしの小さな賭け事。換気扇の回る音と調理の音。漂ってくるおいしいにおい。古びていて、でもいつも清潔だったあの調理場。そこに、今とおんなじ格好をした先生が居て、どんな料理をリクエストしても、返事は必ず「あいよ」だった。やさしい魔女みたいに、注文通りの美味しい料理をすぐにつくって、食べさせてくれた。
俺の中に像を結ぶ『お母さん』が、ぶれないでどっしり構えているのは、もしかしたら、そんな先生の要素を、ふんだんに混ぜ込んでしまっているせいもあるのかもしれない。
「……でも、考えたら、変だよね。淡竹屋に来てからは、お客さんに殴られたりとかほとんどなかったのに、なんで俺、そのままずっと泣けないままだったんだろ。泣かないのがくせになってたからかな」
先生の持つ安心な感じから、その疑問がふと浮かんできた。
「そっち方面は、私は専門じゃないからわからない」先生はきっぱりとそう前置きをしてから、
「……でも、もしかしたら、あんたの中に居る小さい頃のあんたが、守ろうとしてたのかもしれない。『紅』を」と言った。
涙が出た。
「……ごめ……、……駄目だ俺、今日、泣きすぎ……」
「気持ちいい?」
先生は笑顔だった。俺は頷いた。笑って。
「よかった」先生が言う。今のあんたが気持ちよく泣けるんなら、よかった。
「小さいあんたも、今頃安心してるよ。やっと楽できるってさ」
「うん……」
ごめん。俺は、自分の内側に居る、小さな子どもに呼びかけた。涙をのみこんで、『気持ちいい』を減らして、かよわい手足で俺をずっと守ってきた、名前も持たない少年に。そいつは、痩せた金髪に、落ち窪んだ瞳をした、全然頼りない、俺だけのスーパーマンだった。
◆
フェットチーネの入ったタッパーを片手に、俺はエレベーターに乗り込んだ。
さっき、先生が麺を準備してくれている間に、俺は休憩室の小さな流しで泣きっ面を洗い流した。エレベーターの内側についている鏡に映った自分の眼は、まだ微妙に薄赤いけれど、あからさまに今の今まで泣いていたという感じはない。俺はほっと息を吐く。そうして、扉を閉めようとボタンに手を伸ばしかけたときだった。
「紅! ちょっと待った!」
通路にこだました先生の声に、俺はギリギリで『閉』から隣の『開』のボタンへ指先を移した。強く押し込んで、エレベーターから降りる。9センチヒールで、住民専用のエレベーターホールまで走って追いついてきた先生は、息を切らせながら、俺の手に小さな袋を握らせた。
「これも、余りもんだけど、ついでに持って行きな」
「ありがと。なに?」
「彩り用にトマトで色つけたオレキエッテなんだけどさ」
袋をあけると、なるほど、入っていたのは、小さな耳のような形をした赤いパスタだった。
「かわいい。赤い耳たぶみたい」
俺が言うと、先生は、だろう? と笑って、
「弓助の耳さ」と言った。
あの、たくさん雪の積もった日。
店が臨時休業になったあの日の出来事は、真さんが、その場に居なかった人たちにまで言いふらして回ったので、今ではこのビルの従業員なら誰でも知っている、ちょっとした伝説のようになってしまっていた。
俺と恋人同士なのかと訊かれて、たくさん人が居る前で俺にキスをして、真さんに耳まで真っ赤だと大笑いされた、あの日のボス。
「……ボスの耳だ」
手を伸ばして触れたボスの紅色の耳たぶが、とても熱かったことを、俺は思い出した。
「ただいまー」小走りで部屋に戻って、キッチンに駆け込む。
「長旅ご苦労」鍋の前で立ったまま文庫本を読んでいたボスは、唇の片端を上げて、そんな嫌味を言った。
「遅くなってごめんなさい。これ、貰ってきたよ」
パスタの入ったタッパーと袋を渡す。ボスは、タッパーを横から見て中身を確認し、「こっちは何?」と訊きながら袋の口を開いた。
「ボスの耳ー」俺は、小さな赤いパスタを袋から摘みだして、耳の傍で揺らして見せた。ボスの向かって右側の眉がぴくりと跳ねて、サングラスのリムからはみ出す。
「先生がおまけでくれたんだ。赤いのは、トマトの色なんだって」あっそ。拗ねたように言って、ボスは大鍋の蓋を開けた。湯気が一斉に飛び出てくる。ボスは、その赤いオレキエッテを、フェットチーネより先に沸騰したお湯の中に振り入れた。
「ボスの耳の方が、茹で上がるのに時間かかるの?」
俺もボスに倣って、摘んでいた一片を熱湯に落とした。ボスは俺の質問に、
「この大きさだと5、6分ってとこかな。フェットチーネは2分半くらい」と真面目に答えてから、湯気で曇ったサングラスを外して、小さく振った。現れた眉は、ちょっと情けない感じに、薄く顰められている。
「俺ァ一体いつまでこのネタでからかわれ続けるんだ……」
鍋の中で踊るオレキエッテを睨んで、ボスは疲れた声で呟いた。俺は笑って、
「俺がボスを看取るときまで」
と言った。
自分の声が聞こえた瞬間に、俺は言ったことを後悔していた。重く聞こえなかっただろうか、と。けれどボスは、「あと50年も続くのかよ」と呟いて、諦めたように軽く笑った。
俺はそんなボスを、眩しいもののように見る。
並んだ二つの足跡のイメージが、そのとき俺の額の裏に、強く描かれた。かんかん照りに乾いた赤い土の、道以外には何もない荒野の風景。そこに、強い風が吹いて、乾いた土は空まで巻き上がる。俺はそれにさらわれるように鳥になって、砂埃が晴れた後の地面に延びる、足跡でできた二つの細い道を、上空から見下ろすのだ。
片一方の道は、短く、どうにも頼りなく、へにゃへにゃしている。その道をつくっているのは、やはりへにゃへにゃした、頼りない足取りの小さな人間だ。もう一方の、険しいが、くっきりとした道をつくっているのは、小さな人間より大きくて、年を取った人間だった。
へにゃへにゃした道の脇には、きれいに植えられた花や剪定された木々でつくられた、オアシスのような脇道があった。しかし、上空から見れば一発でわかるのだが、それは入口と出口が同じ場所にある、ただ迷うためだけにあるような迷路だった。へにゃへにゃ道の人間は、真直ぐ歩けばいいのに、頼りない足取りでその迷路の中にしばしば入っていこうとする。くっきりした道を歩く人間は、その度に立ち止まり、自分の道の上から手を伸ばして、へにゃへにゃの手を引いた。
『そんないやらしい道より、もっと変で面白い道が目の前にあるってこと、お前も本当は知ってんだろ』
その声に押し出されるように、俺は鳥の視点から戻ってくる。
沸騰したお湯の暴れる音と、さっきまでいた休憩室のより、ずっと静かに回る換気扇。
隣にはボスがいた。手の届く距離に。
俺が泣いても、笑っても、ぼーっとしてても、ボスはそこにいて、パスタを茹でたり本を読んだりしている。
鳥になって見たふたりのように。本当は道なんてない、どこにでも行けるだだっ広い世界の中で、俺たちは好き好んで、同じ方向に向かっているのだ。手の届く距離に並び合って。
何にも縛られないで傍にいる。
だから、一瞬で失うかもしれない。けれど、一生つづくかもしれない。
手足がぎゅっと切なくなった。叫びたいくらい。
「ボス」呼びかけるのと一緒に、俺は長いドレッドの毛束を1本、手繰り寄せた。
「いッて、何……んッ、んん、……」
一生傍にいてほしい。50年でも500年でも、ボスの耳が俺のために熱くなる限り。
オレキエッテが一瞬で茹で上がるほど、ガツンと濃いキスをした。
(了)