03

雷神と銀と兄弟

 トールのベッドは、大学入学と同時に量販店で買った、安い木製のものだ。当然ながら1人用で、平均よりだいぶ体格のいいトールにはただでさえ窮屈なのだが、そこに2人で入って動いているのだから、ベッドの方ではたまったものではない。軋みは高くなるばかりだが、それに構っていられるような余裕は、どちらにもなかった。

「んん、……っうん、…………んっ、」

「……きだ、銀、……好き、」

 トールは、うわごとのように言いながら、銀の顔じゅうにキスの雨を降らせる。

「……んぅ、……ん……、れ、も……」

「銀、好きだ」

「しっ、て、……んぅ……」

「好き」

「……から、……おれ、も、」

「好き?」

「って、言ってっだろ、……」

「お願い、銀、ちゃんと、」

「……なに、おまえ、」

 小さな子供がお気に入りの毛布を離さないみたいに、トールは、銀の体を抱きしめた。

「言って、」

 銀の耳の横で、切ない声が哀願する。

「トール、」

 銀はトールの頬に手を当てると、強い目で、トールを見上げた。

「愛してる」

「…………うん……ッ」

 詰まった声でトールは応え、銀を、なおも力いっぱいに抱きしめた。

「バッカ、くるしー、って、」

「うん」

「うんじゃねーし」

 そう言った銀の顔が綻んで、脣の間から息が洩れる。彼は再び、トールの脣に脣をのせた。その勢いで、自分よりもずっと体格のいい男を、シーツに縫い止める。

「……なぁ、不安だった? 俺がいない間」

 トールの上に四つん這いになった姿勢で、銀は訊いた。

「今も、まだちょっとは、不安だよ、……正直、」

 トールは、銀を見上げて答えた。

 下脣を、きゅっと短く噛んでから、銀は、その脣を開く。

「でも、帰ってきたよ、ここに」

「うん」

「浮気もせずに」

「うん」

「それでも不安?」

「だって、銀は、綺麗だから」

「俺がキレーだとおまえ不安になんの?」

「……ごめん」

「謝る意味がわからねーんだけど」

「俺、つまり……自分に、自信……っていうか、その……、銀と、釣り合うような男じゃ、まだ、ない、って……感じてて……」

「まだ、ってことは、いずれは俺に釣り合う男になろうって努力してるってこと?」

「そ、そう」

「バ……ッカだなー、トールってほんっと、大バカ野郎だよな」

「だって本当に、銀は俺にとって、理想っていうか、それ以上っていうか、本当に、」

「ハイハイ。もーいーよ」

 怒ったのかと思って、トールは恐る恐る銀を見上げた。銀は、引きつったような、例のあの笑顔になって、トールの胸に頬をくっつけた。

「銀、」

「いーからもー、早く抱いて」

「……ん、」

 トールの喉が鳴って、返事が曖昧になる。

 彼の腕が、銀の肩の下に入り、上下が入れ替わった。見上げる銀は、目を細め、短く息を吐いて、トールの服の裾から入れた手で、柔らかな筋肉のついた太い腰を抱く。トールは短く身震いした。

 瞳の底に、紫の火が点く。

 どんな男でも、そうなるのだ。銀は、理性から欲望に頭を委ねた瞬間の男の変化を、そんな風に理解している。

 仕事の9割以上が受け身の立場でも、自分だって男だ。肉欲が理性に勝った瞬間に、己にも同じ変化が起こっているはずだと、昔は銀も考えていた。どうやら自分にはそんな瞬間はやって来ないらしいと気づいたのは、淡竹屋で暮らすようになってからのことだった。

 あれは、相手を抱きたい奴にしか起こらない変化だ。

 トールが一心不乱に覆い被さってくると、自分がまるで、致命傷を負った小動物にでもなったかのような気持ちがする。ほんの少し怖いのだ。でも、頭はふわりと、そして同時にとろりとした恍惚が抱いていて、眠たくなってくる。砂嵐のような雑音が強まり弱まり聞こえる。

 銀は、トールの愛撫に応え、応える以上に自分からも仕掛けながら、ふいに、泣きそうになっている自分に気づいた。

 わけがわからない。

 でも、しあわせだ。

 子供の頃は、夢を見られるような余裕はなかった。

 数年前、淡竹屋の〈銀〉の部屋で夢見ていた幸せとは、一緒にいる相手も、自分の職業も、陰に潜む恐れの種類も、何もかもが、全然、違っている。

 違うけど、これでよかった。

 こんな風にしか生きられなくて、よかったんだ。

 銀は思わず腰を浮かせた。開いた脚で、トールの胴を撫でながら、中に入ってきたものの熱を、固さを、逞しさを、堪能する。

「……ッ、ぎん、……うぅ……っ、ハッ、……」

 荒い息をして、トールが歯を食いしばる。目を上げたときに飛び込んできた、痛みを堪えて戦っているかのようなその表情に、銀は鳥肌を立てた。続けざまに胴震いまで起こる。それは、悦楽のためだけに湧いたものではなかった。

「ああ、ト……ール、あぁ……ッ、」

 こんな風に、体を繋げて、気持ちよくなってるときに、こんなしみじみ、幸せって感じることなんて、できるのか。

 銀は不思議な気持ちでトールにしがみつく。

「もっと来て、もっと抱いて、もっと、トール、もっと……ぉ!」

 トールが、恍惚と苦痛の狭間の表情で、荒々しい行動で、応えてくれる。

 ああもう、俺は何も、心配しなくていいんだ。

 そんなはずはないと解っていながら、銀は、厚く鍛えられたトールの肩にしがみつく。

 あの人じゃない人に、俺は恋をした。そうなんだ。俺はトールを好きになった。今は、こいつが、愛しくてたまらない。

 時間が流れて、俺は変わった。俺の周りも。何もかも変わって、でも、俺の過去だけは決して変わらない。俺が忘れたって、必ずそこにある。それでいい。いや、そうでしかないのだ。それが、生きているということ。


     ◆


「フツー友達が家に泊まりにきてっときに朝帰りなんかするゥ?」

 トールと銀が、4人分の朝食を買って銀の家に行くと、出迎えたヒノキが非難というよりは冷やかす口調でそう言った。いつもなら、そんな弟を窘めるだろうマキは、ぼうっとした目で「おかえりー」と言う。案外、朝が弱いらしい。しかし、トールがダイニングテーブルに、買ってきたサンドウィッチやサラダを置きはじめると、半分眠っているような顔のままでも、4人分の食器を並べはじめた。

「みんな、飲みものは?」トールが訊く。

「オレはー、カフェオレうんと甘いやつ!」真っ先に答えたのはヒノキだ。

「フツーのコーヒー、いつもの」銀の答えに続けて、マキも、「じゃあ、俺も」と控えめに言った。

 ヒノキのカフェオレにする分も含めて、4人分のコーヒーを淹れようと、トールが豆の入った缶を開けようとしたときだった。

「いんだよマキ、好きなの言ったら。紅茶もあるし。強めの茶葉があるから、ミルクティーにしよーか? 甘いの好きだろ?」

 マキは、急にはっきりと目覚めた顔になって、「うん、ありがと」と銀に笑みを向ける。

「だって、」銀はトールに目配せをして、紅茶の缶を取り出した。

「うん」トールは、3人分の豆を量る。

「ヒノキ−、カフェオレ熱いの? それとも冷たい牛乳で温くする?」

「ぬるいやつー」

「オッケ。ほら、おまえらは好きなやつ先に食ってて。あ、うち出来合いのドレッシングないから、そこらへんの調味料で好きに味付けして」

「マヨネーズは−?」

「冷蔵庫。俺、レモン汁使うからついでに持ってっといてよ。レモンみたいな入れ物に入ってるやつ」

「ほーい。塩はー?」

「ハイハイ、俺が持ってくよ」

 騒がしい朝食の間も、マキは何となく沈んだ様子だった。まだ眠いのか、もしや調子でも悪いのだろうか、と、トールが気にして見ていると、目が合った。マキは淡く微笑むだけだ。

「何かおまえ元気なくね。どーした?」銀も、気づいていたらしい。

「……あ、いや、……」

「マキさーあー、トールに惚れちゃったんじゃねーの? さっきからトールのことばっか見てんじゃん」ヒノキがいつもの調子でそんなことを言う。

「そうじゃなくて、」いつものように怒ったりせずに、マキは続けた。「トールみたいな人、この世に何人いるんだろうって、……ちょっと、思って……」

「あー、……」今までずっと茶化す口調でべらべら喋っていたヒノキも、急に静かになった。

「まー、実は、あんまいないよな。過去のこととか、まんま丸ごと、フツーに受け流して付き合っていけるよーな男って」

 マキは横目で弟分を見ると、「男に限る必要はないんだけど、」と付け足した。

「オレはねー、別に、昔のこととか生い立ちとか、いちーち話さなくたっていーだろって思うんだよ。けど、やっぱ、好きな奴に嘘ついてんのしんどいし、面倒だし、すげーバカみてーに意思強くないと、結局バレんじゃん。特にまー、ヤったりするとさ、隠しきれねーよ。フツーに退かれるし。何なのその技、おまえほんとは何歳だよ、みたいな。ね。そーじゃない? トール、中学とか高校とかの、童貞かそれに毛が生えたくらいの経験値ンとき、同世代の相手にいきなりすげー技出されたら、やっぱ退くだろ?」

「退きはしないと思うけど……、いや、でも、気になりはするか。好きな人のそういうのは」

「ほーらその感じ!」ヒノキは無遠慮に正面からトールを指さす。「フツーそんな風になんないって。特に西の若い男はさー、子供の街娼とか、現実にいるなんて思ってないよーな人、いまだに多いし。だから、頼んでもねーのに慰めにかかってくる奴とかさ、逆に根掘り葉掘り聞き出そうとする奴とかさ、そんなんばっか」

「半分は同意するけど、ヒノキ、おまえの場合は単純にバカな男と遊びすぎなんじゃないのか」マキが目を眇めた。

「それは俺も思ったわ」銀も笑って同意する。

「なんだよー、それはいーだろ別に」

「いや、あんまり良くないと思う」真剣な声を出したのはトールだ。「昨日から聞いてる限り、ヒノキは、遊びたくて遊んでるのとは違う気がするんだ。そうじゃなくて、自分を解ってくれる相手を探してるとか……そういうんじゃないのかな、」

 ヒノキはきょとんとした目でトールを見上げる。

「あ……、えっと、違う……か……」トールは自分の顔が赤らむのを外から見る思いがした。

「うん、違う。俺は単純に男にちやほやされてーし、エロい目で見てほしーし、実際、エロいことすんのも大好きだから、遊びたくて遊んでんだけど、」つるりとそう言ってから、しかしヒノキは口を噤んだ。

「…………けど、…………」

 眉根や、口もとに力が入って、困ったような、不機嫌なような、変な表情になっている。俯いて何度か瞬かせた目を上げて、ヒノキは、トールを見た。

「けどね、オレ、銀がうらやましーって、思った。いーな、って。トールみたいな人と付き合えて、いーなって。思ってる。……ってことはさ、トールの言ったことも、ゼロではないってことだよな、……うん……」

 大きな瞳が潤って、輝く。

「オレもさー、……愛されたいのかも。なんかだってやっぱ、そーゆーの、知らねーし、カラダなんかつなげたところで、出すもん出したら一気にどーでもよくなるし、そんなんばっかで、むなしーなって。むなしーのを、また性欲でごまかして、またむなしくなっての繰り返しで、」

 粒になった涙が、あとからあとからこぼれて、まだ幼い頬を伝う。

「もー……、気づいちゃったじゃん、バカトール、ぅう……」

「ごめ、」

「おまえが謝る筋合いじゃねーよ」銀はトールに言ってから、体を真っ直ぐにして泣くヒノキを、抱きしめた。それを見ているマキの目も潤んでいることに気づいて、銀は片腕を伸ばし、ふたりの弟分を同時に抱きしめる。

「恋人の愛はおまえらが自分で手に入れるしかねーけどさ、家族の愛情なら、あるから、ここにも。俺はおまえらのこと、兄貴みてーに慕ってっから、」

「銀が兄貴じゃねーのかよ」ヒノキが口を尖らせる。

「だっておまえら、俺の命の恩人だろー?」

「じゃあ、俺が兄貴になるよ!」

 抱きしめ合う3人の弟たちを、トールが外から大きく抱きしめた。

「やだよ、恋人だろ、」銀はそう言いながらも、トールの手を振り払うことはなかった。

「違う意味のアニキになってほしーのになー」ヒノキがふざけたことを言っても、マキはやっぱり、怒らなかった。

「あったかい」ただ、小さく、幸せそうに微笑んでいる。

「てか、あちーよ」不平は垂らすが、ヒノキも、トールの腕の中に収まったままだった。銀とマキの背に、彼も腕をしっかりと回した。

「気持ちいいな」マキは目を閉じて笑う。

「これってもしかして、マジで、家族みたい?」ヒノキが言った。

「どーなのトール、」銀が重ねて訊いてくる。

「どうなのかな……、いや、こんなこと、家族でもあんまりしないような気もするけど、でも、スキンシップ多い家庭だったら、してもおかしくないかなぁ……」

「トールん家は家族でぎゅっとかしなかった?」

「たぶん……俺が赤ん坊の頃はわかんないけど、ある程度大きくなってからは……記憶にないなぁ……」

「じゃっこれ、みんな初体験なんだ」ヒノキは浮かれた笑顔を見せる。


     ◆


「いー奴だったね、トール。銀もさぁ、前会ったときより元気んなってて、よかった」

 帰りの列車の中で、ヒノキは菓子を食いながらそう言った。

 窓に額を付けるようにして、外を眺めていたマキが、視線を弟に向ける。

「おまえも、そういうこと考えられるんだな」

「ひぃっでー。考えるよそれくらい。だって俺たち、銀のことがなかったら、今頃、どーなってたか」

「……俺のことは判んないけど、おまえのことは、守ったよ。俺が、きっと」

「えー?」なおも菓子を詰め込みながら、ヒノキは半信半疑の横目でマキを見た。「そんなん、俺だってマキのこと守ったし。絶対」

「俺が『きっと』って言ってんだから、『絶対』とか上回ってくんじゃねーよ」

「だって絶対は絶対だもーん」ヒノキは譲らない。菓子を摘まむ手も止まらない。

「楽しみだね、こっち来んの」

 そう言ったヒノキの横顔を見て、マキも、彼の食いかけの菓子に手を伸ばした。

「うん、楽しみ」

 口の中をスナック菓子でいっぱいにしながら、それでもマキははっきりと、そう言った。


(了)


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