先だってまで恋人

「きくたけ、べにに、なったぁ……?」

 電話越しのスズの声は、全く素っ頓狂だった。

「うん。そう、なっちゃった。へへへ」手に持ったままのワイングラスを、ピンク色に上気した頬にくっつけながら、紅は幸せな笑いを洩らす。その日、午前中のうちに、紅と弓助は役所に書類を提出して、晴れてパートナーとして、同じ籍に名前を並べたのだった。

 午後2時前の自宅リビングから、紅は親友に、その報告の電話を掛けていた。テーブルの上には、パンとチーズと、ワインボトル。紅は、横向きにソファの上に脚を投げ出した、くつろいだ格好だ。アルコールと幸せに酔って、言葉はちょっと舌っ足らずになっている。

「お、お、おれのよめが! 弓助なんかに! 俺の紅なのに!」吃るほど狼狽しているらしいスズの反応に、紅はアハハと声を出して明るく笑った。

「ち……ッくしょうめぇええぇ、弓助ェ、テメェ覚えてろ!」スズの怨念の篭った罵りは、キッチンに立って白ワインを飲みつつ、軽いつまみを準備している弓助の耳にまで届いたようだったが、こちらもアルコールと幸せに酔っているせいか、いつものように相手にはならない。紅に向かって、余裕の笑みを見せるばかりだ。

「なになに、どうしたのよ、」電話の向こうがざわついている。今の声は、ザ・サーカス団長のイチカだろう。スズはどうやら、ザ・サーカスのロビーでこの電話を受けているらしかった。

「紅が弓助なんかと結婚したって!」ぶすっとしたスズの声の奥で、歓声とどよめきが湧いた。

「まぁまぁ、それならお祝いの贈り物を考えなきゃ、」イチカはそう言ってから、無理やりスズの手から電話を奪ったものらしい。「紅、結婚おめでとう! イチカです。今度、お祝いの席を設けさせてちょうだいね、」

「いえ、そんな、こうして祝って頂けるだけで幸せです。ありがとうございます」と、紅が答えている向こうでスズが、「なんだよー、弓助のやつ俺に断りもなしに……花嫁かっさらってくときはご両親に挨拶が基本だろぉ……」とまだごねている。

「あんたいつから紅の両親になったのよ」冷静なイチカのツッコミにも、スズはまだ何かぶつくさ言っていた。何人かの周りにいたらしい団員たちからも、順にお祝いの言葉を貰ったが、スズの嘆きはそれでもまだ治まらず、最後に電話に出た静日の声の向こうでも、まだ弓助への恨み節が続いている始末だった。

「おまえのこととなると、途端にガキに戻っちまうな、あいつは」紅が電話を終えてから、弓助が呆れたように言った。

「かわいいよねぇ、スズったら」紅は、拗ねた幼児の仕種さえ喜んで眺める、母親のような笑みを浮かべている。

「付き合ってんのも同棲してんのも知ってたくせに、籍入れたくれぇで何であんな騒ぎになんだかな」弓助は、つまみの皿を両手にうまく載せて、一気に運んできた。テーブルに加わったのは、辛く味付けされた白菜と豆のケチャップ煮と、切り干し大根のチップスと、アボカドとトマトのサラダだ。

「すごい、もうこんなに出来たの! おいしそーっ」紅は元から艶やかな頬をますます光らせて、弾んだ声を出した。互いに、グラスの中身がだいぶ減っているのに気づき、改めて、それぞれのグラスに発泡ワインを注ぎ入れた。並んで座って、本日2度目の乾杯をする。

「……ねぇ、ボス、」紅は、隣の弓助の顔を見上げて、言った。杯を重ね、新しいボトルの栓も抜き、酒に強い紅の動きも、段々のろのろとしはじめている。「ボスはどうして、ノンケだったの、」

「……どうして?」弓助は鸚鵡返しをしながら、サングラスを外して、テーブルの手もとに上下逆にして置いた。薄い色の目で、紅を見る。

「どうして、って思うのが、そもそも変?」紅も弓助の目にじっと見入るようにして、訊いた。

「いや、……まぁ、そうだな。どうして……。それが当然だったから、かな」

「当然」語尾を下げて、紅は繰り返す。

「女に欲情して、男にはしない。そういう構造だった。つーか、そうだって、信じてた。信じるまでもなく、な。つうか、おまえは? 女に欲情したことあんの?」

 紅は目を瞬かせてから、少し瞼を伏せて、心の内を見るときの顔になった。「……どう、だろ……。考えてみても、……ない、ような……。俺も、気付いたら抱かれる側だったから、男に欲情するのが当たり前だって、信じるまでもなく信じてきたのかなぁ」

「おい、紅。おまえまさか、気になる女ができただとか、こんな日に言わないよな……?」

「え、なんで?」

「だってこの流れ、今まで男しか好きじゃなかったけど、最近女が気になって、って方向に……」

「行くわけないだろ」紅は呆れ顔をした。「ほんとにただ、不思議に思っただけ」

 弓助は、ハーッ、と、長く息を吐いて、ソファに深く座り直した。

「なぁに、ボス。そんな緊張から解き放たれたみたいな格好して」

「まさに緊張から解き放たれたところだよ、ったく……」

「えぇ? なんで」

「俺がいつでもおまえから愛されてるって自信満々だとでも思ってんのか」

「違うの?」

 またため息。

「だって俺、子供の頃からずーっとボスが好きだし、ボスが女の人に構われてるとすぐ嫉妬するし、好みの男が話しかけてきたからって、銀みたいにすぐポーっとなったりしないだろ?」

「それでも、こォんな可愛いのに惚れちまったら、不安になんだよ、」弓助は言いながら、上体を紅の方に向けて、左手で柔らかな紅のほっぺたを摘んだ。

「ボス、酔ってんの?」頬を引っ張られたまま、紅はしかめっ面をしたが、桃色に染まった顔は、アルコールだけが原因ではない

「本気だよ。酔ってはいるけど」弓助はぺちっと音をさせて、紅の頬から指を離した。口端に歯を見せて笑う。

 席を立った紅は、冷蔵庫から出してきた炭酸水をコップに注いで、弓助に渡した。半分くらいまでぎゅーっと飲んでから、「あんがとな」と息を吐くついでみたいに言って、またひとくち飲む。隣に戻って、紅はすぐ横から、半分下りた、薄い、奇麗な瞼を眺めた。

「……ん?」視線に気付いた弓助が、少し眉を上げて、紅の方に柔らかい目を向ける。

 娼館の店長だった頃には、こんな顔、一度も見せてくれなかった、と、紅は思う。隣に座って横顔を見つめていることなんて、しょっちゅうだったのに。

「ボス、」紅は弓助の右肩に頭を寄りかからせて、腕に両手をまわした。つむじに、笑ったらしい弓助の鼻息がかかる。

「……不思議だな、」弓助は言った。「ずっと一緒にいた奴と、籍入れたってだけなのに、何でこんな、浮かれてんだろ」

「浮かれてたの?」紅は息をこぼして笑った。抱きしめた弓助の腕を、より一層深く抱き込む。「……でも、そうだね。何か……なんだろ、……心強い、みたいな、感じがする」

 弓助は、少し大きくした目で、右肩にある紅の頭を見下ろした。長い睫毛の下で、紅は考え考え、言葉を続ける。「今までが心細かったわけじゃないけど、……でも……、結婚ってさ、何か、パーンって、してるよね、」

「パーン?」弓助は半笑いで聞き返した。

「うん。や、バーン! って感じかな。パシーン! っていうか………えっとほら、例えば、誰かにボスのこと紹介するにしても、配偶者です、だと、もうそれだけでビシッと決まる感じあるけど、うちの社長ですとか、恋人ですとかだと、何かちょっと、隙がある感じするっていうか……」

「……つまり、結婚って事実が、俺に近づいてくる女たちを追い返す、ハエタタキになるってことか? パシーン、って」弓助は笑いながら言った。

「やっ、そういう意味じゃなくて、上手く言えないけど、俺はただ……、」

「これあったら、もっと虫除けになるかもな」弓助はジャケットの隠しから、小さな箱を取り出した。蓋を開けて、中身を取り出す。「左手貸して、」

「えっ?」紅が惑っている間に、弓助は、自分の右腕に巻き付いていた紅の左手を取った。その薬指に、さっと、金の指輪を嵌めてしまう。紅は真ん丸にした目に左手の方を近づけて、ピカピカに光る、細い輪っかに見入った。

「俺にもつけて、」同じ箱にもうひとつ入っていたらしい、サイズ違いの金の指輪を、弓助は紅の右手に握らせた。紅は、緊張に震える手を誤魔化すこともできずに、差し出された弓助の左手の薬指に、どうにかこうにかで、指輪を嵌めた。

「……ありがとう」弓助は言った。優しい、丁寧な発音だった。思わず紅は、目の前の男を仰ぎ見る。

 ボスは、この日のために、あらかじめ指輪を準備していたのだ。ぴったりのサイズ。いつかの夜、俺が眠っている隙に、測っておいたんだろう。

 と、紅が気づいただろうということに照れているのか、弓助は茶化すようにヘッと笑って、紅の短い前髪をかき混ぜた。

 黙って弓助を見上げている紅の大きな瞳に、少しずつ、うるうると、涙が溜まりだす。それは零れる寸前で、星みたいに瞬いた、かと思うと、一気に堰を切って、まるい頬を、大きな雫が次から次へとすべり落ちていく。

「ボス……っ、……」

 弓助は紅を抱きしめた。美しい泣き顔を。出会った日からずっと、どんなときでも捧げ続けてくれている、真心を。

「俺と一緒ンなってくれて、ありがとうな、紅」

「……ん、……なの、俺の、言うこと……」

 弓助は熱い手で、濡れた紅の頬をに触れた。ちらちらと涙の名残のある目で、紅は弓助を見上げ、大好きな手に頬を撫でられると、幸せそうに目を閉じた。

「……参ったな、」小さく洩れた声に、紅は目を開けて弓助を窺う。紅と目を合わせた弓助は、もう一度彼を抱き寄せ、頭を撫でながら、囁いた。「結婚初夜って言葉があるからには、夜にやるべきなんだろうけど、」

 紅は噴き出す。笑い混じりに、言った。「夜までやったらいいじゃない」

 ふたりは顔を見合わせ、笑って、どちらからともなく脣を重ねた。抱き合いながら、くちづけを深めていく。

 数分後、スズが乗り込んできて、結局、正しい結婚初夜を営むことになるとはまだ知らない、どちらにせよ幸せな新婚のふたりだった。


※タイトルは今回もBALDWINさんからお借りしました。


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