01

ミミの人生

 お姉ちゃんが、もう二度と家には帰ってこないと聞かされたとき、僕はまだ七歳だった。

 その頃、僕ら家族が住んでいたところは、一目で傾いているのがわかるくらいの、おんぼろのアパルトだった。特に玄関の戸は、ノブを回してから思いっきり体当たりして、ギャアッ、というような悲鳴をあげてからじゃないと、開こうとしない、ひどい頑固者だった。僕は、夕方遅くに仕事に出かけるお姉ちゃんのために、その扉を開ける係をやっていた。お姉ちゃんは痩せっぽちで、僕より力がなかったのだ。

 その日も、いつもとまったく同じように、僕は扉を開けて「いってらっしゃい」と言った。

 お姉ちゃんは僕の頭をふうわりと風みたいに撫でて、「いってきます」と笑った。

 僕は、お姉ちゃんの頭の撫で方が好きだった。お姉ちゃんは、その素敵な撫で方を、友達に習ったのだと教えてくれたことがある。その友達のことを話すとき、お姉ちゃんはいつも、目をそっと閉じる。僕はそういうとき、いつもちょっと、つまらない気持ちがした。お姉ちゃんの気持ちが、その友達に盗られてしまったようで、嫉妬していたのだと思う。

 僕は、貧民街の狭い道を、盛り場の方へ歩いていくお姉ちゃんの背中を、しばらく見送った。お姉ちゃんの細い脚は、薄暗い通りの中に溶け込んで、もう見分けがつかない。そのまま薄暗い通りの、ずっとずっと遠くの、暗いところまで歩いていってしまって、お姉ちゃんは、二度と戻らないんじゃないだろうか。僕は、急に立ち現れた、その恐ろしい考えを吹き飛ばすように、頭を左右に大きく振って、家の中に戻った。胸が、すごい速さで、打っていた。

 次の日の昼になっても、お姉ちゃんは帰ってこなかった。昨日の、僕の妄想が、まさか本当になってしまったんだろうか。僕はじっとしていられなくて、何度も何度も玄関を出たり入ったりして、お母さんに「うるさい」と叱られた。

 夕方になって、知らない大人の男がやってきた。空は薄黄色くて、何となく蒸し暑いような、でも、薄ら寒いような、嫌な外気が部屋の中に流れ込んできた。

 その知らない人は、玄関先で、お母さんに封筒を渡した。お母さんはその中身を見てから、すでに帰りはじめていた知らない男の背中に、汚い言葉を投げつけまくった。僕には意味のわからない言葉も、聞き取れないフレーズもあったけれど、すごい勢いで怒鳴りたてていたから、きっと、良い言葉ではないんだろうと思った。

 しばらくしてから、お母さんはやっと、男が半端に閉めたままの扉を、勢いよく引いて閉めた。風圧と音に、耳がキーンとなって、僕は戻ってきたお母さんを、耳を押さえた格好で見上げていたと思う。お母さんは僕を見て、なぜか一瞬、体を硬直させた。引き攣った表情で、僕からすぐに目を逸らし、台所の冷蔵庫から、大きな炭酸飲料のペットボトルを取り出した。直接口をつけて、喉を鳴らして飲む。お姉ちゃんの上にもうふたりいたお姉ちゃんたちと、お父さんは、そのとき不在で、家の中には僕とお母さんのふたりきりだった。

 お母さんは、あと少し残ったペットボトルを、僕にくれた。いつもは「歯に悪い」と言って飲ませてくれないから、僕はびっくりした。お母さんがしていたように、飲み口に口をつけて飲んだ。そのときは初めてだったからわからなかったけど、炭酸はほとんど抜けてしまっていて、甘い水になっていた。

「おいしい」僕は言った。お母さんは僕を見下ろして、空になったペットボトルを僕の手から取り上げた。上向いて、最後のほんの一滴まで、口の中に落としてから、床に投げ捨てたペットボトルを、足で踏みつける。

「深実(みみ)は、もう帰ってこないから」

 お母さんはそれだけ言うと、その日はもう、僕とろくに口も聞かず、ふとんの上で携帯電話のゲームだけ、ずっとしていた。

 次の日になっても、その次の日になっても、お母さんの言った通り、お姉ちゃんは帰らなかった。自分の誕生日が来たって、僕の誕生日が来たって、お姉ちゃんはやっぱり、帰ってこなかった。

 あの日、母が言ったことの意味を、僕が本当に理解したのは、それから、何年も経ってからのことだ。いつかひょっこり帰って来るんじゃないかと、夜中や、早朝の外の物音に過敏になっていた僕の暮らしは、その瞬間に終わった。本当に、何のきっかけもなかった。ただ、霧が晴れたみたいに、僕は、現実に気付いたのだった。

 深実お姉ちゃんは死んだ。

 だからもう、家に帰ってくることはできない。

 その頃には、お母さんも、夕方になるときつい化粧をして仕事に出かけるようになっていた。残りのお姉ちゃんたちは、深実お姉ちゃんが死んだ三年後と、四年後に、それぞれ家を出たきり帰ってこなくなっていた。元からあまり帰ってこなかったお父さんも、気づけば何年も姿を見なくなっていて、最後に、僕とお母さんが家に残ったけれど、そのお母さんも、僕が十四歳になる前の日を最後に、消えてしまった。

 十四歳になって、何日か過ぎた。家にある食べ物は、全部なくなってしまった。お腹が空いて、どうしようもないので、僕も、仕事をすることにした。お姉ちゃんたちと同じ仕事なら、僕にだってできるだろうと思った。

 同じ仕事とはいっても、そのときの僕は、仕事の内容などぼんやりとしかわかっていなかった。とりあえず、夜の街に出ていけば、何とかなるだろう。そんな状態で盛り場の方へと向かいはじめた僕に、最初に声を掛けてきたのは、脣を赤く塗った男だった。僕よりいくつか年上みたいだ。路地裏の草むらから出てきた彼は、いつかのお母さんがそうしたように、お化けでも見ているような顔で、僕をじいっと見つめた。

「あの……、」

 僕が声を出すと、ピクッと身構えた。それから少し息を吐いて、「男……?」と、目を瞬く。

「はい」僕は答えた。彼はまじまじと目を見開いて、僕の顔に顔を近づけた。

「おまえ、姉ちゃんか妹、いねぇか? その……、何年も前に、死んだ……」

「……お姉ちゃんのこと、知ってるんですか……?」

 その男娼は、姉の死について、こう語った。

「おまえの姉ちゃんは、見せしめに殺された。姉ちゃんの友達が、ひとりで、店を逃げ出したせいだ」

「……ころ……された……?」

「あいつが逃げた次の日、あの店で働いてた奴ら全員、呼び出されて……、おまえの姉ちゃんだけ、前室から、店の奴らに連れていかれた。しばらくして、部屋のドアが開いて、……戻ってきたときには、……もう、……」彼の顔がくしゃくしゃになったかと思うと、口の上を両手で押さえて、えずきだした。僕から顔を逸らし、喉をごくりとさせて、不味そうな顔で頸を振る。彼は、咳払いとつばを吐くのを何度か繰り返した。

「その、友達……のせいで、……お姉ちゃんは……」

 彼は悲痛な顔で頷いた。「俺たちだって、そいつのおかげでえらい目に遭ったんだ。連帯責任とかいって、毎日殴られるようになったし、……しかも、そいつ、《毒蛇》の店に逃げ込んだとかでさ、それからいくらもしないうちに、俺たちの店は《毒蛇》に潰されちまった。働いてた子供は全員、また街娼に逆戻り」

「毒蛇……」その言葉に、僕は、聞き覚えがあった。お姉ちゃんと喋っていると、時々、その名が出てきた。たしか、神様の名前だって、言っていたはずだ。

「そう。この辺の街はもう、その《毒蛇》の監視下だって噂がすっかり広まってて、子供を買いに来る客なんかいやしない。俺はまだ、あの店ではでかい方だったから、年ごまかして大人の街娼に紛れられたけど、仲間のほとんどは、もっと東に流れていった。今、生きてるかどうかもわからない」

「《毒蛇》は、神様なんじゃ……」

「疫病神だって神様だからな」彼は顔の半分で笑った。

「お姉ちゃんの友達だったっていう……その、店から逃げた奴は、今、どうしてるんですか……?」

「それがさ、上手くやりやがって、その逃げこんだ娼館、ハチクヤ、ってんだけど、そこで雇われて、いい暮らししてるらしい。豪華な部屋でうまい飯食って、日にほんの何人かの安全な客しかとらずに、毎日楽しくやってんだろうよ。おまえの姉ちゃんの命と、俺たちの生活を踏み台にしてさ」

 血の気の引いていた体の末端に、一気に、熱い血がまわるのを、感じた。怒りに沸き立った血だ。僕は、自分の血液が、こんなに轟々と唸りながら巡ることを、知らなかった。

「……そいつの、名前は……?」僕は言った。

「さぁ。……けど、おまえがもし、そいつに復讐してぇってんなら……、」彼は、周囲に目を配ってから、僕の耳もとに囁いた。「《反毒蛇派》に、ツナギとってやってもいいぜ」

「反、毒蛇……?」

「この街には、そういう奴らが結構潜んでんだ。《毒蛇》とか、ハチクヤの店主に、恨み持ってる人間は多い。俺も含めてな。……おまえだって、もう、立派な《反毒蛇派》だろ?」

 僕は、はっきりと、頸を縦に振った。

 紹介料を後で払うことを約束してから、彼の後について、恨みばかりが渦巻く歓楽街の裏町に、足を踏み入れる。

 なぜだろう。

 彼の話を聞いて、僕はすっかり、元気になっていた。

 空腹も、家族がいなくなってしまった寂しさも忘れて、僕の体はほとんど、わくわくしていた。

 何としても生きていかなきゃならない。そう、強く思った。

 生きている僕には、死んだ……殺された、姉の、仇を討つことができる。


     ◆


 そうして僕は、姉の仇がいる《毒蛇》派の娼館、淡竹屋(はちくや)に、新人の娼妓として入り込むことができた。

 だけどそこには、僕が思い描いていたような、残忍で薄情な姉の仇など、いなかった。いたのは、自分の命を守るために知恵を絞って行動した、ただの、小さな男娼だけだった。

 そのことに気づいたときには、当たり前だけど、僕はもうとっくに、反毒蛇派が漕ぎ出した淡竹屋への復讐船に、乗ってしまっていた。自分が間違ったことはわかっても、今さらどうすれば挽回できるのかなんて、全然、わからなかった。わからなくて、混乱したまま、ただ、やってくる毎日をこなした。

 僕は今でも、その、娼妓としてお客さんをとっていた短い間の記憶を、思い出したくないのに夢に見たりして、夜中に飛び起きることがある。姉のやっていた仕事は、僕にはどうしても、馴染めなかった。体が、どんなに気持ちよくなっても、どんなに優しいお客さんに抱かれても、仕事はつらかった。明日になるなと、寝る前にはいつもそう願っていた。

 姉も、本当は、そうだったんだろうか。

 途切れてしまった深実お姉ちゃんの人生は、もう誰に触ることも、触られることもない。

 謎を抱えたまま、魅惑的に、太陽を受けて光る雲の端や、夜空の星と共にある。

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