03

ミミの人生

 月曜の放課後。僕は、約束した駅の券売機の近くで、紅さんを待っていた。彼の分の切符も、すでに買ってある。

 紅さんが、駅の入口に現れたのは、待ち合わせ時間の五分前だった。ハチクビルからなら、歩いてでも来られる駅だ。紅さんは、目で僕を探しながら、構内のパン屋の前を通り過ぎた。その先の、花屋と旅行代理店を越えれば、券売機の並ぶエリアだ。

 気づいてもらおうと、僕が手を、自分の胸くらいまで持ち上げたとき、だった。横から出てきた若い男が、紅さんを呼び止めた。男は、立ち止まった紅さんの身長に合わせて背を屈め、何か、耳もとに話しかけている。紅さんはそれに、笑顔で応対した。身振りからするに、電車の乗り場を訊かれたようだ。男が去った後で、僕に気づいた紅さんは、笑顔になって足を速めかけたが、そこでまた、別の若い男に声を掛けられた。さっきと同じように、親切な笑顔を見せて会話をしている。

「深果ごめん、お待たせー」二人目の男と別れるとすぐに、紅さんが駆け寄ってきた。

「大丈夫でしたか?」

「うん、俺、駅に来ると絶対ってくらい、乗り場とか道とか訊かれるんだよ。コンシェルジュオーラ、出ちゃってんのかなぁ」

 出てるのはむしろ、フェロモン的な何かだと思うけれども、言葉にすると下品になる気がして、言わなかった。紅さんだって、それに自分で気づいていないはずはない。

 人波の中で見ると、改めて、紅さんが、いかに目立つ容姿をしているかということがわかる。体はきゅっと小さくて、でも、佇まいはふわっと華やかで、群衆の中からひとり浮き出して見えるのだ。薄い色のカットソーと、細身のパンツという、地味な格好が余計に、本人のくっきりとした顔立ちや、身長の割に高い等身を際立たせていた。

 改札をくぐって、ホームに出る。空いていたベンチに腰掛けた。紅さんは、僕に、切符代を渡そうとしてくる。僕はその手をやわく掴んで、押し戻した。そうしてそのまま、紅さんに向かって、深く、頭を下げる。「その……、卑怯なことして、済みません」

「ひきょう?」紅さんは繰り返した。僕は、じわじわと、瞼を上げて紅さんを窺った。長い睫毛を瞬きながら、紅さんは、僕を覗き込んでいた。

「実は、今から、……姉の、お墓、みたいなところに……、一緒に、行ってほしいんです」

 僕の言葉に、紅さんは、目を大きくした。喉から胸もとの辺りが、一度、上下する。つばをのんだのか、頷いたのかはわからなかったけれど、彼は、見開いていた目を、いつもの大きさに戻して、言った。「……うん。行きたい」

 帰宅ラッシュが始まるより前の時間帯だったが、下り電車の座席はわりあい埋まっている。最初は僕も紅さんも、つり革につかまっていたが、途中でごっそり人が降りた駅があって、そこからは、並んで座席に座った。

「駅から、ちょっと歩くんですけど、」僕は右隣に向かって、少し、声を落としぎみにして、言った。

「うん、知ってる」紅さんは笑って頷いた。けれど、行き先に対する彼の動揺とか、緊張とか、そういったものが、僕にまで、痛いくらいに伝わってきた。

 本当は、気楽に、ピクニックみたいな気分で、いつか紅さんと訪れることができたら、と思っていた。だけど、どんな想像を何パターン巡らしても、最初からそんな離れ業はできない、という結論にしか行き着かなくて、だったら、とにかく、最初の一歩を踏み出さなければ、と、思ったのだ。自分勝手な、考えかもしれないけれど……。目的の駅に着くまで、僕はポケットの中の切符を、ずっと触り続けていた。

 途中で私鉄に乗り換えて、小さな駅で降りた。改札が自動ではなく、駅員さんが一人で切符を回収している。紅さんがそうしたのに倣って、僕も、「ありがとうございます」と挨拶をして、通った。駅員さんは少々愕いた顔をしたが、すぐに、「ありがとう。すごい、美男美女だね。お似合いだ」とにっこりした。僕たちは、丸くなった目を見合わせて笑い、少し明るくなった気分で、駅を出た。


     ★


 その、体育館のような納骨堂は、広い自然公園の奥の、林の道を抜けた先にあった。

 開け放たれた扉から、中に入る。明り取りの窓から、微かに夕日の気配は感じられるが、空間の全貌が見えない程度には、中は暗くなっていた。入口脇のスウィッチで、主照明を点ける。白々とした灯りの下には、背の高いロッカー状の棚が、隅から隅まで、何列も続いている。

 西部では、土葬が主流だが、近年、都市部では場所の問題もあって、東部式の火葬も増えてきている。とはいえ、さすがにここまで巨大な納骨堂は、東部でもほとんど見られない規模のものだ。

 納骨棚の一区画のスペースは、だいたい四十センチ四方ほどで、ひとつひとつにネームプレートのついた扉がついている。中には、まだ、ほんの小さい、赤ちゃんの写真が貼ってある扉もあった。何年も、誰も来ていないのがひと目でわかる、くすんだ扉もあった。造花できれいに飾られた扉。何の飾りもないけど、ピカピカに磨かれている扉。写真も色々だ。愛犬と一緒に笑っている、生き生きとした顔のおじいさん。流行の服を着た、若い女性。祭りの格好でおどけている、壮年の男女。

 僕は、目の端でそれらを見送って、C列、と表示が出ている棚の、かなり奥まったところまで進んだ。そこまで来ると、入口から離れているせいか、周囲の納骨スペースのネームプレートは、ほとんどがまだ、空白だった。

「ここです。遺骨も、遺品もないんで、ほんとに、形だけ、なんですけど……」僕はそんな言い訳みたいなことを言いながら、忘れな草の押し花一輪で飾った扉を、開けた。骨壺を納めるべき空間には、折り紙でつくった、たくさんの花を敷き詰めてある。僕は、昨日つくったばかりの、折り紙の百合の花をバッグから取り出して、その秘密の花園に加えた。

 背後で、何か落ちたような物音がした。

 振り返ると、紅さんが、床に、膝をついていた。俯いた、濃い睫毛の下から、涙が、どんどん、あとからあとから、滴り落ちてくる。

「…………っ、……ごめ……、」

 紅さんは、苦しそうな息の合間に、言った。

「ごめん……っ、……ごめんなさい、……ごめんなさ、……」

 何度も、何度も、紅さんは、謝罪の言葉を繰り返した。涙と同じもののように、ごめん、が溢れ出してくる。僕の目も、熱くなって、ぼやけた。そんなに謝らないで、と、思った。紅さんは、悪くないのだから。だけど、それと同じくらい、僕はずっと、そう言ってもらえるのを、待っていたのだ。

 紅さんの謝罪を聞いて、はじめて、僕は、自分の心が、そんなことを思っていたのだと、知った。

 お姉ちゃんの人生は、あっという間に終わってしまった。だけど、確かに、この世にあったのだ。それを共有できるのは、もう、紅さんしか、いない。

 僕も、その場に膝をついた。床に額を擦り付けて謝り続ける紅さんの肩を抱く。少し、呼吸が落ち着いてから、紅さんは、顔を上げた。

「…………名前、…………お姉さん、の、名前……は、……」

「ミミ、です。僕の名前と同じ、深いという字に、果実の実と書いて、深実」

「深実……」

 小刻みに震えている紅さんの右のてのひらが、ゆっくりと、僕の後頸の辺りを、撫ではじめた。紅さんは、涙でいっぱいになった目を開けていたけれど、僕を見てはいなかった。まるで、そこにはいない誰かの頭を、撫でているように。優しいてのひらが、ふうわりと、風のように、僕の髪を揺らす。

「お姉ちゃん……」

 口が、勝手に動いて、呼んだ。

 だって、ここに、いるのだ。

 紅さんに頭を撫でられて、紅さんの胸に顔を寄せている人が、確かに、今、ここにいる。

 紅さんはきっと、深実お姉ちゃんの顔すら、覚えてはいないだろう。だけど、紅さんの手は今でも、お姉ちゃんの頭を撫でたことを、覚えている。彼が、そして僕が、それを忘れない限り、お姉ちゃんはこれからもずっと、紅さんの胸で安心して瞼を閉じて、微睡んでいられるのだ。紅さんが、姉を思って、……いや、違う誰かのためでもいい。とにかく彼が、誰かを慈しんで、相手の頭を撫でる時には、そこに必ず、お姉ちゃんもいる。

 紅さんは、姉の仇じゃない。恨むのは筋違いだ。そう、わかっていながらも、ひっそりと、しつこく、恨みは、僕の心の底にへばりついていた。それを今、洗い流してしまいたくて、こんなに、涙が止まらないんだろう。

「深実を、殺したのは、俺だ……。深果、ごめん。深実の人生を、おまえの家族を、奪って、ごめん。ごめんなさい……」

「違います」僕は語気を強めて、紅さんを、正面から睨んだ。「違うんです。紅さんは、逃げてよかったんです。よかったんです。紅さんは、生きてて、幸せで、いいんです」

「……深果……、……」僕は紅さんの肩をしっかりと掴んで、何度も、何度も、頷いてみせた。

「僕、学校に通うようになって、たくさん暇な時間が出来て……本当は、暇じゃないんですけど、学校の授業って、全然興味ないこととか、もう知ってることとかも、やるので、……そういうときに、考えたんです。どうしても行きたかった第一志望の学校の入学試験に合格出来なくて、人生に絶望して、自殺してしまった人がいるとして、同じ試験で受かった人たちには、何の罪もないでしょう。例え、家の近くだからってだけで受験したとしても、滑り止めの滑り止めで受験してたとしても、全くその学校に行く気もなく、友達の付き添いで受験したのだとしても、受かった人たちは、少しも悪くない。それと、一緒です。紅さんは悪くない。謝らなくて、いいんです」

 紅さんは、違うと言いたげに頸を振る。だけど僕は、「いいんです」と、言葉を重ねた。

「お姉ちゃんが、死んだとき……、僕はまだ七つで、だから、ほんとは僕も、もう、あんまり、覚えてないんです。お姉ちゃんの顔も、声も……」それは、本当のことだった。写真の一枚も手もとにないのだ。昔は似ていたはずの顔だって、身長が伸びるにつれて、どんどん変わってきている。もう、今の僕の顔に、小さな少女の面影など、残ってはいないだろう。

「姉が、なんで死んだのかなんて、本当はわからない。何の証拠もないのに、僕は、淡竹屋で暮らすあなたのことを妬んでた、たった一人の話を鵜呑みにして、信じた。都合のいい恨み言を聞かせてくれた、その、よく知らない男の言葉を、自分にとっての真実にしたんです。あのとき……あのときの、僕は、急にひとりぼっちになって、不安で、どうにか……、生きて、いこうと思えるだけの、理由が、きっと、必要だったんだと、思います。殺された姉のため、って言い訳は、あのときの僕にとっては、最強の切り札だった。姉のために……自分が生きるために、何をしても、……何もしなくても……、誰からも許されて、自分も、自分を許せるような、そんな敵が、絶対的な悪が、ほしかった。お姉ちゃんのためなんかじゃない。ただ、僕が、誰かを、恨んでいたかっただけなんです」

 言いながら、僕の体のあちこちは、ヒリヒリ、冷や冷やしていた。自分の口から出た言葉が、まるごとそのまま本心だと、言いながら、気づいているような感覚だった。

「だけどもう、そんな……そんなのは、嫌です。僕、紅さんが、好きです。ずっと、憧れて……、紅さんが、周りを明るくしているみたいに、僕も、僕にできることで、誰かの役に立ちたいって、思うんです。紅さんみたいに、強くいられる、人間になりたい。……それで……、僕も、……本当は、もっと……、紅さんと、仲良しに、なりたいんです。トールくんとか、バイトに入ったばかりの店員さんとかが、すぐに紅さんと打ち解けてるのを見てると、……子供っぽいかもしれませんけど、羨ましくって……嫉妬、してしまうんです。僕だって、出会いがあんなんじゃなかったら、もっとすんなり、仲良くなれたはずなのに、って。……おかしいですよね。お姉ちゃんのことがなかったら、きっと一生、会うこともなかったのに……」

「深果、……」僕の、知らぬ間に、膝の上できつく結んでいた両手が、やわらかなものに包まれた。紅さんの、てのひらだった。温かい。生きている、優しい人の、てのひらだ。

「もし、紅さんが幸せになることを、姉の死が、何らかの形で邪魔しているなら、……姉を、忘れてください。お姉ちゃんは、紅さんのことが好きでした。それは本当です。覚えてるんです。顔や、声は、もう、あやふやだけど……、だけど、あなたに頭を撫でてもらうのが好きだった、それを嬉しそうに僕に話してくれた、姉のことを、僕は、覚えてる。だから、紅さんはもう、忘れていいんです。……ごめんなさい。もっと早く、言いたかったんですけど、……」

「俺は、忘れないよ」紅さんは、言った。「一生忘れない。…………だけど、……ありがとう、深果。……いっぱい、おまえの時間、奪ってごめん。ごめん……」

 僕は頸を振って、紅さんを、抱きしめた。

 紅さんも、腕を回して、抱き返してくれた。


     ★


 外の水場で顔を洗った僕たちは、小さな兄弟みたいに手を繋いで、来た道を引き返した。駅に着いたら、さっきの駅員さんに見つかって、「良いデートだったみたいだね」と、冷やかされてしまった。自分たちでは、仲の良い兄弟のつもりでも、傍から見れば、やっぱりカップルに見えるらしい。

 紅さんには、夫がいる。こういうことは、ちょっと、気をつけていかなきゃならないな。そう思って、ハチクに戻ったときには、もう手は繋いでいなかったのだけれど、なぜか、紅さんのパートナーの弓助さんが、受付で僕らを待ち構えていた。オーナー自ら、受付に詰めていることは稀だ。虫の知らせってやつだろうか。僕の紅さんへの愛情は、性愛を含むものではないつもりなんだけれど。

 なんだけれど、帰ってきた僕らをひと目見て、弓助さんは、僕と紅さんの関係に何か変化があったことを、敏感に感じ取ったらしい。この夜から、僕も、紅さんに引き寄せられた、下心のある虫の一匹として、弓助さんの嫉妬の対象に仲間入りした。紅さんと、ちょっと顔を近づけて話をしたりすると、今までは全くのスルーだったのに、急にサングラスの上からじろりと睨まれるようになったのだ。

 正直、こんなに愉快な勘違いもない。

 僕の人生の、こういう、楽しい瞬間は、お姉ちゃんの人生があってこそ現れた、未来だ。

 深実お姉ちゃんの人生は、これからも、僕の、紅さんの、僕らに関わる人たちみんなの人生の中で、チカっと光る星になったり、じんわりと温かな雨になったりするだろう。

 僕の人生は、僕だけのものじゃない。

 いつか、どこかですれ違った誰かの人生。その人生を支えたり、変えたり、甘やかしたり、蹴飛ばしたりしてきた、また別の誰かの人生。そんな途方もない数の誰かの人生と共に、僕らの人生もある。


(了)

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