EX

俺の人生

「ボス、気づいてたの」と、紅は大きな目を見開いた。

 向かいの紅のグラスにワインを注ぎながら、「深果と、墓参りにでも行ってきたのか」と、俺が訊いた直後の反応だった。

 ダイニングテーブルの上には、チーズと、胡桃と、切って塩をかけただけのトマトの皿。赤ワインは、真がこの前持ってきた、ミディアムボディのテーブルワイン。俺は自分のグラスも手ずから満たして、「健康に」といつもの乾杯の言葉を言い、グラスを目の位置まで持ち上げた。紅も同じように乾杯をする。

 今日の夕方。

 紅は、深果と連れ立って、店の正面玄関から帰ってきた。ふたりとも、まだ、涙の気配の残った目をして。

 今日の紅の休みを、深果が少し前から予約していたのは知っている。深果の養い親である、俺の幼なじみから聞きだした。深果から紅を誘うなんてことは、滅多にあることじゃない。何しろ深果という奴は、紅に話しかける前にはいつも同じ無表情になって、喉仏を上下させたり、深呼吸をしたりする始末なのだ。

 だからそんな深果が、自ら紅の予定を押さえるなんて大胆な行動に出たのであれば、目的はもう、アレしかない。

 深果は、ふたりの間を隔ててきた、過去から続く大きな川を、渡る決心をしたのだ。紅が深果に遠慮をし、深果が紅とうまく付き合えない、その大元に横たわる、死んでしまった少女。

 深果の姉の話を、ふたりでしてきたに違いなかった。

「良い、時間だったみたいだな」俺は、紅の顔を見て言った。

 泣いた後だとまるわかりだし、表情にもどこか影が射している。それでも、何か、茨の森を傷だらけになりながら進んでいって、美味しい果物のありかを密かに見つけてきたとでもいうような風に見えた。怪我はしても、そのぶん、楽しいこともちゃんと経験してきた、というような。

「……うん」口もとを緩めて、紅は頷いた。薄い色の睫毛が閉じられ、再び持ち上がって、俺を見る。「でも、ボス、どうして? なんでわかったの?」

「俺ァおまえのこと、いつも穴あくほど見てっからな」嘘でもないことを言うと、紅は「そっか」と滲むように笑って、ワインに口をつけた。

 本調子の紅なら、俺がこんなことを言えば、「バッカだなぁ」とか「ハイハイ」とかいう風に、しゃきっといなす。良い顔はしていたが、いつもほどの元気がないのも、確からしかった。

 腕を伸ばして、俺は紅の丸い頬を撫でる。人さし指の背で、軽く。紅は、少し眠たそうな目になった。瞬きの陰で、するりと、小鳥の影が行き過ぎるみたいに、小さな涙の粒が滴り落ちる。

 温かくてすべすべした紅のほっぺたを、俺は指先で、幾度となく擽った。紅は淡く笑った。俺があとからあとからすぐに拭うので、紅の流す涙が、冷たく彼の頬を濡らすことはなかった。

 紅は向かいの席から、俺の隣に座り直した。それから、俺の首に腕をまわして、抱きついてきた。膝の上に、俺は小さな体を抱き上げた。

「ボス」

 俺を呼ぶ声。抱きしめてくる腕の力も、寄りかかる体重も、俺にとって不快でないように、きちんと制御されている。

 これはどんなときでも、例えばこうして泣いているときも、雷みたいに怒ってるときも、セックスの陶酔の中にあるときでさえ、狂うことはない。幼い頃から身に染みついた加減なんだろう。紅の体の重みを、そのまま感じられるのは、彼が眠っているときだけだ。

「うん」俺は返事をして、抱いている紅の背中を、軽く叩いた。

「……ボス……っ」しがみついてくる力が、ほんの少しだけ、強くなる。

「うん」俺は繰り返した。

 紅はそれから、何度も息を吸い、言葉を紡ぎかけては、音にならない吐息を散らした。その間、俺は幸せなような、切ないような気持ちで、黙って紅の体を抱き続けていた。

 紅の手が、肩に置かれる。

 大きな目で、俺を見る。

「俺、生きてて、よかった」

 確かめるように、言い聞かせるように、紅はその言葉を、声にした。とても小さく、でも、しっかりと。もう、目のふちに、涙はたまっていなかった。

「紅、」名前を呼んで、でっかい目と目を合わせて、細い体を両腕でしっかりと抱きしめて、言った。「愛してる」

 どうして、こんな陳腐な愛情表現しか、俺たちにはないのだろう。紅が生きている歓びを、今、こうして、彼が俺の腕の中にいることの幸福を、どうして、こんなもどかしい方法でしか、伝えることが叶わないのか。

 だからこそ、人は惹かれあうのだとしても。

 見せてやりたい。俺がどれだけ、おまえを好きか。どれだけ大事か。

 俺はきっと、おまえを遺して、ずいぶん先におっ死ぬ。十歳以上もあるこの年の差が、年々、バカみてぇにおそろしく、憎らしいものになってきてるってこと。

 意地でも、死んでも、淡竹屋を守り抜く。もう、ただそれだけしかなかった俺の人生を、おまえが変えてくれた。

 こつこつと土を耕し、種を撒き、水を与え、それでも七年間、一度も芽吹かない薄暗がりの大地に、おまえは黙ってしがみついてた。明るくて豊かなよその土地が目に入っても、おまえは不毛の大地を見捨てなかった。貧相な、夢も何もない、枯れきった土地の未来を、おまえだけが信じて、必死で手入れを続けてくれた。

 おまえに愛されて、俺は、旺盛に伸びる若葉や、ほころぶ花のつぼみ、だんだん太って色づいていく果実、そういうものが、自分の土地にもあったらいいのにと、もう一度、思うようになった。

 どこに何を植えよう、どんな形の木に育てよう、そういう、胸がわくわくするような、未来への期待を、もう一度、俺に抱かせてくれた。

 おまえが、俺の人生にやってきてくれたから。

「紅、愛してる」

「……っ、……うん、」

「おまえを愛してる」

「……俺も、ボス、」

「うん」

「愛してる」

 何回でも撫でた頬をまた撫でて、何回でも吸った脣にくちづける。上脣を啄ばみ、音をたてて吸い、ちょっと離れて、また脣を重ねる。

 そんなキスを長々と続けていたら、途中で紅が、「もう、」と拗ねた声を出して、顔を振った。俺の耳に噛みついてくる。

「痛って、」

「気分乗らないの?」紅は、俺の耳を舐めながら言った。

「いや、セックス以外で、俺の愛がもっとおまえに伝わらないもんかと思ってさ」俺は笑って返す。

 紅は、バチバチと派手な瞬きをしたかと思うと、大きく口を開いて、今度は俺の顎に歯を立ててきた。

「痛ぇって、」

「俺が知りたいのは、ボスが今したいのか、したくないのか」

「そりゃ、してぇけど、」

「……よかった」

 紅は、羽織っていたカーディガンから腕を抜きながら、やさしく音を立てて、俺の脣を吸った。

「俺はね、エッチしてるときが一番、ボスに愛されてるって実感する」

「そうか?」それって、良いことか? と自問する間もなく、「そうだよ」と紅が言い切った。

「ボス、めちゃくちゃ優しいんだもん」

「……そうかァ?」

「そうなの。だって、最初のときだけだよ、ボスが完全に自分のペースでしたの」

「んなことねぇだろ。おまえ相手だと、結構アタマぶっ飛んじまって、無茶苦茶やったりしてると思うぜ」

「そういうときは、だいたい俺もどうかなってるときだからノーカウント」

「おまえは俺に甘ぇなァ」

 互いに笑った形の脣をくっつけ、舌を絡めながら、俺は紅の体を抱き上げた。俺のベッドに運ぶ。

「そういや、今さら気づいたんだけどさ、俺、こうやって好きな奴ベッドまで抱えて運んだりすんのって、おまえが初めてだったんだよな」

「えっ、うそ、」

「本当。おまえには、これで何回目だってくらいやってんのに」言いながら、丸い頬にキスを落とす。

「それはボスの今までの恋人が、みーんな大人の女性で、俺より背も高くて、俺みたいにごねたり甘えたり拗ねたり怒ったりしない、格好いい人たちだったからじゃないの?」

「確かに、こんなにチビの恋人は初めてだな」もう一度、紅の尖った脣にキス。「それにまァ、どっちかっつーと、今までの相手には俺の方が甘えてたかも」

「俺にも、甘えていいんだよ」紅は真面目な顔になって言った。つい笑ってしまう。

「何で笑うの」

「いや」笑いながら首を振る。

 こいつは、全然わかってない。

 俺はもう、甘えられるだけ甘えてきたのだ。紅が俺に惚れてることを利用して、さんざんうちで金を稼いでもらった。他店から打診される引き抜きの話を、平気で本人に伝えられたのも、甘えていたから。

 あの頃はまだ、そういう自信があった。俺に惚れてる紅が、よその店になんか行くわけないと。

 今はそんな余裕はない。俺が、紅を好きになってしまったからだ。

「そんじゃあ優しいおまえに甘えて、今日は泣くまでめちゃくちゃに愛させてもらうとするかな、」俺はシャツを脱いで、紅に覆い被さる格好でくちづける。

「やったぁ!」紅は笑って、俺の裸の腰に、脚を巻きつけた。

(了)

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