02
雷神と銀の稲妻
お化け屋敷の、シャッターの半分降りた店前に、馬鹿みたいに派手な服を着たドレッドの男が立っていた。夜なのにサングラスをかけていて、それがまた男の奇妙さを引き立てている。禿びた煙草を噛みしめるように銜えて、水銀灯が明るく照らす通りの左右に首を廻らしていたその男は、「あ、ボス、」
と俺の隣の少年が声をあげたのと同時に、こちらに顔を向けた。
「紅!」
ベニと呼ばれた彼は、『ボス』へ向かってぴゅーっと駆けていった。ぶかぶかの白いシャツの背中が、橙色の並木通りに映えていた。何で親をそう呼ぶのかは知らないが、『ボス』というからには、この変な恰好の男がお化け屋敷の社長なのだろう。携帯灰皿に煙草を押し込んだ『ボス』は、背を屈めて、駆け寄ってきた紅を抱きとめた。
「どうした、それ」
男は淡々とした声で訊き、外したサングラスを胸ポケットに突っ込んだ。紅が自分で当てている氷嚢の下を、ひょいと覗きこむ。
「ちょっと途中で酔っ払いに絡まれちゃってさ」
紅はそれだけ言った。
「ケツ泥まみれじゃねぇか」
『ボス』は正面から紅を軽く胸に抱くようにして、適当な仕科で、汚れたジーンズの尻を軽く払った。紅からは見えない位置にある剥き出しの目が、彼の全身を急いで巡る。視線は、その胸元で引っかかって、険しく尖った。俺の貸したシャツの下の、破れたTシャツに気付いたのだろう。男の顎はそのときまだ、紅の、ちょうど前髪の生え際あたりに載せられていた。だから、その恐い顔を見たのは、世界で俺だけだった。
俺は決して、そういう類の勘が鋭い方ではない。と、思う。けれど、少年がさっき言っていた「うちのひと」というのが、保護者のことではなく、パートナーを指していたのだということは、その瞬間に分かった。その、『ボス』の表情だけで、決定的に分かってしまったのだ。
紅は、恩人だと言って、彼に俺を紹介した。
「助けてくださって、有難うございました。本当に、感謝します」と『ボス』は俺に深く頭を下げる。
『ボス』はとても礼儀正しくて、でも、大事な人を傷つけられたことへの怒りとか愕きとかが、ちらちらと遠くに遣られる奥二重の目に出ていた。犯人をとっちめる方法か、紅を慰めるやり方か、わからないが、とにかくそういう類の何かを、頭の中で必死に探している人の目だった。それが、大人の態度の隙に覗いていた。
「いえ、俺べつに大したことしてないんで、」
「うそ、いっぱいしてくれたよ」これもあれもと、紅は右手のミネラルウォーターのペットボトルと左手の氷嚢を掲げたりして、俺がいかに紳士的でスーパーマン的であったかということを、『ボス』に説明している。もう一度丁寧に頭を下げて俺に礼を言ってくれた彼は、「自分はこういう者です」と、内ポケットから名刺を取り出した。『菊竹 弓助』と書いてある。これで、『キクタケ キュースケ』と読むらしい。この辺ではまぁまぁ珍しい、漢字を使った名前だ。『お化け屋敷ハチク/創作料理・淡竹 最高責任者』という肩書きも添えられていた。正しい作法は知らなかったが、とりあえず両手で受けとった。
「えーと俺は、1つ向こうの裏通りの、『ゴリラ』ってバーでバイトしてる、トールといいます。王立大の1年です」
「ああ、ゴリラ。飯が美味いとこだ」
「ご存知ですか?」
「昼に何回か行っただけだけどな。バイトは夜だけ?」
「はい。他のと掛け持ちでやってるんで」
「じゃあ、今度は夜にお邪魔するよ」
何か、それは別に、何と言うことはない応対の仕方だったのかもしれない。でも俺にはこの人の、素っ気ない声の調子とか、恋人(奥さん?)の怪我のことで落ち着かない目線とか、それを俺には悟られても紅には隠そうとしているらしい所とか、全部ひっくるめて、好きだと思った。かっこいい大人のひとだなぁ……と素直に見上げられる。実際の身長は、俺の方がだいぶ高かったのだけれど。
「あっ、ねぇ、トール。このシャツ、今から仕事で使うはずだった?」紅が言いながら。早速ボタンを外そうとしているのを、いいよ、と手を振って制す。
「大丈夫。着てっていいから」
「ほんと? ありがと。よかったら連絡先教えてくれる?」
「いや、いいよ、安物だし、あげるよ」
「でも、助けてもらっただけじゃなくて、バイトの邪魔もしちゃったし、お礼したいんだ。お願い、ね?」
こんな顔でお願いされて、断れる男がいるだろうか。身悶えるほどかわいい上目遣い。言われるがまま、連絡先を交換した。
帰り道、横道に入る前に振り返ったら、2人はまだ店の前に立って、俺を見送っていた。紅が大きく手を振る。俺も手を振り返してから、道を曲がった。
★
店の扉を開けると、チーズのいい匂いがした。店長ごのみのレゲエともラップともつかない音楽の流れるこじんまりとした店内は、いつも通りの約7割の混み具合。黒っぽい木の床も、薄暗い照明も、いつもと変わらない。さっきまでの出来事が夢のように遠ざかってゆくのを感じた。
「おっ、お帰り。どうだった?」
店長が、カウンターの馴染み客にリゾットの皿を出しながら訊いた。俺も急いで着の身着のままでカウンター内に入る。流しに食器がたまっていた。
「済みません遅くなって。あの、並木通りにお化け屋敷あるじゃないですか。そこの子だったみたいです」後半を、声を潜めて言った。うちのお客さんはこの周辺の店に勤めてる人が多いから、紅のことを知っている人もいるかもしれない。暴漢に襲われたなんて話を勝手に広めたくなかった。
「ん? まさか、中学生くらいの女の子って、紅くんだったんじゃ……」店長も、俺の耳もとで低く言った。
「えっ、はい、そうですけど、知ってるんですか?」
「うわ、マジかぁ。あーらら、それ、加害者見つかったら殺されるね」
「え……? でも、見た目は色んな意味でこわそうでしたけど、結構良い人でしたよ。名刺くれたし。今度、夜に店来てくれるって言ってました」
店長は目を丸くして、素っ頓狂な声をあげた。「弓助さんの名刺ぃ? どんなん?」
食器洗いの途中で手を拭いて、貰った名刺を出してみせる。店長はそれを照明の下に翳した。「あら、意外に普通なのね」
「意外って……」
「だってほれ、凄い格好でしょお、あの人」
「ああ、たしかに」
あの格好だから、名刺もどんなに凄いのが出てくるかと期待したらしかった。まだ何か仕掛けがあると疑っているのか、軽く曲げたり、斜めから見たりしている。
「紅くんもなんか、着てるもんは普通だけど全体的に濃い感じだし。濃いのが似合うんだよなぁ、弓助さん。顔だけは薄味だけど。だからかな」
気付いたら、流しの目の前、カウンター席の空いている一番端の狭い空間に、美女が鈴なりになっていた。例のお化け屋敷と同じ通りにある老舗宝飾店『クレオパトラ』のお姉様方だ。
「マスター、弓助さんの名刺ってそれー?」
「見してくださいよう」
「あ、なんか紙ビミョーにキラキラしてるー」
「ほんと、キレー。あたしも今度もらっちゃおー」
もうだいぶ出来上がっている彼女たちは(飲みかけのグラスを両手に移動してきた強者までいる)、店長の手から奪った弓助さんの名刺を、それぞれ翳したり覗き込んだりして、えらく盛り上がっている。
「そんなに有名なんですか、あの人」俺は訊いた。
「有名っていうか、ねー」
「ラブラブだもん、ねー」
「らぶらぶ……って、紅と、その……弓助さん、ですか……?」
「そうよう。籍まで入れてるもの。正真正銘の夫婦。あたし本当はちょびっと弓助さん狙ってたんだけど、駄目なのよ。あの人、しれっとした顔して実はオンリーワンなのよ!」
「オンリーワンって……」
「『紅しか見えないッ』っていう、ね」
そうそう、と、美女たちは深く頷く。
「弓助さんってば、身持ち固いし、優しいしぃ、」巨乳美人は組んだ両手を顎の下に置いて夢見るように言った。
「マメだし、なんか余裕があんのよね」後を継いだ美脚美人は中空をうっとりと見つめて、立ち飲み屋でビールを煽るおっさんのように、グラスを傾けた。中身がどんどん減っていく。
「そうそう。頼りがいあって、そのうえ社長!」お嬢様系美人は指を折って弓助さんの美点をカウントしている。
「紅くんまだハタチなのに、男見る目あるわよね」悪女系美人はそう言うと、いかにも酔っ払いっぽい、とろんとした笑顔で、「お騒がせいたしました」と恭しいお辞儀をして名刺を俺の前に戻した。それを合図に、美女軍団はぞろぞろとテーブル席に帰って行く。
「は、……はたち……?」
中学生ぐらいのつもりでいたので、本気でビビった。だが考えてみれば、旦那がいるのだ。中学生なわけがない。非日常が一気に押し寄せてきて、頭の回路がこんがらがってるらしい。
それにしたって、あんなちっこくてかわいいのが、年上とは。国境を越えて探しに行くまでもなく、こんな近所にも、思いがけない謎なんてごろごろしているものなのかもしれない。見過ごしているだけで。
「そういえば、あそこの3階の変な服屋、弓助さん御用達のさ、」手を動かしながらも、俺の耳は巨乳美人のその声にぴくりと反応した。紅や弓助さんに関する話を、もっと聞いていたかった。「あそこに最近新しい子入ったの知ってる?」
「あ、あたしこの前ちょっと話したよ。紅くんと仲良しの子でしょ? 近くで見たらすっごい迫力だったぁ。目力凄すぎだよ、殺されそうだったよ!」
「凄いよね、もはやメデューサだよね! あの子も弓助さんの知り合いだって知ってた?」
「そうなの。たまにお化け屋敷手伝ってる金髪の王子様みたいな子も、確かそうでしょう?」
「えぇー、弓助さんって何者なんだろう……美少年愛好家?」
「あたしも美少年に生まれたかったぁ」
弓助さん、好き勝手言われているが、美女たちに大人気である。
俺は少し意外だった。何となく、弓助さんの格好良さって、女より男の方がわかりそうな気がしたからだ。あのもの凄い格好とか、あっさりした顔とかも、どっちかというと男受けしそうな感じなのに。店長はオムレツの材料を混ぜながら、にこにこして言った。
「俺は皆が美女でよかったー」
4人がガバッと晴れやかな顔をこっちに向ける。薄やみの中に、いきなり大輪の花が咲いたようで、なかなか素敵な光景だった。
「もー、マスター大好きー。いっぱいおかわりしちゃうー」
あんなにスリムな体のどこに入れる気か、彼女たちから怒濤のごとく食事と酒の注文が入って、一気に慌ただしくなった。忙しく働いている間も、俺のどこかはずっと何かにわくわくしていた。いつもより目の前のことに集中できて、ものがくっきりと見える。そうさせているのは、紅、そして弓助さんとの出会いと、再会の約束だ。あの変わった、魅力的な人たちに、また会える。旅と同じくらい、そのときが待ち遠しかった。