06

雷神と銀の稲妻

 実さんからスタジオの予約を取り付けて、店に戻ると、ランチの時間を過ぎたカウンター席に、客が1人居た。長いドレッドと、紙で出来てるみたいな変わったスーツの背中は、薄暗い店内でも目立つ。

「よう、トール。昼間に会えたな。お疲れさん」

「いらっしゃいませ、弓助さん。昨日はお昼を紅さんにご馳走になって……」

「聞いた聞いた。結局、銀とメシ食ったんだってな」

「あっ、ええ、はい」

 名前を聞いただけで胸がきゅっと跳ねる。血がぐんぐん巡る。そういう体の反応で、俺はあの人に恋をしているのだと、何度めかの自覚をした。店長にスタジオの鍵と、予約のメモを渡してから、手招かれて弓助さんの隣に掛ける。弓助さんはサングラスをずらして、俺の顔を覗き込んだ。

「何で顔赤くしてんだお前」

「えっ、あ、赤い、ですか?」

「何だァ、お前まさか、」

「いやっ、そのそれは、まだ、というかいやでも素敵な方だとは思いますけど、」

「トール、弓助さんまだそこまで突っ込んで訊いてないから」冷静な店長からの突っ込みに、今度はもう自分で感じるほど、顔がカッと熱くなった。店長は苦笑しながら魚介のリゾットを出してくれた。隣で弓助さんは「マジか」とスーツの尖った肩を揺らして笑っている。近くで見ても、彼の着ているスーツは紙製のように見えた。それっぽい折り目や破れ目が付けられていて、表面には、分厚い再生紙みたいな微妙な毛羽立ちまであるのだ。

 俺は穴があったらそれがどんな小さな穴でもせめて顔くらいは突っ込んで隠したいような気持ちで、笑っている大人の男たち――そういえば2人とも、自分の店を持っていて、割と女好きでそれを隠さずよくモテているけれども、一緒に生活をしているパートナーにぞっこんだ――を見た。自立した大人を前にすると、自分の幼さを、いつも以上に意識してしまう。年齢だけのせいじゃなくて、自分が精神的にもとても幼いように感じる。

 俺にはまだ、大した恋愛経験がない。高2の春から高3の夏休みの途中まで付き合った前の彼女が、最初の彼女だから、キスもその先もその彼女としかしたことがない。ケンカらしいケンカひとつしなかった穏やかな付き合いは、俺が、王立大の入試に備えて、ほとんど週7で予備校に通うようになった頃に、終わった。1年以上も付き合ってきて、途中、俺の部活が忙しくてすれ違いばかりだった期間も乗り越えてきたのに、「会えないんじゃ付き合う意味ないでしょ」と言われて、あっさり振られたのだった。

 そう言われたとき、俺はまだ当然、彼女を好きだったけれど、引き止めたり、追い縋ったりはしなかった。たぶん、彼女はずっと、自分を1番に考えてくれない彼氏のことを、不満に思っていたのだ。それが何となく分かっていたし、恋愛の為に大学入試を棒に振れるほど、自分が剛胆な人間じゃないことも知っていた。

 そんな貧弱な経験しか持たないくせに、ひとつの恋を終えて、次に誰かを好きになるまでに1年もかかるような人間なのに、まさか、男を好きになるなんて。我ながら、いきなり難易度上げすぎだ。レベル1桁で、超希少モンスターと出会ってしまった気分だ。知らぬ間にリゾットの前で頭を抱えていた俺の背を叩いて、弓助さんはハッハと笑った。

「いいじゃねぇか、ノンケからのドロップアウト。誰にだってあり得ることだって」

「あんまりあり得ないから、仲間見つけて嬉しいんでしょう」店長がにやにやして言う。弓助さんは、たぶん店長を小突く代わりに、俺の背中をもう一度ペシッと叩いた。「ほんとお前は性格悪ぃなぁ。その通りだよ」

「ま、紅くんはフツーの男子の規格からは大幅に外れてますけどね。正直見た目はうちの嫁の方が男らしいですよ」

「お前の嫁はちょっとでけぇだけでいい女じゃねぇか。うちのは、あれで結構立派なモン持ってんだからな」

「マジすか? それはちょっと想像つかないな」

「想像したら殴る」

「自分で振っといて」

 店長と弓助さんの淀みのない掛け合いは、長く続けば続くほど、店長の好きなラップだかレゲエだかの音楽のように聞こえてきて面白かった。それにしたって、随分気安い仲であるらしい。元からそうだったのだろうか、それとも、先日のことが切欠で、急に仲良くなったのだろうか。

 腹ごしらえをすると、気持ちも少し落ち着いてきた。俺は弓助さんにくっついて、銀のところへ遊びに行くことにした。

 あの夜、紅を送って行った横道を通って、並木通りへと向かう。足元の影が薄い。遠雷と一緒に、空の端にあった雨雲が広がって、この辺りに近づいてきているのだ。涼しい風が吹き下ろしてくるのに、肌はじとじとする。弓助さんの額にも、汗が浮かんでいた。この人でも普通に汗をかくのか、なんて思ってしまう。

「お前さ、マジで、銀に惚れたのか」さっきのようにからかっている風ではなくて、ごく普通の調子で、弓助さんは訊いた。

「たぶん……はい」

「うちのにならまだしも、よりにもよって銀になぁ」

 紅を好きになることなら、確かに、普通にあり得ると思う。小さくてかわいいし、性別の印象が希薄だから、男だと知っていても変な気持ちになる奴はなるかもしれない。というか、実際に手を出すかどうかは別にしても、変な気持ちくらいになら、なる。と俺はもう、断言できる。

 一方の銀は、俺から見たら小さいが、おそらく標準以上に身長もあるし、髭の剃り跡だってある、誰が見ても男にしか見えない男だ。美形だとは言っても、さすがに彼を好きになるのは、女子かゲイだけだろう。

「弓助さんって、どうやって、……その、男を、……そういう風に、好きだって、気付いたんですか。元々はストレートだったんですよね……?」

「あぁ。紅と関係持つまでは、女の恋人しかいたことなかったな」

「ずっと女の人が恋愛対象だったのに、同性を好きになったって、すぐに自分で確信が持てるものですか……?」

 弓助さんは片眉を跳ね上げ、しばらく考えてから、口を開いた。

「何ていうかなぁ、全然参考にならねぇと思うぜ、俺の話なんざ。何しろ一緒の家で7年暮らした後で付き合いだしたから、いつ確信したってのもねぇんだよ。ま、俺がお前に言えるのは、男だどうだってことより、相手が銀だってことの方がよっぽど事だぞ、ってことかな」

「え、それって、どう……」

 キラキラっと、方々に白い光が見えたと思ったら、それは大きな雨粒だった。日射しはないが、まだ白々と明るい並木通りに、大粒の明るい雨がざんざか降ってくる。お化け屋敷まで、あとどれほどもない距離だったのに、ずぶ濡れになってしまった。隣を走る弓助さんの紙みたいなスーツが気にかかる。

 ハチクの正面入口から駆け込むと、ロビーは雨宿り客で賑わっていた。店員さんたちが総出で、濡れてしまったお客さんたちにタオルを配っている。その中の一人がこっちに気付いて飛んできた。

「やだ、オーナー! すぐタオルを、」

「あー、俺はいいよ、すぐ上戻るから。こっちに一枚やって」

「あっ、すみません、どうぞ。一枚で足りますか?」

「大丈夫です。ありがとうございます」

 にっこり笑った店員さんの顔に見覚えがある気がする。キモノを着ていても分かる巨乳と、顎のほくろで、最近、週刊誌の結構エロい袋とじグラビアに出ていた子だと思い出した。それに気付いてから改めて周りを見てみると、すぐ近くに、彼女の体を分かりやすい目つきで舐め回している男がいた。体を拭くついでのような動きで、俺はその男と店員さんの直線上に体を割り込ませた。いかつい俺の体は、男のわざとらしい舌打ちも跳ね返す。店員さんは弓助さんの袖をタオルで押さえながら分厚い脣を尖らせた。

「オーナーはよくても、このまま動かれたら床がびしょびしょになっちゃうじゃないですか。よりにもよってこんな服のときに降られなくても……」

「服は大丈夫だって。水は弾くようになってるし」

「そうみたいですけど、とにかくちゃんと拭いてから行ってくださいよ!」

 本人の言うように、表面を水玉が滑って落ちるだけで、弓助さんのスーツは少しも雨が染みている様子はない。だがここまで来ても、素材が紙なのか布なのかは判別できなかった。弓助さんは無理矢理持たされたタオルで腕や脚をぞんざいに叩いてから、「またな」と言って社長室に戻って行った。

 俺はとりあえず、髪の先や服の裾から水滴が落ちないくらいまで、しっかり水気をとってから、タオルを出ていた回収ボックスへ戻して、エスカレーターで三階へ上がった。匂いのついた煙に霞んだボードゲーム屋の前を抜けると、昨日は閉まっていた家具屋が今日はやっているらしく、灯りが点いていた。学校の美術室の縮小版のような室内を覗いてみると、広い木製の机の手前に、こちらに背を向けて、銀が立っていた。声を掛けようと息を吸い込んだときに、ちょうど銀の陰にすっぽり隠れる位置に、もうひとり誰か居るのに気付いた。一瞬、銀が、その人を後ろから抱き締めているように見えて、頭が真っ白になった。

 気配を察したのか、銀が後ろを振り返った。俺を見つけて、丸くなった眼が、すぐに機嫌のいい猫の目に変わった。

「あれ、トールじゃん。早速来てくれたんだ」

「う……うん。さっきバイト先で弓助さんに会ってそれで……」

「あ、昨日はどうも。こんにちは」

 そう言って銀の陰から顔を覗かせたのは、昨日のランチの店の、美形給仕だった。2人は机の上を散らかして、何か作っているらしい。給仕は椅子に座って、銀はその背後に立って作業をしていたから、角度的に、銀が彼を抱き締めているように見えただけだった。なんだ。密かに息を吐く。

「こんにちは。昨日はこちらこそ、どうも、ごちそうさまでした」

「てかトールなに、濡れてない? どうしたの」

「いや今来るとき急に雨降ってきて」

「タオルタオル、」止める間もなく銀は隣の服屋の方へ走って行ってしまった。後を追うか留まるか迷ってまごまごしていると、美形給仕が会釈して近づいてきた。

「お話は紅さんたちから伺ってます。僕、用松深果(もちまつ みか)といいます。紅さんと銀さんの……ええと、後輩、みたいなものです。よろしくお願いします」

「あ、よ、よろしくお願いします。トール・バックです」

「ちなみにこいつ、昨日の飯屋のコック長の、一人息子」すぐに戻ってきた銀はそう言いながら、ふわっふわのバスタオルを広げて、俺の肩に被せた。

「あっ、そうなんだ。ランチ、すげぇ美味しかったです。ほんとに感動して、」

「きゅうりのスープな」

「そう、美味しかった!」

「お口に合ってよかった。僕もあれ、大好きです」

 銀も深果もタオルの上から、俺の肩やら胸やら尻やらをもふもふと押さえ付けてきた。タオルの生地がやたらとぶ厚くて、手指の感じまでは伝わってこないのが有難かった。

「シャツだったらトールでも着られるサイズのあるから取って来ようか」返事を待たずにまた服屋の方へ引き返そうとしている銀を、「タオルだけでじゅうぶんだから」と言って、今度こそ引き止める。隣の店に並んでいるシャツは、凄い柄か、凄い素材か、凄いデザインのどれか、もしくはその全てを兼ね備えたとんでもないものであるはずだ。そんな服を、こんなガタイの俺が着たら、もはやただの待ち合わせの目印になってしまう。

「でもここ冷房入ってるし体冷えるぜ、ちょっと待ってな」俺の言葉を遠慮と取ったのか、それともわざとなのか、銀はにこやかな顔で言い置いて駆け出した。

「いや、ちょっと、マジで大丈夫だから……!」

 行ってしまった。背後で深果がくすくす笑っている。俺も仕方なしに笑った。その内にだんだん、銀が例えどんなおそろしい服を持ってきても、笑って着てやろうじゃないかという鷹揚な気持ちになってきた。

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