紅の夜の冒険(「雷神と銀の稲妻」2話後の紅と弓助)

 トールが横道に消えてから、俺は右目でボスを見上げて、言った。「じゃ、帰ろっか」

「おう」ボスが、サングラスのない顔で頷く。ごく普通の表情。サングラスをしてるのと変わらないくらいの、完璧なポーカーフェイスだ。

 俺たちは連れ立って、住人用のエレベーターに乗り、8階の部屋に帰った。その間の会話といえば、「大丈夫か」とボスに訊かれて、「大丈夫」と答えたくらい。殴られた左頬の痛みが、だんだん、酷くなってきていた。氷嚢をぴったりとくっつけているのも苦痛になってきて、頬から少し離す。玄関からリビングに入るなり、俺はボスを振り返った。

「ごめんね、ボス、夕食買えなくて。俺、血の味で食欲なくなっちゃったんだけど、ボス、どうする?」

「ああ、俺は適当に食うから気にすんな」

「本当にごめん。じゃあ俺、シャワーで泥落としたらすぐ休むね」

「頭とか、強く打ってねぇよな?」

「大丈夫だよ」にっこりすると、顔が引き攣るような痛みに襲われる。俺は急いでボスに背を向けた。「じゃ、お風呂お先に」

 手早くシャワーを浴びる。知らない内にできていた引っかき傷に湯がしみて、体のどこに傷があるのかを知る。思わず「ってて……」と声が出るが、覚悟を決めて、傷口をよくお湯で洗い流した。

 本当なら今ごろは、ボスとお弁当を食べて、ゆっくりしていた頃だったろう。楽しい夜を、台無しにされた。そう思うと、どうしようもない悔しさが湧いてくる。知らず脣を噛んだら、ピリっとした痛みが走った。殴られたときの傷が脣にもあるらしい。

 ダイニングのボスにおやすみを言って、自室に引っ込んだ。ボスが何を食べていたのかもわからない。痛み止めの薬を服んで、手足の傷には、ちょっと気になる箇所にだけ絆創膏を張って、早々にベッドに入った。体を楽にすると、頭が興奮しているのが余計に意識される。それと同じくらい、眠気も強かったが、昂奮と疲れが拮抗していて、うまく眠りに落ちることができない。薬もまだ効いてこなくて、頬の痛みは、ほとんど偏頭痛のように、脈打って感じられた。

 眠たいのに眠れない、苦しい時間が重くのしかかってくる。俺はそれを、受け止めるとも、受け流すとも違う、いわば、下敷きになるような具合で、やり過ごそうとしていた。

 今、本当に自分を襲おうとしている、敵。本当に恐いもの。それは、俺の中に居る。

 宿主が弱っている隙をついて、爪を立て、涎を垂らして、首をもたげようとしている。

 だから俺は、別の重石を外から乗せて、そいつを押さえ込もうとしているのだ。自分の受ける暴力に、俺は、敏感すぎる。それを自分でよくわかっていながら、俺はまだ、この獣をいなすやり方を身につけられていなかった。

 まるで、甘美な誘惑から逃げようと必死にもがく、依存症患者のように、久しぶりに懐かしい暴力の味を舐めると、そんなはずはないのに、もっと、もっと、烈しい暴力を浴びたくなる。嫌なのに、怖いのに、どこかで、俺は暴力に晒されることを求めている。

 悦びのためではない。

 もっと浴びて慣れなければ。これが当たり前だと体に言い聞かせなければ。そんな、大昔の強迫観念が、小さな暴力で揺り起こされたせいだ。慣れて、何でもないことだと思い込み、仲良くならなければ、心を、先に殺されてしまう。

 息が苦しい。喉がひゅうっと高い音を鳴らせる。俺はベッドの上に身を起こしていた。横になっていると、息ができなくなりそうだった。ナイトテーブルの電気スタンドの灯りを点ける。

 タオルケットに包まって、膝の上に痛くない方のほっぺたを乗せた。淡い闇の中、鼻で静かに息をする。

 いいことを考えよう。

 真っ先に頭に思い浮かんだのは、今夜出会った、優しい青年の顔だった。トールと名乗った、親切な大学生。何となく、昔、淡竹屋に出入りしていた牛乳屋の息子と、感じが似ているなと思った。トールの方がずっと体格はいいし、顔かたちも全然違うんだけど、真面目そうなところとか、ひと目で親切だとわかる柔らかな瞳の印象が、似ている。

 淡竹屋の仲間たち、馴染みの業者、大勢のお客さん。みんな、元気にしているだろうか。何人もの《桃》。何人もの《白》。最後の《碧》。最初で最後の《紺》。みんな、みんな……。


     ★


 気がついたら、朝だった。点けっ放しの電気スタンドを消す。部屋の中は、まだ薄暗い。太陽が昇る直前の時間。俺はベッドから降りた。音を立てぬよう、部屋の扉を薄く開いて、するりと抜け出し、同じようにするりと、ボスの寝室に忍び込んだ。

 ベッドの上で、ボスは、タオルケットをきれいに掛けて、仰向けで静かな寝息をたてている。その隣に、黙って潜り込んだ。ボスの体温を肌で感じて、自分が冷えていることに気づく。

「…………紅……?」ボスは、ごく薄く、片方の目を開けた。手探りで、俺の腕の辺りをまさぐる。

「うん。……ごめん、起こした」

「起きてねぇ……」ボスはそう言いながら、伸ばした腕で、俺の体を抱き寄せる。左の、顎の辺りに、ごく軽く温かい手が触れた。「痛みは?」

「もうあんまり」

「おまえ、体、冷えてて気持ちいいけど……寒くねぇか?」

「ボスあったかいからちょうどいい」

「そりゃよかった……」軽く笑って言うと、ボスはそのまま再び眠ってしまいそうな様子だった。

「ボス、」俺は囁く。

「うん……?」思いがけず、ちゃんと返事が来た。目は開いていなかったが。

「大好き」ボスの耳に脣を寄せて、俺は言った。

「おう……」ボスは、腕を回した俺の後頭を二度三度と撫でて、広い額に、脣をくっつけてきた。「おまえも、もう少し寝な」

「うん」

「愛してるよ」ボスは言った。

「うん……」ボスの横に密着して、目を閉じる。閉じた瞼の下に、涙が遊ぶ。それを眼球全体に行き渡らせるようにして、外に流れ出るのを阻止した。

 いつも、上機嫌で、元気で、いたい。

 ボスを心配させたり、不安にさせたり、嫌な気分にさせたりしない、強い自分になりたいと、切に思う。

「きのう……」ボスは、眠りの道を引き返してきたような声を出した。「おまえが他の男のシャツ着てんの見たら、結構、妬けた……」

「……ほんとに?」俺はボスの方に顔を向ける。ボスも瞼を上げて、俺と目を合わせた。

「だっておまえ、好きだろ、トールみてぇなタイプ」

「俺より、スズの好みだと思うな。俺はさ、本当の好みのタイプっていったらやっぱ、真さんみたいな……」

 言い終わらないうちに、ボスは脣をひん曲げて、そっぽを向いてしまった。

「え、だって、ボスなんて、本当の好みは年上の女の人のくせに、」

「……だからまぁ、好みのタイプなんて、実際問題、大して意味がねぇってことだ」すぐにこっちに顔を戻して、ボスは言った。

「ほんとにそうだよね」俺は力強く同意する。

 目が合って、3秒もしないうちに同時に吹き出す。それから2秒もしないうちに、脣が触れ合って、それから1秒もしないうちに、舌も触れ合う。

 それから3600秒もしないうちに、俺たちは疲れた裸で寄り添ったまま、二度寝をしはじめた。


(了)

inserted by FC2 system