7年目の浮雲(本編直後の弓助と紅)

「さて。じゃ、約束通りもっぺんやるか」

 俺が泣き止むと、ボスはそう言って、びしょ濡れの俺の頬を両てのひらで拭った。涙で冷えたからか、ボスの手の方が俺の頬より少しだけ熱い。

「うー、うん……」

「おまえ、体位どういうのが好き」

「え、えっ……と、ボスは?」

「おまえが気持ちいいやつすんだから、俺の訊いてもしょうがねぇだろ」

 ボスは笑った。もし今、煙草を吸っていたなら、脣からこぼれた薄い煙がすぐに散って消えるような、そんな笑い方の中で、「俺のは説明すると長くなるしな」と付け足す。

「それ、よけい気になるんだけど」

「まァ、それは追々」

 追々。その、未来の詰まった言葉が、俺のゆるゆるの涙腺をもっとバカにした。ボスは俺の頬をまたぐいぐい拭った。

「ほら、おまえの好きなのは? 言えよ」

「……え、と、……ふつうの、前からの」

「こういうのか?」

 ボスの片手が背中にまわり、ベッドにふわりと押し倒される。てきとうにやってるようでいて、神経の行き届いた動きだった。人をからだごと愛すことに、慣れている、感じ。この7年間、休日明けのボスからする匂いだとか、シャツのアイロンのかけ方のくせで、ボスに何人かの決まった女の人がいたのは、何となくわかっている。その人たちにも、ボスはこうやって、優しくしたんだろう。

 俺は嫉妬していた。今この瞬間、裸でボスと向き合っているのが自分だというのはわかっていたけれど、それでも、ボスに愛され、親密な時間を過ごした全ての女の人たちが、うらやましくってたまらない。

「紅、」

 鼻が触れそうな位置から、ボスが「どうかしたか」と覗き込んでくる。嫉妬が、俺の眉間のあたりを曇らせていたようだ。俺は慌てて、目の前のボスに意識を集めた。でも、そうすると今度はたちまち心臓が破れそうに緊張してくる。時間稼ぎのように、俺は言った。

「うん、……あの、待って、枕か何か、」

 俺が手を伸ばすより先に、ボスが枕を掴んで、俺の腰の下にさし込んだ。

「このへん?」

「うん、だいじょぶ……」

 俺の脚の間に体を入れて、ボスは、自分のものを握った。一度射精して間もないそこは、当然さっきまでの勢いをなくしている。俺は起き上がって、ボスの手の上にてのひらを重ねた。口を寄せる。

「いいって。さっきしてもらったし」

 ボスは俺の額を、後ろに軽く押し返した。

「俺の口、あんまりよくなかった?」

「……や、ハゲそうなくらい、よかった」

 見下ろしてくるボスの目が、ちょっと、笑っている。俺も笑って、ちゅっと音をたてて先っぽを吸った。

「よかった。俺、ボスの、好き。いっぱいしたい」

 ボスは自分の手を除けて、爪で俺のこめかみの髪を撫でた。柔らかいボスのペニスを脣で食むようにして、舌の上をすべらせて飲み込んでゆく。

「……っ、……」

「んぅ……、ぁふ、む……」

 口の中がボスですっかり埋まる。それだけで、俺の下腹に血が集まってくる。胸が逸る。俺はボスの反応を見ながら、色んな技巧を試した。裏筋をちろちろ舐めながら口をすぼめてペニスを啜るようにしたり、平たくした舌で傘の部分をリズミカルに舐めてなぶったり、鈴口を舌先でいじめたり、茎を喉の奥に沈めてみたり。

「……それ、……イ、」

 ボスがいちばん反応を示したのは、ディープスロートだった。喉を下のほうの穴に見立ててペニスを挿入するという、ともすればサディスティックなプレイになってしまう技だ。でも、俺はこれが大得意で、お客さん相手のときは、わざと辛そうな演技をして相手の嗜虐心を満足させることもできたし、娼妓らしい慣れた笑顔で奉仕して、よろこんでもらうこともできた。

「っ、ぁ……、」

 抑えた喘ぎがいとおしい。もっとじっくりとしてあげたいのだけれど、ペニスで喉が完全に塞がれるので、長くはできない。えら呼吸ができればいいのにと思いながら、喉と口内での愛撫を交互におこなった。口の中でふくらんでゆくボスを、味わいつくす。涎が異常に溢れてきて、顎がもう疲れてきていることに、俺は愕いた。淡竹屋に来て7年、それより前から娼妓をやっていたというのに、たった数ヶ月のブランクで、ここまで退化してしまうものなのか。

「べに、」切ない声色で名前を呼ばれる。

「もぉ、……い?」支えなくてもしっかりとたちあがったボスのペニスに、頬擦りしながら、訊いた。

「ん。横んなって」

「うん」枕の位置を確かめて、仰向けに倒れると、ボスが覆い被さってくる。俺は大きく脚を開いた。入口を撫でるぬめった固さに、熱い息を吐く。ローションを足して、ボスが、俺の中に入ってくる。

「…………ア、……ア、ア、ア、……」

「……ん、…………っく、ぅ……」

 脇の下のあたりに突っ張ったボスの腕に、俺は縋り付いた。ボスの二の腕は思っていたより太くて、全然手がまわりきらない。一番奥までボスが来たとき、俺はよくわからないけど、爆発的に嬉しくなって、必死に手を伸ばしてボスの首に抱きつこうとした。ボスはそれに気付くと、頭をぐっと下げて、キスをしてくれた。ボスの後首に腕をまわして、脣を深く合わせながら、繋がった腰も擦り付け合う。

「中のイイとこ、どのへん?」

「……の、ね、……さっき、さいしょ、指で、してくれた……」

「ん、」

 ボスは、少し腰を退いたところで、突き入れた太いものを大きくまわした。一発で探り当てられて、からだがぎゅっと収縮する。

「ぃあっ、あっ、そこ、そこ、」

「どうしたら、一番感じる?」

「うえ、おなかの方に、ぐいって、……あッ! あー、あー、ぁあああ……!」

 えらの張っているところで、気持ちいいところをいっぱい抉られて、からだが反り返った。全身の血管に、血の代わりに電流が流されたみたいな、怖いくらいの快感が駆け巡る。

「んあっ、あぁあ……ッ、ボス……ボス、きもち、い……あぁは、」

「……ッ、……っは、ぅ、う……っ、」

 快感とは別の部分で、ボスの漏らす喘ぎが、俺をとろけそうなほど幸せにした。

「ボス、きもちい、もっと、そこ、擦り付けて、もっとぉ……」

 満ち引きがにわかに強烈になって、背中がシーツに擦れて火傷しそうなほど揺さぶられる。いくいくとはしたなく叫んで、俺は射精なしの、長い長い絶頂を迎えた。男がこういう風にいくの、ボス、退かなかったかな、と、俺は荒れ狂う快感の大波に揺さぶられながら、にわかに心配になった。けれども、きつい突き上げはまだ続いている。ボスもそろそろ、きそう。おなかの中の熱が膨らむ。押し殺したうめき声をあげて、ボスは俺の中でイッた。

 じっとりと濡れた霧がまぶたにのっかっているみたいだった。重たい目を開くと、ピントが合わないほど近くにボスの顔があって、世にも優しい口づけをもらった。汗の雫が、ボスの鼻から俺の頬に落ちてくる。ボスは、徹夜明けの朝の受付で見るのとはまた少し違う、疲れた色っぽい顔をしていた。

「どうだった?」

「ボス、ほんとにノンケ……? じょうずすぎる……」ハハ、ありがとよ。ボスの声は少し掠れている。

「まァ、おかげさまで、たった今ノンケじゃなくなったけどな」

「俺、ボスの初めて、貰っちゃったんだ」嬉しいな。ボスは「嬉しいか」と笑って繰り返した。俺も笑って頷く。

「……あの、ね、ボス。死ぬほど厚かましんだけど、俺も……初めて、だった」

「うん?」

「好きな人とのセックスは、ボスが初めて。……なんちゃって」

 なんちゃって、と、上手く笑って言ったつもりだったのに、ろくに声も出ていなかった。溢れ出た涙が、顎から自分の膝の上に、ぼたぼた落ちてくる。ボスはきっと、わけがわからなくて、困っているだろう。

「……っ、ごめ……、言ってみたら、思ってた100倍、厚かましかっ……た、」へへ。何とか笑ってごまかそうとするが、ボスはやっぱり、困ったような、ちょっと嫌なものを見たような、表情をした。これから一緒に暮らすのだというのに、初っ端からこんな面倒くさいところを見せてしまうなんて、俺は、なんて馬鹿なんだろう。

「馬鹿だなァ、おまえ」

 自分で思っていたことを、ボスからも言われてしまう。俯いていると、ボスの手が頭にのびてきて、そのまま、案外ぶ厚い裸の胸に、やわく抱きこまれた。

「何も厚かましくなんかねぇよ。本当のことだろ?」

 ボスは言った。

「うん」

 俺は急いで濡れた顔をてのひらで拭った。まだ乾かない眦に降ってきたボスのキスは、とめどなく優しく、溢れ出した美しいボスの愛そのものを、一滴ずつ、この身に受けているようだった。

「なぁ、紅。俺も、今の、すげぇよかった」

 俺の頭を撫でながら、ボスは言った。

「ほんと?」

「ほんと。おまえのおかげ」

「俺の…………、そっか」

 ボスの言葉を噛みしめる。

 俺はずっと娼妓だった。だから愛する人を、夜にひととき天国に連れていくことくらいは、できる。今までは、それが俺の価値のすべてだったから。

 でも、これからは違う。

 俺は17歳の、世間知らずのただのガキだ。娼妓じゃない〈紅〉は、きっとうんざりするほど何もできないことだろう。甲羅を剥がれた亀みたいに弱っちい、ただの紅。算数も識字もろくにできない。常識も倫理も世の中のしくみも、何も知らない。課題は山積みだ。

 だけど、わくわくしている。

 俺はこれからこの足で、この目で、この手で、世界を知る。赤ん坊みたいに、憧れの国へ初めてやってきた外国の人みたいに、見るもの聞くもの、全て、吸収する。

 淡竹屋を通じて、これまで俺はボスの愛をたくさん吸い上げて、淡竹屋に守られて、ボスに、恋をしていた。けれど明日からは、この優しい淡竹屋を出て、俺は外の世界で色んなことを学んで、暮らしてゆくのだ。

 ボスと一緒に。

 ボスと一緒に、だ。

 淡竹屋最後の夜に、ボスのベッドで見た夢は、まんまるに膨れた俺が、中央階段をゴム毬みたいに跳ねながら下って、受付のボスの膝に座るという、何とも妙てけれんな夢だった。巨大風船に小さな手足がついたみたいな俺の体を、ボスは天井に投げたり、床に落としたり、壁に押し出したりする。俺はばいーんと跳ねて、またボスの膝の上に戻る。ボスはひとしきり俺で遊んでから、ふいに玄関を出て行った。土間でぽよんぽよん跳ねてその後姿を見送っていたら、ボスが不思議そうな顔をして、俺を振り返った。

「何してんだ、置いてくぞ」

 娼妓は玄関を出てはいけない。それ以前に、こんなに膨れているんだから、玄関を通り抜けられるはずがない。なのに、夢の中の俺は全然躊躇しないで、ボスに向かって飛んでいった。玄関扉に嵌まっていったん四角くなって、そこを抜けるといつものサイズの俺に戻っている。晴れた庭をボスと並んで歩く。

「お腹空いたねぇ」

 俺はボスに言う。

 そのへんで、意識が濃くなってきた。これが夢だと、夢の中の俺は気付きはじめている。お腹が空いているのは、現実の自分だ。朝が来る。夢の中のボスがこっちを振り返ろうとしている。その顔を見るまで、もったいないから起きたくないと思うけれど、起きても、ボスはきっと俺の近くにいる。それに気付いたときには、目が覚めていた。

 開いた目に最初に映ったのは、後ろから俺を抱く、ボスの裸の腕だった。濃くも薄くもない黒い毛の生えた腕を撫でて、脣を押し付ける。ふとんから出ているボスの腕は冷えきっていた。そうっと後ろを向くと、カーテンの隙間から細く差し込む朝日の中に、瞼を閉じてまだ眠っているボスの顔が浮かび上がっていた。口もとが、勝手に緩んでしまう。

「ぜーたく、だなぁ」

 ボスの冷えた腕を、脣や頬にくっつけて温めながら、思う存分、大好きな薄い瞼を眺めた。いつ、目を覚ますだろうか。最初に、何て言うだろうか。ちょっと怖いような、でも、わくわくする。瞼が僅かに動いた。ドッと心臓が鳴る。起きるのだろうか。ドキドキして待っていても、なかなか目を覚まさない。そういえば、寝息も全然聞こえないけれど、……待てよ。これはもしや。

「ボス、起きてんの?」

 また、瞼の際が痙攣するみたいに動いた。

「起きてんでしょ!」

「………………………………ねてる」

 そう言って、ボスは我慢の限界というように噴き出した。

「なんだよもう、いつから、」

「いや、おまえが何かかわいいことしてっから、起きるのもったいねぇかなって……」

 笑いで咽せながら、ボスは言った。かわいい、だって。もったいない、だって。信じらんない。俺は半分照れ隠し、もう半分は腹立ち紛れに、ボスの二の腕の内側に噛み付いた。


(了)

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