02

君みたいな少年

 旧市街地を囲むように流れる川の対岸、小高い丘の上に、羽根をいっぱいに広げた白鳥のように神々しい、巨大な宮殿が見える。あれが、かつてのティリャサン王宮。その裾野には、レオ・ハハキ公園の緑が広がり、王立美術館、アトル大神殿などの特徴的な建築物が点在している。

 手土産を買った俺とボスは、王宮の正面に架かった観光名所のキルガ橋ではなく、もっと東寄りの地味な石橋を通って、旧市街地から対岸に渡った。

 緑の多い石畳のだらだら坂を歩いていく。各国の大使館などが集まる通りを抜けて、住宅街に入り、一方通行の標識のある急坂を登る。夕焼け空に浮かぶ雲が、奇麗なピンク色に染まっていた。

 坂の頂上には、セキュリティのしっかりしていそうな、低層のコンドミニアム群が並び立っている。ボスが「ここ」と言ったのは、夕焼けの色に埋もれて存在を消している、石造り3階建てのコンドミニアムの前だった。玄関横のインターフォンでボスが来意を告げると、すぐに玄関扉のロックが外れる音がする。俺はボスの後に続いて、最上階でエレベーターを降りた。

「おっ、ご夫婦が来たな」玄関を開けて俺たちを出迎えたのは、クノさんの右腕の、嬰矢(えいし)さんだった。大きな体を屈めるようにして、俺に笑顔を向ける。「紅、久しぶり」

「こんばんは、嬰矢さん。ご無沙汰してます」

「クノさん、ついに弓助が折れましたよ」嬰矢さんは浮き浮きと言いながら、俺のコートを脱がせて背中に腕を回し、部屋の中にエスコートしてくれる。ちらりとボスを振り返ったら、サングラスを外す瞬間の目を、こっちに向けた。仏頂面に近い表情で、自ら脱いだコートを、玄関のコート掛けに引っ掛けている。

 広いリビングダイニングに通された。長方形の低いテーブルの、テレビ側じゃない3辺を囲む形で、たっぷりとした、渋い色合いのソファが設えてある。クノさんは、その一番長い辺に座っていた。テーブルの上には、大きいデカンタとワイングラスが4客。そのうちの2客には、すでに赤ワインが薄く残っている。

「よく来たな、紅。健康そうで何より」クノさんは、3客めのグラスに新しくワインを注ぎながら、言った。続けて自分の杯も満たす。

「お招き頂きありがとうございます。お久しぶりです。クノさんも、お元気そうで」俺は嬰矢さんに促されるままに、クノさんの隣に腰を下ろした。ボスは、クノさんに軽く挨拶してから、勝手にキッチンに入っていく。

「弓助には前から、今度いっぺん紅と一緒に来いって言ってたんだが、こいつ、はぐらかすばっかでな」クノさんはキッチンのボスを顎で軽く示す。ボスは、調理台に食材を準備しながら、聞こえないふりをしているようだ。

「もしや仲違いでもしてんのかって、心配してたんだけど、どうやら照れてただけだったみたいだな」笑って、クノさんは目の位置までグラスを持ち上げた。「改めて、結婚おめでとう」

「あっ、ありがとうございます」俺も同じ格好をした。嬰矢さんも、残り少ないグラスを慌てた仕種で上げて、3人で乾杯する。

 俺たちの持ってきた土産は、小さな花束とチーズ数種と、クノさんが好きだという洋梨だった。ブーケは、嬰矢さんがテーブルの上に飾ってくれた。洋梨はボスが冷蔵庫に。チーズも、ボスがきれいに皿に盛って、今はそれが唯一のアテだった。

「クノさん、これ、ニラ、もう駄目ですよ」冷蔵庫を漁っていたボスが、枯れ草みたいなのを片手に、そう言った。「あと、ショウガどこです?」

「ほんとだ、こないだ貰ったと思ったんだけどな」クノさんは立ち上がって、ボスのところへ行った。冷凍室を引き出す。「ショウガは冷凍してたのがまだあったはず……」

「大量のアイスしかありませんけど」すでに中身を調べたらしいボスが言う。

「あ、それ俺用」嬰矢さんが大きく手を挙げた。

「じゃあ、ちょっとそこまで行って買ってくるか。足りないの、ニラとショウガだけか?」クノさんが、ポケットの財布を確かめながら身を翻した。

「いや、いいですよ、俺が行くんで、」慌てた声を出したボスを振り返り、クノさんはぴしゃりと言った。「おまえが買いに出たら誰が餃子の皮つくるんだ」

「あっ、それなら、俺が買ってきます!」立ち上がった俺に、クノさんは笑顔を向けた。胸ポケットから出した、色つきグラスの眼鏡をかける。「道案内が要るだろ? 一緒に行こう」


     ◆


 登ってきた坂とは反対方向の坂を、クノさんと連れ立って下りる。夕闇は深くなり、街路灯が明るく道を照らしていた。

「ニラって、この辺で売ってるんですか?」隣を歩くクノさんを仰ぎ見る。

「ああ、商店街の先のスーパーにあるはずだ。米とか大根とか、東部の食材はだいたいあそこで揃う」

「……何か、クノさんとスーパーに買出しに行くって、不思議な感じです」

「俺も、おまえと外歩いてるって、ちょっと感慨深いもんがあるな」クノさんは俺を見て微笑む。「しかも、今や弓助のヨメだもんなぁ。まさか、おまえらがこうなろうとは、考えもしなかったよ」

「ほんとですか? スズは、考えてたみたいですよ、昔から」

「当時のあの弓助が、いずれおまえを愛するようになるって? そりゃ凄い洞察力だ」

「ボスが、そう言われたらしいです。俺のこと、全然子供扱いしてなかったから、こうなると思ってた、って」

「…………そうか……」クノさんは、少し沈黙して、下り坂の先に見える商店街の明かりの方に、目を遣ったようだった。「あいつとは、よく会ってるのか」

「はい。スズが忙しいときには、何ヶ月か顔見ないこともありますけど、それでも昔に比べたら、全然。会いたいなって思って、すぐ会いに行ける距離に住んでるって、凄い、贅沢なことだなって、思います」

「前は、年に1回も会えないくらいだったもんな」クノさんは、前を見たまま、言った。「……あいつ、元気にしてるか」

「俺、スズが元気じゃないとこなんて、すごい昔に、1回きりしか見たことないです。そのときだって、結局、俺のこと慰めて帰っていきましたよ。泣き虫だけど、弱虫じゃないから、スズは。最近は、泣き虫でもなくなっちゃいましたけど」

 無言で、クノさんは俺を見た。俺も、じっと見返す。

「俺は、あいつに、何もしてやれなかったけど、」クノさんは、俺の肩を、優しく叩いた。「おまえと引き合わせることができたのだけは、手柄だったな」

「クノさん、……ずっと、……退団してから、一度もスズと会ってないって、本当なんですか」

「ああ」

「……どうして、」

「紅。俺はな、あいつが弱ってるところなんて、一度も見たことがない」クノさんは、曖昧な、笑うとまでいかない形に、脣の両端を動かした。

「大怪我して、長い間入院してたときだって、俺に甘えてきたりはしなかった。だから、会おうが会うまいが、関係ないんだ、俺たちは。何も変わらないし、変えられない。俺が何を言ったところで、あいつはあいつの我を通す。俺もそうだ」

「え……、」

 クノさんは、全て見透かす顔で、俺を見据えた。

「何で会わないのか俺に訊くってことは、俺とスズを、会わせたいと思ってるんだろう?」

「そ、……れは……」そんなこと、自分では、考えてるつもりもなかった。でも、クノさんの言う通りだろう。「どうしてスズと会わないんだ」なんて不躾なせりふを、クノさんに向かって発したこと自体が、俺がそれをずっと不満に思ってきたことの、何よりの証拠だった。

 不安がある。

 最近のスズを見ていると、胸の奥を引っかかれるような、嫌な予感に襲われて、ぞわぞわする。

「スズが、表紙になった本、……クノさん、ご覧になりましたか?」俺は、今まで何となくごまかして気づかないふりをしてきた、そのぞわぞわの元を、自分でも探りながら、口を開いた。

「ああ」

「あの仕事、スズは、断れなかった、って言ってましたけど、そんなわけ、ないですよね……?」

「まぁ……断れないってことはないだろう。断ると面倒な筋からの依頼ってのも間々あるから、何とも言えないが。それがどうかしたのか?」

「俺には、スズが……、逃げ道を、自分で全部、塞ごうとしてるように、……見えるんです」

 クノさんは黙って聞いている。

 俺は言いながら、自分が感じている恐れの元に、ピントが合ったのを、感じた。

「《スズ》以外の人生に逃げられないように、……顔を晒すことで、自分を追い込んでるみたいに、思えて……」

 並び立つ街路灯に照らされて、足もとに散らかっていたいくつもの淡い自分の影が、商店街の入口の真っ白い電灯の下で、ひとつに収斂する。

 クノさんが、丸まりかけた俺の背中を、ひとつ、支えるように叩いた。

「やっぱり、おまえになら、頼めそうだ」クノさんは言う。急に何の話をはじめたのかわからず、俺は目を瞬かせた。「エルヴァンさんって、覚えてるか? クアウートリ・エルヴァン。エルヴァン鉱石の元会長だ」

「あ、……はい。もちろんです」

 エルヴァンさんは、淡竹屋時代に、たった一度だけお相手したことのある、大富豪のおじいさんだ。淡竹屋の会員ではなく、クノさんからの直接の紹介だったので、記憶に残っていた。その頃でも、もう相当のおじいさんだった。現在では90歳を超えてるんじゃないだろうか。

「実は、おまえに会いたいと言ってる」

「え、……俺に、ですか……?」

「これは内密の話だが、あの方は、もう長くない」老齢の人の寿命を「長くない」とわざわざ言うってことは、年のせいではなく、何か、余命宣告をされるような病気を患っているのだろう。

「《紅》はもう娼妓を辞めてると、一応、俺から説明はしたんだが、それでもいいから、ひと目会いたいと仰るもんでな。正直に言うと、今日、おまえを呼んだのは、この依頼をするためだ」

「わかりました。お受けします」俺はすぐに答えた。どんな理由があろうと、昔のお客さんが、この世からの去り際に、《紅》にひと目会いたいと思ってくれたというのは、娼妓冥利だ。

「よかった。じゃあ、詳細はまた改めて連絡する」クノさんは言った。商店街を途中から逸れ、狭い道に入る。普通に街路灯はあるのだが、商店街が明るすぎたせいで、やけに暗く感じた。その暗い道の少し先には、もう、スーパーの看板が見えている。

「それから、さっきの、スズの話だが、」薄闇の中に、クノさんの声が染み込むように聞こえた。「あいつが自分で自分をどんなに追い詰めたって、あいつの人生の選択肢は、本当には消えない。おまえがいるし、ザ・サーカスの仲間がいる。気づかないふりしてたって、あいつは賢い。腹ン中では全部、解ってるはずだ」

「そう……ですよね。スズ、頑張って、大学生してますもんね」将来の可能性を考えていなければ、あれほど忙しい身で、学業を修めようとはしないだろう。

「とんでもない頑固者だから、親友やるのも疲れるとは思うが、おまえみたいな奴があいつの傍にいてくれてんだと思うと、俺はだいぶ安心だ」クノさんは、言った。優しい顔だった。

 《お父さん》の、顔。

 俺は、何度も見たスズの泣き顔の中で、たった一度きりの、絶望に押し潰されかけた、か弱い、あの涙を、思い出した。

 スズは、父親としてじゃなく、クノさんが好きなのだ。

 それを俺に悟らせた、あのときのスズの、温い涙を。


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