05

君みたいな少年

 一週間後。半休を利用して、俺は再び、エルヴァンさんを見舞うことにした。この前買った防犯スプレーは、自意識過剰だとは思いながらも、一応、ポケットに忍ばせている。

 駅に着くと、先日と同じ場所に、テオさんの車が停まっていた。近づいていくと、運転席の窓が下がったのも同じだ。二の腕の辺りがざわっとしかけた、そのとき、

「やっ、あなたが紅? 初めましてどーも」

 テオさんではない、知らない女性が、窓から笑顔を覗かせた。

「あ、……初めまして。紅です」

「乗って乗って、あっ、ウチ、怪しい女じゃないよ。テオの仕事仲間」そう言いながら、窓から出した爪の尖った左手で、ギターを弾くような真似をした。ショートボブの毛先が、口の横で弾むように揺れる。深い薔薇色のグラデーションに染められた、奇麗な髪だった。

「バンド仲間、なんですか?」俺は助手席に座りながら訊ねた。

「そうそう、ギター兼ボーカル。テオも歌うから、バンドの顔半分ってとこ」彼女はサングラスをかけて、エンジンをスタートさせる。「あっ、テオね、今、アウトプットが止まんない状態でさ、ウチが代わりに来たってわけ」

「すみません、わざわざ。ありがとうございます」

「いいんよ。テオがまず曲つくってくんないと、ウチら出番ないしね」

 女性は、トラソルと名乗った。芸名か本名かは判らない。テオさんとは、中学時代からバンドを組んでいる、同学年の幼なじみなんだそうだ。

「でも、前に一度うちのバンドがデビューしたときには、私、メンバー落ちしてるんだけどね」両手はハンドルを握ったまま、トラソルさんは、軽く肩を竦めるようにした。

「え、そうなんですか?」

「うん、ほら、テオって、無駄に女受けする顔してるっしょ。んで、他のメンツもまぁまぁそれなりにシュッとした感じだったわけよ。でー、会社としては、イケメンバンドとして売り出した方がウケるだろうってことになったみたいで、女のウチは切られたんだわ。ま、よくある話。バンドのボーカルだけ引き抜かれるとか、10人編成のグループのフロント3人だけとしか契約しないとかね、あるある」

「今は、元のメンバーに戻って活動してるんですか?」

「半分はね。ウチとテオとドラムの子。ベースと、元々のボーカルは就職して辞めちゃった。親不孝者だけが残ったって感じ」空気を散らすように、ふふっと、トラソルさんは笑う。

 エルヴァンさんの家に着くと、彼女は、テオさんの作業の進み具合を見てくると言って、2階へ上がっていった。

 あまり具合がよくないのだろう、前回来たときより言葉少なで、眠たそうなエルヴァンさんを、短めに見舞ってから部屋を出た。リビングの方から、歌声が聴こえてくる。不協和音一歩手前の、ギリギリのバランスを保って、細く長く、男女の声のハーモニーが続く。キリのよさそうなところで顔を出すと、こちらを向いてテーブルに座っていたテオさんが、椅子をひっくり返す勢いで立ち上がった。

「この前は、失礼なことしてしまって、申し訳ありませんでした!」テオさんは深く頭を下げたが、トラソルさんが、その頭をもっと低いところまで押さえ込んで、テオさんの額はテーブルに擦りつけられた。

「いたっ、痛いってオイ、めり込む、頭めり込んでるって!」

「紅の受けた心の傷に比べたら蚊ほどの痛みもないっての!」トラソルさんは言いながら、顔を俺の方に向ける。「こいつからさっき、謝罪理由についてだいたいの話聞いたんだけど、本当にごめんね。いきなりキスなんてされて、愕いたでしょ?」

「あ、いえ……。でも俺、こっちの出身じゃないんで、挨拶のキスに慣れてなくて、」

「すみませんでした。これからは気をつけます」テオさんはトラソルさんの手を払うと、もう一度スマートに頭を下げなおした。席に座ってから、手もとにある手書きの楽譜の角で、こめかみの辺りを掻くようにする。

「ダメなんだ、俺、夢中になるとこう……後先考えられなくなるっていうかちょっとヤバい奴になっちゃうっていうか……あなたは、パパが最期にどうしても会いたかった、大事な人なのに……、本当に、すみません」

「うんんッ? 何それ、どういう意味?」トラソルさんが身を乗り出してくる。「まさか紅って、小父さまの隠し子で、テオの義理の弟ちゃんとかなわけ?」

「ええ、……っと、」

「病気が判るちょっと前、道端で動けなくなってたパパを、彼が助けてくれたんだよ」テオさんは、見事に普通の調子で嘘をついた。俺に対する、目配せなどのアピールさえなかった。「命の恩人ってやつ」

「そうだったん! ……ってでも、それって4、5年前の話じゃない? 紅、当時、小学生?」

「いえ、俺、20歳なんで」

「…………ごっ、ごめん、」短い絶句の後、トラソルさんは東部式の謝罪の見本のように、深く腰を折って謝った。

「観察が足らないんだよ。いつも言ってるだろう。人の上っ面しか見てないから、失礼な読み間違いをするんだ」俺に対するときとは全然違う、寛いだ口調で、テオさんは彼女を嗜める。

「ハイハイ、申し訳ございませんー」トラソルさんは姿勢を戻し際に、テオさんに向かって舌を出してみせた。真ん中に、小さな銀色のピアスの玉が光っている。

「申し訳の後ろにはあるかないかを付けてほしいな」

「あーもうっ、煮詰まってるときのアンタって理屈っぽさ倍増しで大嫌いだわぁ」

「煮詰まってるの使い方も違う」

「はぁあ? 誤用が大多数の人間に通じるってことは、もはや言葉が進化したと言えるんじゃないですかぁ?」トラソルさんは、黒い爪の手でテオさんの背中を引っ叩く真似をした。「オラそれ飲んだらさっさと部屋戻って、サクサク次の曲上げな!」

「じゃあ、失礼します」テオさんは、小さく首を竦めて、椅子から腰を上げた。「帰りも彼女が送るので、ゆっくりしていってくださいね。また来てくれて、ありがとう」

「あ、いえ、頑張ってください」俺が言うと、ほろっと崩れるような笑い方をして、テオさんは部屋を出て行った。

 紅茶を飲み終えてから、「ちょっと、その辺散歩でもしない?」というトラソルさんの提案で、俺たちは庭に出た。屋敷の裏にある広大な庭は、その向こうの森、さらにその上に連なる雪を頂いた山々まで、見渡す限りの全てが、エルヴァンさんの持つ土地であるらしい。

 秋の草花が生い茂る庭を、トラソルさんはヒールの高い靴で器用に歩く。彼女はそのまま、庭から森に入る境目の、手入れのされた明るい落葉樹の林に入っていった。踊るような足取りで、落ちた小枝や枯葉を、わざと踏み鳴らしながら。それが、音楽の種になるのか、それともその音自体を楽しんでいるのか。俺は黙って、出来る限り足音を立てないようにして、彼女の後について歩いた。

 どれくらい経った頃だろう。開けていた林の木々が、少し込み合いはじめた辺りで、トラソルさんは足を止めてくるりとこちらを振り返った。

「きみって、素敵な人」

 高いところから落ちてくる、秋の林の、光と影の中で、彼女の笑顔はとても美しかった。薔薇色の髪の毛がさらさらと揺れて、現実感を失わせる。

 ヒールのせいでかなり高い位置にある、トラソルさんのその笑みから、俺は、目が離せなくなった。心臓が変に騒いでいるのを感じる。まるで、魅惑的な悪魔とふたり、終わりのない枯れた林の中に、閉じ込められているような、錯覚。

「初対面でウチの散歩に黙って付き合ってくれた人、中学校の新入生歓迎遠足のときのテオ以来」トラソルさんはそう言って、両手を前に出した。俺が目を瞬かせていると、「ごめん、ちょっと手ぇ貸して、」と片目を瞑る。慌てて、俺は正面から彼女の手を取った。

「調子乗って歩いてたら、足痛くなってきちゃって、」

「少し座って休みますか?」

「ううん、でももうちょっとだけ、このままでいてくれる?」

 俺の目先で、薔薇の毛先が揺れる。口角の上がった、艶やかな脣。しゅっと細いのに、柔らかそうな頬のかたち。

 きれいだな。

 俺は目の前にいるこの女の人を、トラソルさんを、素敵だと思う。魅力的だと。でもそれは、ボスのきれいな瞼や、胸板の厚さを見て、喉の奥がきゅんと絞られるようなあの感じとは、全然違うものだ。やっぱり、自分の恋愛対象は男性なんだな、と、実感する。

「この指輪って、もしかして、結婚指輪?」トラソルさんは俺の左手を捕まえると、薬指に嵌った金の指輪に目を近づけてから、顔を上げた。「えっえっ、うそ、紅ってもう結婚してんの?」

「はい、一応……」

「えーっ、早くない? 凄いね、出来ちゃった婚?」

「あ、いえ、相手も男なんで、」

「あ、そうなん?」あっけらかんと言ってから、トラソルさんはハッと気づいたように、青い顔になった。「ご、ごめん、今の発言、結構センシティブなとこドカドカ踏み入った感じだったかな……」

「いえ、全然、そんなことないです」

「ほんと? よかった、でも反省。そうよね、同性でも結婚できるようになったんだったわ」

 そう言ってから、トラソルさんは俺の顔をじっと覗きこんだ。

「紅って、パートナーに一途なタイプっぽいよね、」

「そう、だと、思いますけど……」

「じゃあ、テオには気をつけんと。自分でも自分の危なさ解ってるみたいなこと言ってたけど、信用しちゃダメだよ。あいつマジで、そういう倫理観ぶっ壊れてるからね。昨日のキスだって、挨拶だったかどうか怪しいもんだわ。昔からああいう奴なんよ。しれっとした顔してとんでもないとこに手ぇ出してえらい目みて、結局、パパに泣きつくことになんだから」

 トラソルさんは俺の手を握ったまま、真剣な顔になって力説する。何かあったらすぐに呼ぶんよ、と、その日の帰り際、俺はトラソルさんとも連絡先を交換した。

 彼女の運転する車を降りて、ひとりで電車を待っているとき、何度か、儚い甘い香りが鼻先を掠めることがあった。匂いの出所は自分の左手で、トラソルさんの香水かハンドクリームの移り香らしかった。

 もしかして、彼女はテオさんのことを好きなんだろうか。移り香より淡く、そんな思いつきが頭を過ぎる。

 エルヴァンさんの生気のない寝顔。テオさんとトラソルさんの、絡みついているわけでも、寄り添うわけでもない、細い2本のフリーハンドの線が、交わらずどこまでも伸びていくような歌声。木陰の落ち葉を踏む、底の方だけが湿った音。枯れ枝を踏んだときの、乾いた高い音。

 電車の座席に腰を落ち着けて、眠たくなってゆく頭の中で、今日の思い出やもの思いが、薔薇色の影を纏って、美しい、ダンスミュージックを奏ではじめる。

 早く帰って、ボスに会いたい。

 無性にそんな気にさせる音楽だった。


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