08

君みたいな少年

 訃報は、トラソルさんから伝えられた。

 朝方が、異様に冷え込んだ日の昼過ぎ。俺は仕事を切り上げて、森の家に駈けつけた。

 いつもより温度の低い部屋の寝台に、穏やかに眠る、エルヴァンさんがいる。その額や頬に触ったら、きっと、なめらかで冷たい。死んだ人間の独特な冷たさを、俺は知ってる。だから、ここに来たとき必ずそうしていたように、手を握ったりは、できなかった。

「紅に、ありがとうって伝えてくれって、言ってたんだって。昨日だか一昨日だか、テオが言ってた。会いに来てくれて嬉しかった、ずっと幸せに、って」入口の近くに立ったまま、トラソルさんは言った。

「俺も、またお会いできて、嬉しかった……」

 目を瞑って、祈った。俺は特定の宗教を持たないけれど、エルヴァンさんの眠りが、安らかであることを。エルヴァンさんを愛した人たちの悲しみが、いつか、何か美しいものに昇華されますようにと。

「伝えて下さって、呼んで下さって、ありがとうございます、トラソルさん」

「うん。こっちこそ、すぐに来てくれて、ありがとね」

「……テオさんは……、」姿どころか、気配もない。トラソルさんは、微かに眉を動かして、泣きそうな顔で笑った。

「部屋にこもってる」と、人差し指で2階を示す。「落ちてるのかもしれないけど。おじさまの容態が悪化してから、丸2日くらい寝てなかったみたいだし」

 俺は天井を見上げて、脣を結んだ。心配だとか、気の毒だとか、そういう感情は胸の辺りを巡っていたけれども、口には出せなかった。なぜかはわからない。

「いいトシして、パパにべったりだったからね。いくら少しずつ病気が進んで、別れを惜しんだり、覚悟する時間があったっていっても、実際、死なれちゃうと……やっぱり、奪われた、って感じがするのね。あたしでさえそうなんだから、テオはもっと、……たまらない、気持ち……かもね」

 トラソルさんも、上に顔を向けて、そう言った。この前会ったときと同じように、奇麗な化粧をして、髪も整えられ、黒一色ではない、彼女らしい服を着ている。俺と同じで、訃報を聞いて、そのまま駈けつけてきたのだろう。目もとの化粧がよれているのだけが、非日常を表していた。

「本家に連絡するとね、すぐにドカドカ大勢人が乗り込んで来て、おじさまもこの家から連れ出されてしまうと思うんよ。そうなるとテオも、色々、面倒な手続きだの、家族会議だので、しばらくは曲づくりどころじゃなくなっちゃう。こういうとき、何かつくっていないと、どんどんつらくなるタイプの人だからね、テオ……、……」

 かわいそう、と、言いたかったのかもしれない。そんな形に開かれたトラソルさんの脣は、しかし、声を出さずに閉じられた。

「……俺に、何かお手伝いできることあったら、言って下さい。ほんとに、何でも」

「じゃあ、悪いんだけど、テオの様子見てきてもらえる? 大丈夫そうだったら、起こして、せめて人前に出られる姿にしてやって。あたし、おじさまにお世話になった他のメンバーとかにも、連絡入れるわ、今のうちに。テオの部屋、2階の奥」

「わかりました」

 俺は優美なカーブのついた広い階段を上がった。ノックをしても返事はない。ドアノブはすんなりと動いた。

「テオさん、失礼します」

 声をかけてから、少しだけ足を踏み入れる。部屋の中は、本当に真っ暗だった。カーテンだけでなく、雨戸のようなものが閉められているのかもしれない。何かが動く気配はしないが、室内に人がいる、温もりのようなものを感じた。

「紅です。起きてますか?」

「…………来てくれたのか……」

 掠れ声のした左手の方に足を向ける。まだ目が慣れなくて、ほとんど闇で塗りつぶされた視界だったが、正面に大きな家具があるのは判った。おそらくは、天蓋のある寝台だろう。そろそろ、この辺りで立ち止まろうかという思考を、体が実践するより早く、爪先に、何かが擦った。

「あ、……すみません、」

「いや」

 テオさんの足だった。彼は、寝台を背に、床に脚を投げ出して座り込んでいたらしかった。

「エルヴァンさんに、お会いしてきました。とても、安らかなお顔に見えました」

 一歩下がって、俺は言った。

「うん……」返事をして、座り直す気配がする。「ここ数日、ずっと苦しそうにしてたんだけど、最後の最後は、妙に穏やかで、気分も良さそうだった。お医者に、完全に亡くなったって言われて、正直なところ、少しだけ……ほっとした。もう、パパが、悪い……思うように、ならなくなった、悪い体に、煩わされることは、ないんだ、……って……」

 元々そんな喋り方をする人だが、今はそれに輪をかけて、静かに、テオさんは話す。

「……あ……、トラソルに言われて、起こしに来てくれたんだろう?」

「はい。……その、そろそろ、お着替えを、と……」

 テオさんは薄く笑ったようだった。

「そうだな。こっちから連絡しなくても、あいつら、いつも医者の周り嗅ぎ回ってるから、今頃はもう、ここに乗り込んでくる準備に大忙しって状況かもしれない」

 そう言って、テオさんは立ち上がり、部屋の灯りを点けた。薄暗いくらいの光量だったが、目にしみる。

 テオさんが着替えたのは、黒い服ではなかった。ステージに映えそうな、綺麗な色の服。

「父は正教徒だったけど、僕は違う。自分が好きで選んだならともかく、お仕着せの黒い服なんかで、見送りたくない」

 彼にしては、熱のこもった声で、そう言った。


     ◆


『本家の人間』は、テオさんやトラソルさんの言葉通りの素早さでやって来た。大きな車が、続々と向かってくる音が家の外にしはじめたのは、お別れに駈け付けたテオさんたちのバンド仲間が帰ってしまって、トラソルさんに促されたテオさんが、嫌々ながらに本家への連絡をしてから、ほんの半時間後のことだった。

「言っただろ。パパの死ぬのを今か今かと待ってたような、けだものたちだ」

 低く、テオさんは言って、姿見の前に立った。髪に手櫛を入れて、鏡の中の自分を睨むような目つきになる。

「紅、時間はまだ、大丈夫かな」

 こちらに振り返ったテオさんの顔は、多少やつれているのを除けば、普段通りの表情に戻っていた。

「はい、大丈夫です」

「悪いけど、2人とも、俺が戻るまで、ここに居てくれる?」

 玄関のベルが鳴らされ、主が迎えるのを待たずに、扉の開く音がした。また、険しい表情に戻ったテオさんが、ひとり、部屋を出て行く。

 トラソルさんが、テラスに続く大きな窓を閉ざしていたカーテンを開け、窓も少しだけ開けたので、階下から時折、大きな声や、物音が届くようになった。しかし、内容までは聞き取れない。何か揉めているな、というのが判るくらいの騒がしさだ。俺は一応、クノさんに、今の状況を文章で伝えた。

「テオ、大丈夫かしら……」トラソルさんは、諦めの濃い困り顔で窓の外に目を遣って、ため息を吐く。「いびられてるわよ、今頃。ただでさえ本家から煙たがられてんのに、ああんな挑発的な格好で行くんだもの」

 俺と目を合わせて、トラソルさんは皮肉そうに微笑む。

「テオがおじさまを看取ったこと、面白く思ってないんよ、この家の連中は。ただ単に、おじさまはテオが可愛くて、テオもおじさまのこと大好きだった、ってだけなのにね。おじさまに信頼されるための労力を惜しんでた奴らが、そんなこと、労力だなんて感じもしなかったテオのこと、逆恨みしてんの」

 階下の騒ぎがようやく収まり、テオさんが2階に戻ってきたときには、もう、外は夕暮れになっていた。

「黒い喪服着ないなら、お葬式にも出さないって言われたよ」

 コップに水を注いで一気飲みしてから、テオさんは言った。

「意地張らないで、堂々と出席なさいよ。喪服くらい持ってるでしょう?」

 トラソルさんの質問には答えず、テオさんは続ける。

「正教の式だから服装が決まってる、っていうのは、ほんの少しだけど、理解できる。だから、これは、意地とかじゃない。お葬式には行かない。そう決めた」

「もうっ、テオ、」

「そんな場所で泣いてみせなくたって、パパが弱っていって、死ぬ瞬間まで、傍にいられたことの方が、大事なことだったよ、俺には。見送るって言うなら、俺とソルで見送ったんだ。それに、紅も。……ありがとう、すぐに来てくれて……」

 テオさんは言いながら、散らかっている作業机の方へ、ふらふらと移動した。今まで繋がっていた繰り糸が、急にぷっつり切れたかのように、そこにある回転椅子に腰を落とす。下ろす、と言えるほどの余裕はなかった。投げ出した脚が机にぶつかって、机の端に引っかかっていた紙やカラーペンがなだれ落ちる。

「……よかった…………、本当に…………」

 テオさんは天井を仰ぎ、両手をその顔の上に置いた。

「何かもう……キツいことも、嬉しいことも、何もかも、切ないばっかだったけど…………、よかった。パパが、自分の最後の時間を、俺と、過ごしてくれて、……ほんとに……っ…………」

 言葉は途切れ、あとは低い、嗚咽になった。

「あんたがそんな甘ちゃんだから、おじさま、最後の気力振り絞って、一緒に居てくれたんじゃない。正教のお葬式はね、死者のためにやんのよ。生きてるあんた如きのこだわりとか、そんな下らないもん全部打っ棄って、ちゃんと出なさいよ、式!」

 トラソルさんはもの凄い剣幕で捲くし立てたが、テオさんは顔を覆った姿勢のまま、それを完全に無視した。それでもトラソルさんは、お葬式に出るべきだと、しつこくそう言い続け、急に時計を確認したかと思うと、「やべっ、それじゃまたね紅!」と叫んで、慌てた様子で帰っていった。


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