09

君みたいな少年

「チビのお迎え」

 テオさんは、大きな音をたてて閉まった部屋の扉の方を一瞥して、言った。

「トラソルさん、お母さんだったんですか」

 俺の言葉には首を振る。

「いや、チビの母親はトラソルの姉。彼女はフルタイムで働いてるから、暇な妹が育児に協力してる」

 そう説明しながら、急に、テオさんが椅子から崩れ落ちた。大丈夫ですか、と、反射で声が出る前に、落ちたのではなく、降りたのだ、ということに気づいた。床に座り込んで、テオさんは散らばった画材を緩慢な動きで集めはじめた。このまま待っていたら、朝になっても片付けが終わらないのではないか、と思うほど、身の入っていない動作だった。

「手伝います」

 俺は言って、テオさんの向かいの床に膝をついた。カラーペンを拾い集める。

「……紅、」

 テオさんの声が、微かに、震えていた。

「はい?」

 俺は普通の声色で返事をして、作業を続けた。顔は上げない。

「俺は、俺の形をしている?」

 テオさんは、拾い上げたばかりの薄手の紙を、長い指から取り落とした。涙の気配。俺は、視線を上向けた。彼が、片手で顔を覆ったところだった。

「テオさんは、テオさんの形で、ここに居ますよ」

 俺は言った。

「…………ぜんぜん、そんな気がしないんだ……ミジンコとか、ウニにでもなったんじゃないかって……俺が、俺で、この世に、いるってことが…………嘘……みたい……で…………」

 テオさんの声は、てのひらの下で曇って、歪に潤んでいた。

 肉親を失ったばかりの彼に、天涯孤独の俺が、何を言えるだろう。

 誰かが必ず、俺を産んだのだから、実際には、俺にも、肉親は存在する。少なくとも、存在したはず。今も、どこかで生きているのかもしれない。顔も声も名前も、手がかりすらない、そんな人物が、俺にとって「生きて」いるかどうかは、別の話としても。

 俺は、床に投げ出された方の、テオさんの手を見た。青白く、細く、震えているせいだろうか、輪郭がぶれて、彼の言うように、そこから彼の形がだんだん崩れていくようにも見えた。抗うように、しかし力なく、テオさんの爪が床を掻く。

 思わず、俺は両手で、テオさんの手を握った。

 彼の指先は、やはり、とても冷たかった。

「ここに、います。テオさんは、ここに居る。わかりますか?」

 ぼんやりと開いていたテオさんの目が、じょじょに伏せられ、完全に鎖された。俺は、彼をこの世に舫うような気持ちで、両のてのひらに力をこめた。

「ミジンコやウニとは、手を繋げません。テオさん。大丈夫、テオさんは、テオさんで、ここにいます。生きています。大丈夫」

「…………熱い…………」

 テオさんは、言った。

「テオさんの指が、冷たいんです」

 俺は言った。

「……ウニだから?」

 テオさんは、目を上げて、そう言った。顔全体を見ると、笑っているようには見えないが、目の奥には、笑みがあった。

 よかった。

 つられて、俺も笑顔になる、その、瞬間だった。

 俺とテオさんの手の位置が、逆になっていた。さっきまで俺がそうしていたように、今は、テオさんの両手が、俺の両手の上にある。俺がこめた力よりずっと強い力で、その手は俺の手を押さえつけている。動けないほどに。

「テオさ、」

 彼の顔が近づく。できる限りの逃げを打っても、背中に、寝台の脚の部分が食い込むように当たるだけ。首を振って避けようとしたが、テオさんは片手で俺の両手首を捕まえ直し、空いたもう一方の手で、顎を捉えた。

「……ごめん、」

 すぐそこにある脣が、謝罪の言葉をこぼす。胸が、絞られるように痛んだ。どうしてだろう。

「逃げないで」

 俺を見る、テオさんの瞳が、潤んでいる。目の下の皮膚が泣き疲れて、ぼろぼろだ。胸がまた痛む。

 俺は目で、頷いた。

 押さえつけてくる男の力が、弱まる。

 テオさんは、俺の体を抱きしめた。小さい子供が、お気に入りのぬいぐるみを抱きしめるみたいなやり方で、俺の胸もとに顔を擦りつける。熱い息と、涙が、染みこんでくる。

 枯れた声をなおも殺して、苦しそうに泣き続けるテオさんの頭を、俺はそっと、撫で続けた。下手な泣き方だ。洟のすすりかたも、息の仕方も変だから、噎せたり、喉が鳴ったり、猫みたいな唸り声を洩らしたりもする。

 色んな年上の男の泣くのを見てきたけれど、こんな泣き方をする人は、滅多にいなかった。かわいそうだな、と、かわいいな、が、胸の中で同じくらいになってくる。

 いつしか部屋の中はすっかり暗くなっていた。窓の外に目を遣ると、木々の間に見える空は、群青から紫のグラデーションになっている。日はとうに落ちたようだ。

 俺に縋り付くテオさんはまだ、洟をぐすぐす言わせているが、少し前よりもだいぶ落ち着いたように見える。

「……紅、」

 ひび割れた声が、胸の辺りから俺を呼ぶ。涙でふやけて充血した目が、こちらを見上げた。次の言葉が見つからないのか、テオさんの口が微かに開きそうになっては閉じるのを繰り返す。

 俺を見つめたまま。

 ヤバいかも、と思ったときには、テオさんの脣が俺のそれに重なっていた。口から出せなかった言葉を直接伝えるみたいに、彼の舌が、俺の舌を動かす。肩に食い込む薄くて大きなテオさんの手が、俺に縋り付いていないとどこか深く暗いところへ落っこちてしまうとでもいうように、必死で、逃げられなかった。

 だけど、テオさんの脣が、俺の体を下に辿ろうとしていることに気づいて、我に返った。

「……いッ、や、……嫌です、テオさ、や……め……っ、」

 俺は言った。その間にも、テオさんは俺の喉を舌で舐め上げ、自分に取り込もうとするかのように、きつく吸うのを繰り返した。

「俺は、もう、娼妓じゃないんです。そういう風に扱われたら、俺は、傷つきます」

 テオさんは、目をまん丸にして俺を見た。それから、俺の肩を押さえている自分の手を、見た。そこから、じわり、じわりと、力が弱まってゆき、ついに離れたその指先は、小刻みに震えていた。本当に俺の肩から手を離しても大丈夫だろうかと、まだ、怖がっているかのようだった。

 それを見て、また、胸の狙った場所にまち針を刺されたみたいな、痛みを感じたけれど、自分の言ったことが間違っていたとは思わない。

 テオさんは俯いた。かと思ったが、どうやら、俺に対して頭を下げたらしい。

「…………うん。…………ごめん。…………甘えすぎました。ごめんなさい」

 主人に怒られた犬みたいにしょげたその格好に、思わず、頭を撫でてやりたい気分になるけれど、堪えて、俺は、立ち上がった。

「今日だけは、許します。何か、お手伝いできることがあったら、また呼んで下さい」

「え、……また、来てくれるの……?」

 テオさんも立ち上がる。

「テオさんが、芯から無分別な人じゃないのは、知ってます」

「本当に、ごめん。ありがとう」

 そう言って、テオさんは、笑みをつくろうとしたのだと思う。細くなった目から、しかし、涙がすうっと、ひとすじ、落ちた。

「……ありがと……」

 喉に絡むような声で繰り返す。俺は、テオさんの両手を、ぎゅっと握った。

「さみしい、ですね」

 俯いたまま、テオさんは頷く。俺の指先に、じわりと、力が込められた。

「さみしい。……けど、さみしいとか、言ってられるような身分で、よかったのかも。この年で、父親が死んで、ただ悲しんでいられるような気楽な立場の人間、そうはいないだろうし……」

「それもそうかも、ですね」

「ね」

 テオさんは今度はちゃんと、涙を溜めた目で、微笑んだ。

 外に、近づいてくる車がたてるタイヤの音がしはじめて、俺とテオさんは顔を見合わせた。


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