01

The Boomslang

 どうしてこの世には、西向きの窓というものが、かくも無防備に存在しているのだろう。

 西日なんてのは、眩しさで人をチーズにしやがるし、部屋の中のありとあらゆるものの色を、毎日少しずつ奪ってゆく悪魔だ。上司の机上で微笑んでいる女だって、毎日毎日色褪せる。西日に晒された自分の写真が、夫に天然色の娼婦を買う理由を作っているだなんて、妻はきっと、考えもしない。

「呼び出しの理由に心当たりはあるかね、ジノ・ハハキ少尉」

 そんなことよりカーテンを引いてくれ。

 窓を背に、机に肘をついた上司を、ジノは、限界まで薄くした目で見た。普通にしていても、彫りの異様に深いこの上司の引っ込んだ目玉は、眉毛の下の影に隠れているのだが、逆光の中で見るとさらに、サングラスでもかけているのかと思うほど、目玉の存在感が消えている。

 仕事熱心すぎて、顔にまで塹壕を掘ったんじゃないだろうか。内心でふざけながら、ジノは、「はぁ、特にありませんが」と口先で答えた。

「ないことがあるか!」眦を決したらしい上司の白目が、暗闇の中に光る。目玉はそこか。ジノは、上司に当てた視線を、六時の方向に二ミリほど修正した。

「きみが無茶苦茶な位置に布陣したおかげで、あれが実戦なら、少なくとも百名単位の味方の命が危険に晒されるところだぞ!」

「地形的に不利な場所での戦闘というのは実際に起こり得ますし、何より野うさぎの交尾を邪魔してまで演習を続けるというのは、私にはちょっと……」

「ふざけるな! きみはいつになったら国を守る兵士だという自覚を持つんだ。ウサギの社会の未来のために、人間百人の命を生贄に捧げるというのか?」

「では、大尉は本気で子作りに励むウサギたちより、ペイント弾での戦争ごっこの方が大事だと?」

「当たり前だろう。演習はごっこ遊びではない」

「私にはその理屈は飲み込めません。ペッ、です」涼しい顔でジノが言うと、上司は逆に、顔を真っ赤にして怒鳴った。「なっ、なにがペッだ貴様……!」

「だってそうでしょう? 人類は今のところ、進化の最先端でふんぞり返って、自分たちより弱い生物や、物言わぬ植物の命を、日々、消費して生きてるんです。彼らの命を尊べなくなったら、それはもう、種として滅ぶべき時ですよ。知的生命体を名乗るプライドが我々にあるのならね」そう言って、ジノは肩を少し竦めてみせた。「無論、これが本番の戦争で、あの場所に陣を張らねば自分たちの命が危ないというなら、私だって少しは考えますが」

「少しじゃなくてたくさん考えろこの阿呆! 万が一、戦闘中に私が指示不能の状態に陥った場合、第三遊撃隊は、きみのコマンドに従うことになるんだぞ!」

「それはまぁ、わかってますけど、大丈夫ですよ。そんなもしもの事態が起こらないよう、私が隊長殿の盾になってお守りしますから」ジノは日焼けした頬に、最上級の作り笑いを乗せた。

「そんなことを言っているのではない!」隊長のこめかみに、青筋がくっきりとのたうつ。「だいたいきみは、ハハキ・タブリ男爵家の長子だろうが! タブリの名を持つ特級貴族の跡継ぎが、いい年をして結婚していないだけでも問題なのに、子供も残さぬうちに戦死などしてもらっては、私が陛下からどんなお叱りを受けるか……!」

「いや、私は、」ジノの言葉の続きを待たずに、上司は大仰な動作で頭を抱えて、机に顔を突っ伏した。

「こんな僻地に異動になっただけでも不幸なのに、引責罷免だなんてあんまりだ……」

「それじゃ私の戦死が決定事項みたいじゃないですか」何という上司だ。ジノは呆れて、机に伏せた男の、薄くなってきた頭頂部を見下ろした。「えー、あのですね、隊長殿。私は、爵位は継ぎませんよ。家の面倒なことは全部、長女である妹が引き受けてくれることになってるんで」

「なんだ、そうなのか」上司はけろりとした顔を上げた。

「ええ、ですので、どうぞ安心してください。ちなみにこの妹もいまだ独身ですが、下にはまだまだきょうだいがいますし、彼らの子もすでにわんさかおりますので、私が死んでも隊長に責任が及ぶことはありません。そうでなければ、さすがの私もこうして軍隊で遊んでなんかいられませんよ。きっと昼間は野菜を育てながら、夜は野兎を見習って子作りに励んでいたことでしょう」

「……今、軍隊で遊ぶ、と言ったか……?」上司の額に、再び浮き出してきた血管が、怒りの脈を打つ。

「失言でした」電光石火で発言を取り消したジノを見上げ、隊長は、わざとらしい息を吐いた。机に肘をつき、重ねた両手の上に顎を載せる。

「とにかく、きみにお小言を言っても右から左なのは、私もいい加減承知しているのでね。呼び出したのには、もう一つ理由がある」

「はい」ジノは、細めていた目を、いつもの大きさに戻した。いつの間にか、西日は赤銅色を帯びて、室内を赤みがかった光と影で描いている。ほんの少し前まで、死ぬほど煩わしかったはずの陽も、今や人懐こい、憎めないものに変わっていた。

 まるで、アトルのことのようだ。

 そう思ってジノが笑いを堪えていたら、上司の手が、無慈悲に机上のリモコンに伸びた。白々とした主照明が点されるなり、夕陽は、人工の光にあっけなく部屋を追いやられてしまう。

「特別任務だ、少尉。首都の王下本部まで、荷物を一つ、輸送してもらいたい」

「はぁ……、荷物、というと?」

「今後の戦局を左右するほど重要なものだと聞いている。出発は明日の正午。一時間前に会議室集合。極東司令部のお偉方から直接、任務についての詳しい説明があるそうだ。なんでも今回は、大規模な輸送隊を組むのではなく、少数精鋭の班に運ばせる方針らしい。無論、きみがリーダーだ。副官の任命権もきみにあるから、明日の朝までに選抜して報告してくれ」

「それは承知しましたが、しかし、そんな重要なものを、司令部が、私に任せると……?」

「輸送任務は、件の《ブームスラング》のおかげで、今やこの地域で最も危険な任務の一つになってしまったからな。近接戦闘できみより能力のある人間は、極東三基地のどこにもいない」

「……しかし、私は王下本部への出入りを禁じられているはずですが」

「ハハキ少尉。きみはここへ来て、もう何年になる」

「ええと今年で……四……五年目くらいですか」

「六年目だ。私より長い。王下本部から派遣されてきた士官としては、異常と言っていいほどだ。いいか、六年前、きみに下された処分は、二階級降格、半年間の自宅謹慎、五年間の王下本部への復帰及び出入りの禁止、だったはずだ。つまり、希望を出せば、近衛隊に復帰することだって不可能じゃない」

 いや、絶対に、不可能だ。

 そのことを思うと、胃の辺りから、何か冷たく苦いものが滲み出してくるような、不快な悪寒がジノを襲う。

 あいつはもう二度と、俺に歌をねだらない。

 俺の足にまとわりついて、俺を兄と呼ぶこともない。

 いなくなってしまった。

 消えてしまった。

 だから俺ももう、かつてのように、自分の命を王のために投げ出すことができるか、自信がない。

 そんなことを考える人間が近衛隊に存在するのは、烈しい雷雨を巨木の下で凌ごうとするくらい、王にとっては危険なことだ。ジノは自分で、そう思う。

 近衛隊は王に、空気のように安全を供給する。その日常が永く続くことが理想だが、ひとたびそれが破られたとなれば、仲間を盾にしてでも、己の体がミンチになったとしても、王を守る。一瞬もためらわない。それが、近衛隊だ。

 ジノにも、己が王の砦の一角であることを、誇りに思っていた時代があった。建国の物語に出てくる、あの勇猛な祖先のように、自分もまた、王のために命を燃やすのだと、それが己の一生だと、信じて疑わなかった。

 若く、希望と野心にギラギラしていた頃の、自分自身。あの時代のことを思い返しても、もう、怒りや後悔でものに当たるようなことはない。ただ、走り去る苦い痛みが一瞬、心の縁に轍をつけるだけだ。

「……ですが、私は近衛隊にいるより、こうして前線にいた方が、自分の能力を発揮できると感じています」

 ジノは、そんな単純な言葉で、複雑な内心をごまかした。何もごまかさずに生きようとしていた頃もあったけれど、それを実行し続けるのは、王の平和を守ることより、ずっと難しい。

「それはそうだろう。何しろきみは、あのエノシ島から、生きて帰ってきたんだからな」隊長は、当たり前だというように頷いた。

「……そういえば……、前回の輸送隊って、全員病院送りになったとかいう恐ろしげな話を、聞いたような聞かないような……」ジノが思い出してそう言うと、またしても隊長は、何を今さらという顔をした。

「ああ、さすがに全員ではないが、しかしほぼ全員と言ってもいいくらいの被害が出たようだな。一日以上入院したのが、たしか五十人以上もいたって話だ。全体の半数くらいか」

 ジノの顔面は半笑いを浮かべて凍りつく。何でそんな危険な敵に、少数精鋭で挑まなければならないのか。司令部はろくなことを考えない。

「楽な任務ではないだろうが、きみの働きに期待している」定形文のような締めのせりふに、ジノは自棄っぱちの敬礼をしてみせた。「はっ。ご期待に応えられるよう最善を尽くします」

 隊長の執務室を退出する。背中に扉の閉まる音を聞いてから、ジノは恨みがましい顔で首をめぐらせた。

「……死ねってことかよ」低く呟く。

 事務棟を出ると、ワイン色に染まった向いの一般兵用の宿舎から、私服に着替えた部下たちのグループが出てくるところだった。ジノと同じ班の、直属の部下もいる。浮かれた様子から推測するに、彼らの行き先は一つしかない。中の一人がジノを見つけて、「どうせ今日のことで隊長に絞られてたんでしょう」と歯を見せた。

「お前らこそ、野うさぎの交尾見て催したんだろうが」ジノの言葉に、兵たちはにやにやする。

「少尉も一緒にどうです? いつものとこですよ」

「よーしじゃあ誰か俺の代わりに反省文書いて」

「少尉の尻拭いはアトルの仕事なんで、そんじゃ失礼しまぁす」薄情な部下たちは、そそくさと駐車場の方へ身を翻した。

 彼らが去っても、夕食どきの宿舎の周りは騒がしかった。ジノは一般兵舎の脇をすり抜けて、芝生の間の白砂を固めた小径を、さらに敷地の奥へと歩いた。

 鬱蒼とした屋敷林の緑の中に埋もれるようにして、士官専用の宿舎はあった。時代を経た二階建ての建物は、壮麗だが、どこか陰気な印象もある。若い兵士たちの笑いさざめく声も、ここまでは届かない。聞こえるのは、塒に帰ってきた鳥たちのやかましいさえずりと、風の渡る音。もっと早い時間には、リスだの鹿だのが林の間をうろちょろしている姿も見られるが、もう寝床に帰っていったのだろう。

 ジノは、足の運びを緩めた。宿舎の正面入口の脇に、人待ち顔で薄荷煙草を銜えている男が立っているのが見えたからだった。その煙草が薄荷煙草であることは、目で見て判ったわけでも、鼻で煙を嗅ぎわけたわけでもない。男が吸っている煙草の銘柄を、記憶していただけのことだ。

 ジノはポケットを探って、入っていた意味のないくしゃくしゃの紙切れを取り出した。さも重要なもののようにそれを眺めつつ、まだ相手の存在に気付いていない素振りで、玄関に近づく。

「お疲れ様です!」携帯灰皿に、まだ半分も吸っていない煙草を押し込んで、その男、アトル・ヴィル軍曹が駆け寄ってくる。アトルは、190センチに迫る長身と、鍛えられた体格を持つ、いかにも頑健な若者だったが、対するジノはアトルよりさらに5センチは長身で、肉体もさらに分厚く鍛えられていた。

「こんなとこまでわざわざやってきて、何か重要な報告でも?」ジノはわざと突き放す言い方をした。

「はい、あなたを愛してます!」アトルは真面目な顔で、真っ直ぐにジノの目を見上げて、言った。ジノの耳が、この3年間で聞いた言葉トップスリーに確実に入る、アトルの一番得意なせりふだ。いつでも、何度でも、繰り返し言われ続けた結果、今ではすっかり耐性がついてしまって、「やあ」か「どうも」くらいの意味しか、ジノに感じさせない。

「ちょっと仕事の話があるから、寄っていけ」ジノは言って、短いステップを上った。

「はいっ!」アトルは目を輝かせて、最高の敬礼をする。従順でごきげんな大型犬になったアトルを脇に従えて、ジノは玄関扉を開けた。

 兵舎に入ってすぐ右手側には、部屋の角に沿ってL字に長椅子が配された、待合スペースがある。そこに、見慣れぬ青白い男が座っていた。これが夜中だったら、幽霊が出たかと思うような、酷い顔色をしている。

 幽霊は、半分近く下りていた瞼を、ほんの気持ちだけ持ち上げて、ジノの制服の肩章に目を遣った。銜えていた煙草を左手に持つ。「隣の基地の、救護隊の者です。ちょっと呼ばれて、今夜だけここでお世話になります」

 救護が必要そうな顔色をしているくせに、本人が救護隊員とは。ジノは、思わず吹き出しそうになったのを堪えて、長椅子に放り出された、幽霊のジャケットを確認した。肩章は、編み込まれた金糸の中心に、朱線が一本。ジノの肩にあるのと、同じ意匠だった。

「ああ、どうも。聞いてるだろうけど、食堂は一般兵舎の地下だ」

「ええ、ありがとうございます」幽霊少尉は、今にも背後の風景が透けて見えそうな笑みを浮かべて、煙草を挟んだ手を、ちょっと上げてみせた。

 ジノとアトルは、幽霊少尉と別れて、正面の階段を上がる。二階の廊下は、絨毯の色がだいぶ褪せているうえに、模様が時代遅れすぎる、という問題はあったが、それを除けば、窓が多くて全体に明るいし、天井も高くて、実際より広々として感じられる。

 ジノの使っているのは、東の角部屋だ。重厚な扉を開けて中に入ると、まず、暖炉のある広い応接間がある。奥の扉の向こうには、書斎と寝室、それにバスタブ付きの浴室。デッキチェアのあるバルコニーからは、海を見ることもできた。ただし、林の隙間に見晴るかす海であるため、年々、その見える幅は狭まる一方だ。他の基地なら、佐官でもなければ使えないような、立派な部屋だったが、同じ基地に6年も留まっていれば、少なくとも宿舎では、ヌシのように扱われるのである。

「さっきの人、知ってます」部屋の扉を後ろ手に閉めてから、アトルは小声で言った。

「誰?」ジノは普通の声で返したが、アトルはさらに声を低くして、「《極東の死神》って言われてる、マズル少尉です」と、ジノの耳もとに囁いた。

 確かに陰気な面ではあったが、兵士の命を救うためにいる救護隊員に《死神》とは、ずいぶんなあだ名が付けられたものだ。ジノは片方の眉山を上げた。

「おまえ、相変わらず、そういう噂が好きだな」

「だって、有名ですよ。ちょっとやそっとの怪我じゃ救護してくれない、って。作戦行動で彼と一緒になった隊は、死亡率が通常の倍だとか……」そばかすのある鼻の付け根に皺を寄せて、アトルは、深刻そうな声色だ。

 しかし、本当にそんなデータがあるなら、今も救護隊員でいられるわけがない。つまり、そんな事実はないか、その事実を差し引いても、救護隊に残すだけの功績があるかのどちらかだ。

 ジノは「あっそ」とおざなりな返事をして、手を振った。「俺、ちょっとシャワー浴びてくるから、」

「あっ、……うっ、あ、はい……っ、……」変な返事をするアトルの頬が、ピンク色になっている。

「変な期待すんな。っつか、覗くなよ、」目を眇めたジノに、アトルは額から耳の先、頸もとまで、真っ赤っ赤にした。

「覗きませんよ!」大声で怒鳴る。それから、暖炉に向いた一人掛け用ソファのところまで突進して、そこにどっかと座り込んだ。ジノはハッと声を出して笑ってから、「そこのテーブルの菓子、全部食っていいぞ」と言い置いて、奥の扉を開けた。

「これ全部、賞味期限切れてるじゃないですか……」背中に聞こえたアトルの呟きを無視して、ジノは扉を閉める。

 浴室に入って、服を脱ぐ間も、さっきのアトルの赤い顔が、ジノの瞼の裏にははっきりと映っていた。

 額から頸もとまで、すっかり赤い、顔……。

 その顔が、ジノの記憶の中にある、一番古いアトルの横顔を呼び出した。


(つづく)


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