case05:

トジメの受難は続くよどこまでも

 その日は、とにかく最悪だった。

 まず、目を覚ましたのが、本来なら家を出てなきゃならない時間だった。

(以下、ワタクシ戸塚一の今日という日が如何に最悪だったかという説明であるので、次の括弧まで読み飛ばしてくださって一向に構わない。いっそなかったことにしてくれたまえ……)

 駅まで全速力で走ったら、今日は朝イチで取引先との打ち合わせが入っているというのに、電車は車両トラブルで止まっていて、タクシーも渋滞に巻き込まれ、打ち合わせの時間には大幅に遅れてしまい、いつもは温厚な上司から大目玉を食い、その後連絡が来た先週のF社の新商品販促企画のプレゼン結果も駄目で、本部長に呼び出されて厭味を言われ、優秀なバイトの佐久間さんは本日有給休暇をとっていて、久々に販促ツールサンプルの組み立て作業を手ずからやったら、カッター捌きがすっかり鈍っていて裁断に尽く失敗し、手元にあがってきていた校正紙を全て駄目にして、工務部に余りはないかと訊ねたら苦い顔をされ、煙草休憩に入れば赤紫色のスカートをはいた顔がわからない女が今日も居て、じっとこっちを見つめてくる気配がするのでちっとも休まらず、やっと帰れると思ったら旅行帰りの同僚から高さ五十センチはある一対の木彫りの置物を渡された。一個でも重いのに、一対である。その置物が個々に入れられたビニル袋を、通勤鞄を持った方の腕にまとめて掛け、空いた手で恋人にメールしてみるが、待てど暮らせど返信がこない。電話してみても繋がりゃしない。

(以上、俺の天中殺の様子はとりあえずここまで)

 腕を痺れさせてやっとのことでマンションの部屋の前まで辿りついたときには、夜の十時をまわっていた。長い一日だった……、と手を伸ばした俺の部屋のドアノブに、スーパーのレジ袋が提げられている。

「なんだよ今度は……」

 廊下を照らす明るいオレンジの照明に照らされたレジ袋が、これ以上なく禍々しいものに見える。この調子でいけば、中身は小動物の死骸とか、いや、もっと、爆弾だったりしてな……。引きつけみたいな浅い笑いがこみ上げた。ヘッ。

 俺は両手の荷物を通路に下ろし、恐る恐るその袋を持ち上げた。中を覗くと、想像したような恐ろしげなものは見当たらず、その代わりに、きれいに畳まれた上下ひと揃いのスーツが入っていた。

 きれいでもなんでも、スーツをこんな風に畳んじゃいかんだろう。いや、問題はそこではない。畳まれたスーツに、見覚えがあったのだ。袋から取り出して、目を近づけて確かめる。間違いない。この、濃いグレー地に、入ってるか入ってないか判らないくらいの極細のストライプ。これは一馬のスーツだ。何でこんなところに。指を滑らすと、何か固い手触りがした。脇ポケットの中から、ロイヤルブルーの一馬の携帯電話が出て来る。赤いイルミネーションと黄色のイルミネーションが、交互にちかちか光っていた。

 誘拐。

 とか、身代金とか強盗とか強姦とか、とにかく不吉な言葉ばかりが俺の頭の中を過る。そのとき、視界の端で、何かが動いた。目を動かすと、一枚の白い紙切れが、扉の脇の消火器のところに舞い落ちた。脅迫状。まさか。

 俺は、98%、つまり、限りなく当たり前のこととして、これが脅迫状であるわけがないと思っていた。思っていながら、次の瞬間には、風の強い日の道端に落ちている万札に飛びつくような、傍から見れば滑稽極まりない慌て方で、その二つ折りにされたメモ用紙を拾い上げている。開いてみると、そこには見慣れた筆圧の強い字で、


     一さんへ
     お仕事お疲れ様です。
     今日は
     ”ご主人さま〜”
     って感じにしてみた。
     そういうつもりで入ってきてね。

     Kazuma


 と綴られている。無意識の舌打ちが、コンクリートの廊下に反響した。

 やっぱり、日常生活における98%というのは、限りなく100%だと思っていて間違いないのである。これで、誘拐も身代金も強盗強姦も心配する必要がないというのははっきりした。

 が、しかし、何だこのメモは。『ご主人さま〜って感じ』って、どんな感じだ。あとこの横に描かれた耳毛の生えた宇宙人みたいなのは何のつもりなのだ…………。

 とりあえず、こんな寒い場所で、意味があるかもわからないことをいつまでも考えていても、風邪をひくだけである、という結論に達した俺は、重いビニル袋と鞄と、それから一馬のスーツ入りのスーパーの袋を手に扉を開け、…………



「にゃっ! にゃにゃいににゃにゃい、にゃじめにゃん!」



 …………閉めた。

 玄関の上がり框に、猫耳をつけて、あの、女性用の下着みたいなのは何というのだったか、キャミなんとか? スリップ? とにかくそんなようなものを着た男が座って、俺を見上げていたような気がしたが、そしてそいつが俺に向かって意味不明の言葉を発したような気がしたが、きっと疲れによる幻覚・幻聴だ。そうじゃなかったら幽霊だ。いやもうなんか、むしろ、幽霊であってほしい。

 と祈るように思いながら、自分ちの前に立ち尽くしていたら、扉が内側から開かれた。

「トジメさん、なんで閉めちゃうの」

 ふわふわした猫耳を生やし、女物の薄青い下着をぺろっと一枚着ているだけの、長身の男の恋人が、中から顔を覗かせる。そのまま外に出て来ようとするので

「んな格好で出てくるな!」俺は慌てて、荷物を持った両腕を横に開いて、扉に飛びついた。

「でも俺、8時くらいからずっとこの格好だから慣れちゃっ……」

「残念ながらその格好に慣れているのは世界でお前ただ一人だ!」一馬を玄関の内側に追い立てる。上がり框に荷物を全部下ろすと、腕の筋肉の弛緩とともに、深く長い息が出て行った。肺がぺちゃんこになるくらいまで息を吐きつくす。

「……で、何をどうしたら、こんな素っ頓狂なことになるんだ……?」玄関を上がって、スーツを脱ぎながら、俺は言った。部屋が寒い。暖房のスウィッチを入れる。

「メモ見なかった?」

「見たけどあれじゃ何もわからないだろ! しかも袋にスーツと携帯まで入ってるし、俺はお前が……」誘拐でもされたかと、という言葉は飲み込んだ。馬鹿らしい。それはたった2%、あってなきがごとき2%だった。でも、馬鹿みたいに慌ててメモ用紙を拾ったのは、その2%を本気で心配していたからだ。しかし、当の一馬はのんきなものである。

「あ、よかったぁ。携帯見当たらないなぁと思ってたんだよね。会社に忘れてきたのかと思ってた」玄関の荷物を漁っている音が聞こえてくる。その携帯を探しているのだろう。

「……一馬くん。せめて、その格好についての説明はして頂けませんでしょうか」

「あ、だから、スーツは前振りだったんだけど……。脱いでるよ、って。それで、猫の絵描いてたでしょ、メモに」

「あれは耳毛のある宇宙人じゃなかったのか……」

「違うよー。俺が猫で、トジメさんがご主人様。宇宙人じゃ話繋がんないじゃない。それにこないだ、スカートのリベンジするって約束したでしょ」約束だったのか、あれは。一方的な宣言だったように思うんだが。

「それで、その耳はどうしたの」

「鳥花(とりか)の借りてきた」

 鳥花、というのは、一馬の年の離れた妹だ。たしか、まだ小学校の五年だったか六年だったか。会ったことはないが、前にプリクラを見せてもらったことがある。一馬とはあまり似ていなくて、パーツの一個一個がくっきりした感じの子だったように記憶している。一馬は母親似らしいから、鳥花ちゃんはきっと父親似なんだろう。

「なんか、すごい荷物だねぇ」携帯を見つけ出した一馬が、今さら感心したように言った。「この大きい袋、なに?」

「同僚から貰った。旅行土産だって」

「見ていい?」どうぞ。一馬は腰を折って、袋の中から変な置物を取りあげた。スリップの裾が上がって、膕から脚の付け根の一番太いところまでが俺の目前に晒される。

 それは、上り階段の前に、ミニスカートの女子高生がいるとき並みに気まずい光景だった。女子高生の脚なら、小指の先ほどの興味もないから開き直れるのだが、俺は元より男の生足には興味があるわけで、その中でもとりわけ一馬の裏腿には並々ならぬ思い入れがあるわけで、そのやましさがどう働いたものか、なんかちょっとムカついてくる。

「その、……女の下着みたいなのは、どうしたの」あまり見ないようにして(それでも完全に見ないことなどできないのが、悲しい男の性である)訊ねると、一馬は「これ?」とスリップの裾を持って振り返った。

「ネットで買った」

「また?」先日の、結局使わなかった紫色のスカートも、こいつはネットで買っていたはずだ。まったく、ネットなんてろくなもんじゃない。

「トジメさん、お……、怒った……?」

「怒らないけど」

「けど……?」

 片手に変な置物を持った、女物の下着に猫耳までつけた男が、神妙な顔で俺を見上げている。ふつうなら笑ってしまうところだが、全然笑えない。俺は逃げるようにして、「ちょっと、風呂行ってくる」と言ってから、寝間着がわりのスウェットを手に湯殿へ向かった。自分であきれるほど、不機嫌な声だった。

「あ、うん、いってらっしゃい……」一馬が言い終わる前に、洗面所の扉を閉める。


   ★


「あー……」

 熱めのシャワーが胸元にかかった瞬間に、勝手に上擦った声が出た。これが至福というものだよなぁ。俺は目を閉じ、シャワーヘッドを頭に持っていく。頭皮に染み渡って流れるお湯に、また「あー」と声が出た。こういうときに出る声が、濁点をつけたように聞こえるのはなぜだろう。

 シャワーを楽しんでいるうちに、今日一日の最悪に思えた出来事も、『どっちにしろ遅刻確定だったのだから、電車の車両トラブルと渋滞という言い訳ができて逆にラッキーだった』とか『わざわざ重たい土産を買ってきてくれたのだ』とか、違う方向から見ることのできる余裕も出てくる。

 そうだ。『疲れ切ってひとり暮らしの部屋に帰ったら、好きな人が待っていてくれた』だなんて、例えその恋人がどれだけとんちんかんな格好をしていたとしたって、最高にハッピーな出来事ではないか。

「にゃじめにゃん、ってなんだよ……」扉を開けた瞬間の、一馬の猫語(なのだろう)を思いだして、頬が緩む。あれは「トジメさん」と言ったつもりなのだろうか。「一さん」だったのかもしれない。さっきのメモの頭にはたしか、『一さんへ』と書いてあったな。

 普段はトジメさんなんてふざけたあだ名で俺を呼ぶ一馬だが、ベッドの中では決まって「はじめ」だし、外で誰かと一緒になったときなどには、「戸塚さん」と呼び分ける。ぼーっとしてるようで、あいつは案外きっちりしているのだ。だから、家主がいないときに勝手に暖房をつけたりもしない。

 そういえば、8時から待っていたと言っていなかったか。一馬はあの格好で、2時間以上も寒い玄関で一人、俺を待ってたのだ。妹にカチューシャを借りて、ネットで女物の下着を買って、しかもその下着も、フリルなんかはついていない、水色ストライプの素っ気ないデザインのものを選んでいた。俺が、女っぽいものが苦手なせいだと、自惚れてもいいのだろうか。…………ほんとに、馬鹿だな。

「一馬ぁ、」

「はぁい」呼んだら、一馬は洗面所の扉をすぐに開けて返事をした。まだ、寒い玄関にいたのだろうか。

「一緒に入る?」風呂ためてないけど。

「いいの?」

「早くおいで」摩硝子の折り戸を内側から開く。そこには、白い猫の耳を生やした、スリップ姿の恋人が立っている。笑って掴んだ肩が熱い。一瞬、そう感じるくらいに、一馬の固い肩は冷えきっていた。

「……ごめん。さっき、態度悪かったよな。ちょっと、今日、色々あって疲れてた。ほんと、ごめん」

「……洗ってあげる」

 顔をほころばせた一馬が、そう言って俺を見上げた。思えば、今日初めて見る笑顔だった。ごめん。腹の中だけで、もう一度謝る。海綿スポンジを手に取って、一馬はシャワーチェアに俺を促した。

「その格好のまま?」腰掛けながら訊ねると

「脱いだ方がいい?」一馬も向かい合わせの膝立ちになって、質問で返してくる。

「……そのまま」

「にゃあ」猫の鳴き声を真似したというより、「うん」の代わりに「にゃあ」と発音しただけ、というような、普通の声音だった。わだかまりを残さないようにする、これが一馬のやり方だ。

 別に恋愛を勝ち負けだなんて思っちゃいないが、俺はちょっと負けたような気分で、猫耳と猫耳の間をポンポンと叩く。一馬は、腹いっぱいの猫がするみたいに目を細めて、笑った。


(2009/02/27)

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