case06-1:

林さんの消えた猫たち・その1

「今から来ていい?」

 土曜の昼前、ケータイにかかってくる、恋人からのスイート・コールほど素晴らしいものはない。俺は、浮かれ切った気持ちを悟られぬよう、声だけは低めて、

「いいともー」と返した。

「てかもう駅ついてんだけどね。バスで行くから、あと十分くらいで着くと思うー」

 おしっ。と俺は携帯電話を握った手でガッツポーズをつくった。それから真っ先に、玄関のドアガードを外しておく。合鍵をつかってやってくるはずの、恋人への気遣いだった。

 髭をあたり、歯を磨き、寝間着のスウェットから、あまり変わりばえしない部屋着に一応着替える。ちょうど昼だし、パスタでも作ろうと思い立って、鍋にたっぷりの水を火にかけた。こんな日は、茹でるときに使う塩も、とっておきのものがいい。俺は、先日会社でサンプルを貰ってきた、輸入もののフランス産自然塩を棚から取り出した。この、パッケージの裏に貼りつけられている、日本語版の成分表を受注したのは俺だ。俺は、印刷会社の営業部に勤めている。

 合鍵があるなら鳴らないはずのドアホンが鳴って、浮かれていた気分が、少し挫かれた。俺は粗塩の袋を片手に、キッチンの背後の壁にある、テレビ付きドアホンの受話器を上げた。パッと明るくなった液晶画面いっぱいに、恋人の一馬の顔が迫っている。

「お前また合鍵忘れてきたの?」

 不機嫌を隠さない声で、俺は言った。一馬はよく、うちの合鍵を家に置いてきたり、持っていたらいたでどこかに置き忘れたり、平気でする。合鍵を渡している意味がまるでない。俺なんて、一馬のボロアパートの鍵専用のキーホルダーまで買って、肌身離さず持ち歩いているというのに。

 画面の一馬は、俺の言葉には返事をせずに

「トジメさん、事件だ」と、張りつめた表情で言った。

「……ハァ、」事件?

「事件なんだトジメさん」一馬は繰り返して、さらに画面ににじり寄ってきた。ここで話しても埒があかない。

「……まぁ、上がれよ」

「すまんのう」

 そのとぼけた謝罪の中に、『合鍵を忘れて申し訳ない』という気持ちは、果たして含まれているんだろうか。やさぐれた気分で、エントランスのロック解除のボタンを強く押す。受話器を戻す前に、俺はもう一度、液晶画面に目を遣った。一馬は、扉の方に移動していて、画面には茶色い頭の先くらいしか映っていなかった。

 だが、俺の目は、画面にからめとられてしまう。

 一馬の背後に、女が立っているのだ。女は、俯き加減に、こちらを向いて突っ立っている。白っぽい服に、黒髪を肩下まで垂らし、首のあたりにちらついている白いものは……、包帯、ではないだろうか。ぞっとして、俺は思わず、受話器を壁に押し付けるようにして置いた。

 まさか、いくら一馬とはいえ、休日の恋人の家に、何も言わずに他人(しかも女)を連れてくるわけはないだろう。じゃあ今のは何だ。一馬の言っていた『事件』というのは、いわゆる、そういう類の事件なのであろうか。そんなの、俺じゃなくてちゃんとした霊能者のところへ行ってくれよ、頼むから。あわあわしているうちに、玄関のチャイムが鳴った。俺は唾を飲み込む。覚悟を決めねばならない。景気づけに、手にした粗塩の袋の口を勢いよく破って、大股で玄関に向かった。鍵のつまみを横へ九〇度回し、上がり框に飛び退る。ドアノブが回る。扉にわずかな隙間ができたのを見計らって、俺は袋に手を突っ込み、塩を掴めるだけ掴んだ。

「伏せろ一馬!」

「……えっ、」

 手の中の粗塩を、俺は渾身の力で、一馬の背後の何かわからぬ存在に向かって投げつけた。

「な……っ、なにすんのトジメさん……!」

 何ということだ。清めの塩は女の幽霊ではなく、一馬の胸元に全てぶちまけられていた。俺の言うことを聞かずに、ぼけっとその場に突っ立っていたせいだ。

「何やってんだ、伏せろって言っただろ!」

「何やってんだってそりゃこっちの台詞だよ!」

「だってお前の後ろに!」

「後ろに何!」一馬は体を斜にして、背後を振り返った。

「女の…………」幽霊、と、続けようとして、俺は言葉を飲み込んだ。

 脚だ。一馬の背後に隠れていた女には、脚があった。膝丈の生成り色のスカートの裾から、ストッキングの脚が二本、伸びている。たとえ脚があったとしても、幽霊が、ストッキングなんぞ履いているだろうか。

 果たして、一馬の後ろに立っていたのは、本物の、生きている、女性だったのである。

 女は茫然とした顔で、一馬と俺を順番に見た。そして、ハッと我に返ったように背すじを伸ばして、そんなに乱れてもいない黒髪をしきりに手櫛で整えながら、

「は……、はじめまして。突然お邪魔してすみません。わたし、十島さんと同じ会社で働いている、林と申します」深々と頭を下げた。

「林さん、大丈夫でしたか? 塩かかりませんでしたか? ほんとに、ほんとにすみません」

「い……いえ、大丈夫です、本当に、あの……」

「トジメさん、」一馬は眉間に皺を刻んだ顔をこっちへ向けた。軽く顎をしゃくって、その、林さんというらしい女性の方を示す。それで、俺はようやく、自分のやらかしたことの最悪さに気づいた。顔から血の気が引く。

「あ……! す、すみません。俺、何か、勘違いをしてしまったみたいで……。本当に、申し訳ありません!」

 俺が頭を下げて林さんに非礼を詫びている横で、一馬はTシャツの襟ぐりから内側に入り込んだ塩を、土間の隅にはたき落としていた。しかし、投げつけたのはあいにく普通の食塩ではなく、湿った粗塩である。肌に貼り付いたぶんがなかなか取れないらしい。

「トジメさんちょっと、シャワー貸りていい。シャツも」一馬は言いながら靴を脱いだ。

「林さん、重ね重ね申し訳ないんですけど、五分で出るので、とりあえず上がってお茶でも飲んでて下さい。ほんとすみません、こんなときに」

 一馬は両手を顔の前で合わせて、拝むようにした。鎖骨の窪みにくっついた塩の粒が、玄関の天窓から射す陽に照らされ、ラメみたいに光る。

 俺は、「こんなときって、一体どんなときだ。何で彼氏の家に、断りもなく女連れでやって来られるんだ」とこの場で一馬を問いつめてやりたかった。しかし、初対面のご婦人を辱めてしまったばかりのこの俺に、そんな権利があるはずもない。ぐっと堪える。林さんは、

「いえ、全然、大丈夫です」と両手を左右にせわしなく振った。

 だから、大丈夫って、いったい何が大丈夫なんだ。何か、二人の間だけの了解事項があるらしいことに、俺は苛々する。しかし表面上では、あたりさわりのない笑顔をつくって、

「散らかってますが、どうぞ」と林さんにスリッパを勧めた。

「あ、林さん。そこ、足下、塩あるんで、気をつけてくださいね」脱衣所に消える直前に一馬が指した土間の一角には、塩がこんもりと積もっていた。視線がそこに集中する。俺の間抜けの証明を観察されているようで、いたたまれなかった。

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