case06-2:

林さんの消えた猫たち・その1

「済みません。お邪魔します……」林さんは、塩を避けて靴を脱いだ。靴の中は浮かれたピンクの花柄模様だった。

「ええと、コーヒーと紅茶はどちらが……」訊きながら、俺は寝室とリビングを隔てる引戸を久々に閉じた。

「あ、いえ、お構いなく」

「でも、折角なので」何が折角なんだか自分でもわからないままに言う。

「あ、じゃあ、ええと、紅茶を……お願いします」

 ティーパックの紅茶をいれて、テーブルに持っていくと、林さんは机の上に舟和の包みを出した。

「あの、これ、お土産なんですけど……。あんこ玉です。よかったら」

「えっ。すみません、ありがとうございます。舟和のあんこ玉、好物なんです」

 俺は基本的に甘党ではないので、自分で菓子の類を買うことは少ない。けれど、一口大に丸められたあんこの周りを、ゼラチンで薄く固めたこの和菓子だけは、子供の頃から好きで、たまに自分で買って食べたりもする。

「ええ、十島さんに、そのように伺ったので……」最寄駅の駅ビルで買ってきたのだそうだ。俺は、駅ビルの食品街を物色して歩く、一馬と林さんのたのしげな様子を、ちょっと思い浮かべた。とたんにまた苛つきが襲ってくる。俺はその光景を急いで頭から追い出して、言った。

「ありがとうございます。早速、開けさせてもらってもいいですか」

「どうぞ、どうぞ」

 しかしまぁ、さっきから、なんというたどたどしい会話であることか。これで本当に営業部五年目の人間なのか、自分であやしんでしまう。そして俺も大概だが、林さんも、紅茶のカップを持つ手が震えるほど緊張しまくっている様子だった。おそらくは、玄関先で俺から受けた仕打ちへのショックを引き摺っているせいだろう。気まずいことこの上ない。

 俺はとにかく、フォローをせねばと、まともに働いてくれない頭を、あんこ玉の糖分で叩き起こそうとした。林さんにも一応勧めてから、いんげんの白いあんこ玉を一口で食べる。紅茶を啜る。悪くない。紅茶との取り合わせも、全然いける。だけど、俺としては、和菓子には緑茶を合わせたかった。林さんも内心では(あんこ玉には緑茶でしょう。気の利かない男ねッ)なんて怒ってるんじゃないだろうか。

 しかし、もしそんなこと思っていなかったとしたら、ここでお茶をいれ直すと、余計に雰囲気がぎくしゃくしてしまうかもしれない。俺はせめて、湯のみっぽく両手でカップを持って、音をたてて紅茶を啜った。その間にも、フォローの良いせりふはないかと、頭の中の抽き出しを端からひっくり返して探している。

「……あの、……ゆ、幽霊って、美人ですよね、……」やっと思いついたフォローの出だしが、それだった。自分の耳で聞いた段階で、すでにかなりヤバい気配はしていたのだが、俺はままよと先を続けた。

「掛け軸とかに描かれている幽霊画の幽霊って、大概、鼻筋とかも通っていて……」

「あ、……は、……はぁ、」

「目もとも涼しくて……」

「はい……」

「ほら、昔の美人の絵って、みんなそういう顔じゃないですか……」

「……そう、ですね……」

「……そう、なんですよ……」

 そして、前より重い沈黙が訪れた。

 俺は内心、地面に額がめりこむ勢いで、己のふがいなさに落ち込んでいた。が、実際には、紅茶のカップに口をつけただけに見えたはずだ。

 でも、いったい、なにをどうすれば、女性を幽霊と見間違ったことを上手くフォローできるというのだろう。よっぽど口の上手い詐欺師でも手こずる案件じゃなかろうか。しかも俺ときたら、詐欺師どころか、仕事のときでも女性と二人っきりになってしまうと、大量の冷や汗が背中に流れをつくるほどの、女嫌いである。いや、厳密に言うと嫌いではなく苦手なんだが、そんなことはいい。

 林さんは、髪も染めていないようだし、更にそれを巻いてもいないし、化粧も、二十代前半(だと思われる)のOLにしては薄い方なのだが、それでもほのかに、白粉のような匂いがした。俺をこの世で最も落ち着かなくさせる匂いである。

 この事態の改善は俺にとって、素面のノンケをネコとして籠絡し、円満にアナルセックスに持ち込むくらいの、難事だった。つまりは、ほぼ不可能な技である。

「お待たせしましたぁ」

 助かった! と、きっと林さんも心の内で叫んだことであろう。風呂から戻ってきた一馬に向いた、二つの顔は、遠足の朝の幼稚園児のごとく輝いていたはずだ。

「で、あのことは、もう……?」濡れた襟足をタオルで拭きながら、一馬は林さんに言った。

「あ。まだなんです。すみません」林さんも、一馬を見上げる。

『あのこと』がどのことか知らない俺だけが、まるで部外者だった。二人は、口を開くタイミングを、目と目で譲り合いはじめる。自分が、愛想のない顔をしていてよかったと思うのは、こんな時だ。多少イラッとしたくらいでは、顔色までは変わらない。

 譲り合いの結果、林さんが自ら、この突然の訪問の理由を話すことになったようだ。

「あの……、うちで、ネボとジャムというシャム猫を二匹、飼っているんですけれども、」

「はぁ、」ネコというネボでシャムというジャム猫ですか。と聞き返してしまいそうな、ややこしいことこの上ない名前である。

「その、ネボの方なんですけど、お湯に……滾ったお風呂のお湯に、昨日の夜、落ちてしまって……」林さんの、時間軸や視点があっちこっちに飛ぶ、わかり辛い説明を要約すると、こうだった。

 林さんは、いつもは湯船に蓋をしてからお風呂のお湯を溜めるのだが、昨日に限ってそれを忘れてしまった。そして、林さんの飼い猫の片割れには、お湯が溜まるまでの間、湯船の蓋の上で居眠りをするという変な癖がある。猫はおそらく、昨夜もいつも通りに、お気に入りの場所に飛び乗ったつもりだったのだろう。しかし、生憎、昨日はそこに蓋がなかったのである。

「ものすごい鳴き声が聞こえて駆けつけたら、ネボが溺れていて、すぐ助けようとしたんですけど、お湯がもうとにかく、手を入れられないくらい熱くて……。洗面器で何とか掬ってその場は助け出したんですが、浴室の窓から逃げ出してそれっきり、姿を見せなくなってしまったんです。ネボだけじゃなく、なぜかジャムまで」

「ネボは火傷してるんだ……早く探してあげないと」

 一馬は、自分が迷子になったかのような表情で、そう言った。林さんも、そんな一馬と似たりよったりの顔つきで頷く。首もとを隠すようにあてられた、林さんの握りこぶしの小ささに、俺は愕いた。女だ。と、当たり前のことを改めて思う。母親でさえ来たことのないこの部屋に、女が居るなんて、まったく妙な感じだった。林さんの首には、大判の白っぽい絆創膏が貼ってあった。テレビインターホンの画面で、包帯のように見えたのは、これだったのか。

「それ、もしかして、猫にやられたんですか?」

「あ、はい……。助け出すときに、暴れたネボに引っ掻かれて……」林さんは改めて首に手を添えなおして、俯いた。そんな彼女を力づけるように、一馬は、

「とにかく、探しに行きましょう。俺たちも協力しますから!」と大きな声で言った。

 もちろん、「俺『たち』?」という反論ができる空気では、なかった。

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