case06-4:

林さんの消えた猫たち・その1

「戸塚さん」と、一馬が俺の苗字を呼んだことは、数えるほどしかない。

 俺たちは、金曜の夜の飲み屋で出会った。まだ、寒い時期で、俺はそのとき焼酎を片手に、おでんの鶏肉を食っていた。鶏皮の甘い味で、口の中がいっぱいだった。

「カズマ?」

 一緒に飲んでいた同期の坂口が、カウンターの後ろを通りかかった若い男に、そう声を掛けた。俺は鶏皮を咀嚼しながら、焼酎を口に含み、何の気なしに、目だけでその男を見上げた。

「坂口先輩。お久しぶりです」

 目を丸くして振り返った、その、顔。俺は思わず息をのみ、そして当たり前だが、咽せた。二人が、同時に俺を見る。

「きったねぇなぁ、おい、平気か?」

「だ、大丈夫ですか?」

 カズマと呼ばれた男は、ごく自然に、俺の背をさすった。

「だいじょ……、ぶ……」ありがとう。礼を言って、俺は男の顔を見上げた。そこにはやはり、死ぬほど好みの顔があった。

「よかった」カズマの手は、触れた時と同じさりげなさで、離れていった。

 俺は本当は、「よくない」と言いたかった。手を離されたことが、よくない。その薄い瞼が、長い睫毛が、そんな顔でみつめてくるのが、よくない。まずい。気を落ち着かせようと慎重に焼酎を飲み込むが、味などほとんどわからない。

「こいつ、俺の大学んときの後輩で、トシマカズマ」イケメンだろ。坂口が笑うのに、イケメンだ、と俺はトシマカズマを見ずに返した。

「初めまして、十島です」名刺を持った白い指には、とりあえず、結婚指輪ははまっていなかった。俺も自己紹介をして、名刺を交換した。総務部、十島一馬。音だけでなく、字面でも何となく韻を踏んでいる。

「先輩、すみません俺、トイレ行きたくて」

「おう、悪ぃな、えらい時に呼び止めて」

「いえ、すみません。それじゃまた」

 俺にも会釈してから、一馬は急ぎ足で去った。トイレは、カウンター席を一番奥まで突っ切っていったところにある。一馬の後ろ姿を見遣っていた坂口は、

「あいつ、背もあるし顔もイケてんのに、なんでスーツが似合わねぇんだろ」と首を傾げた。新入社員でもあるまいし、なぁ。話をこっちに振ってくる。

「総務の女子制服のほうが似合うかもな」俺は名刺を指して、冗談を言った。冗談だったのに、「ああ、あいつ女顔だからか」と、坂口は普通に納得してしまったようだった。

「いくつ下なの?」トシマくん。

「えーと、俺たちの二個下になんのかな、たしか」

「じゃあ今年二十五か……あー、いかん。トイレとか言うから、俺までもよおしてきた」

「いちいち言わずにはよ行けや」

 幸運なことに、男子便所には一馬以外に人の姿はなかった。一番奥の小便器の前に立っていた一馬は、すぐに俺に気が付いた。

「あれ、戸塚さん。もしかして釣っちゃいました?」と笑う。小便中の男をかわいいと思ったのは、生まれて初めてだった。

「釣られた釣られた」

 一馬の持ち物を覗き見たい野獣の心を、紳士の笑顔で踏みしだき、俺は一番手前の小便器の前でチャックを下ろした。先に用を終えた一馬は、俺の後ろを通るときに、

「戸塚さん、大きいんですね」と、言った。

「え、」

「背が、すごく」

「ああ。一八三あるから。十島くんも、結構すごいじゃん」

「え、」

「背」

「あ、ええ。俺は一七八センチです」

 あやしいやりとりと同時に、小用を終わらせ、俺は一馬の隣の洗面台についた。

 鏡の中の一馬は、時間をかけてていねいに、液体石鹸で手を洗っていた。伏せた目に、量は多くないが、嫌に長い睫毛がついていて、変に色っぽい。瞼も頬も、酒で薄赤い色に染まっていた。

「顔、赤いよ、十島くん。平気」

「大丈夫です。俺、色が白いんですぐ赤くなっちゃうんですけど、お酒は……」

 俺は無言で、一馬の頬に、洗い終わったばかりの手を触れた。一馬は、ぴたりと動きを止めた。その白い指先が、無防備に、蛇口の細い水に洗われている。俺の濡れた手の甲は、一馬の火照った頬の熱を吸い取って、ぬくもってゆく。

「……酒は、なに?」俺は訊いた。

「……酒は、いけるんです、結構」そう言うと、一馬は蛇口を固く締めて、そろそろと睫毛を持ち上げた。鏡越しに、俺を見つめてくる。声をほとんど出さずに、その唇が、「戸塚さん」と動いた。ドキッとする。

 俺の手は、一馬の頬にまだ触れたままだったが、それについて一馬は何も言わなかった。逃げることも、振り払うこともしない。お仲間なのか、見た目以上に酔っているのか、はたまた何も考えていないのか。どうとも取れる、やっかいな表情だった。けれど、それはつまり、可能性が0%ではない、ということだ。

「酒、何が好き?」

「日本酒です」

「なら、この後、飲み直さない。いいとこ知ってるんだ」

「いいですね」

 その場で携帯番号を交換した。

 一馬も、今は会社の同僚と一緒に飲んでいるところだというので、一時間後に、駅の傍のタリーズで待ち合わせることにした。

 坂口には悪いが、俺は待ち合わせまでの六十分間、ずっと上の空だった。一馬の顔、頬のやわらかさ、熱さ。声。俺の今知る限りの一馬のすべてを、延々、順繰りに頭の中でなぞっていた。カウンターの下で、馬鹿正直な下半身は少し固くなった。

 ちょうど居酒屋を出たころに、携帯が震えた。

 件名『十島一馬です』

 本文『タリーズにいます』

 それだけの短いメールに、口もとが緩んでしょうがない。坂口と別れて、急ぎ足で待ち合わせ場所へ向かう。

 一馬は、ショートサイズの紙容器を手に、窓際の席に座っていた。さっきさんざん思い返したあの横顔が、橙色の薄暗い照明の中に浮かんでいる。落ち着かない睫毛が、小さく上げ下げされ、店内を見渡し、やがて、外へと向けられた。一馬は微笑んで、窓越しにちょっとだけ手を振った。俺の劣情は、その仕草にさらに煽られて、だいぶヤバい状態になってくる。コートを着ていられる季節で、つくづくよかったと思った。

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