case06-6:

林さんの消えた猫たち・その1

 ポスター貼りは、人情に篤い商店街のみなさんの協力を得て順調に進んだ。

 ついでに、狭すぎる店と店の間の、蒸し蒸しと唸りをあげる室外機の裏なんかを覗いてみたりもしたが、林さんの猫どころか、野良猫の一匹も見かけなかった。今まで一度も意識したことはなかったが、そういえば、この辺では外に居る猫を見かけたことがない。住宅地では珍しいことではないだろうか。

 合流した一馬も林さんも、似たり寄ったりの手応えだったらしい。

「この辺で、猫がうろうろしてたらすぐにわかるはずなんですけど……」林さんは意気消沈していた。

 商店街の総菜屋で遅い昼食を買い込んで、林さんの家に戻る。取り皿を持ってきます、と言って林さんは台所に入っていく。袋から総菜を取り出していたら、林さんが台所で奇声をあげた。

「どうしました?」駆けつけると、林さんは台所の奥の方に顔を向けたまま、

「あ、あの、餌が……!」と声にならないような声で言う。

 冷蔵庫の脇には、猫の餌を入れるプラスチックの容器が置いてあった。中身が、中途半端に減っている。皿の周りに、固形のと、シーチキンみたいな餌が、一緒になって散っていた。

「戻ってきたのかも!」

「ジャム、ネボ、いるの?」

 手分けして家じゅう探したが、やはりどこにも猫たちの姿はなかった。

 探すときに、ネボの消えた風呂場も見せてもらう。俺は、ひとり暮らしの若い女性の風呂場に入ってもいいものなんだろうか、と内心では躊躇していたのだが、林さんも一馬も全然気にしている様子がなかったので、後に続いた。

 溺れた猫が飛び出して行ったという窓は、網戸が破れているという以外は何の変哲もない、摩硝子の窓だった。顔を出して見ると、真下にはトタンの青い屋根があった。猫も当然、この窓から出て、トタンの上に飛び乗っただろう。念のために、窓から体を乗り出して屋根の端から端までを覗き込んでみたが、やはり、猫の姿はなかった。その下は、草がまばらに生えた猫の額ほどの裏庭だった。俺たちが歩いてきた方向の逆側、工場の裏だ。隣家とは、コンクリートの塀で仕切られている。

「あの塀を乗り越えて……どこかに行くことも、ありえるんですよね」

「猫ですから」

 林さんは、自分が猫であるかのように、きっぱりと言った。

「でも、餌を食べに帰ってきたってことは、近くで生きてるってことですよ。餌が食べられるんだから、元気にしてるはずです」一馬は力強く言う。林さんは、「そうですよね」と一馬の方を向いて頷いた。

「すみません。遅くなりましたけど、お昼にしましょう。お腹すきましたよね」そう言って初めて、林さんははっきりとした笑顔を見せた。


     ◆


「うち来る?」林さんの家を辞去して、駅に向かうときに、一馬は言った。

「行く」

 一馬の住んでいるアパートは、駅から五分の好立地にある。その分、部屋も狭くて、築年数もかなりいってそうな、二階建てのぼろアパートだった。階段は、普通に上ると考えられないくらい大きく靴音が響く。俺はいつも抜き足差し足で気をつけて上るが、住人である一馬はまったく頓着なくゴンゴン音を響かせて上る。

 地下鉄の中で、「今日はそんなに散らかってないよ」と胸を張っていたが、「散らかってます」と謙遜した俺や林さんを何だと思ってるんだ! と怒鳴りたくなるほど、今日も一馬の部屋は散らかっている。

 一馬がトイレに行っているうちに、俺はまず、腰を下ろす場所から自分で作らねばならなかった。床に散らばった服を畳み、雑誌と新聞を分けて積み重ね、テーブルの上でなだれを起こしているちらしやダイレクトメールの類は、ひとまとめにして捨ててしまう。テーブルの上には他にも、キャッシュカードの利用明細が開けっぴろげに投げ出されていた。いかん、と思いつつ、目に飛び込んできた文字の違和感に、逆に目を近づけてしまう。『アウワワードローブ』で八七〇〇円と一二〇〇〇円、『ガールズパーク』五〇五〇円、『ハニー×ハニー』三九八〇円……利用店舗名が、怪しすぎる。

「それ、見えちゃったんだけど、何買ったの」部屋に戻ってきた一馬に、顎で机の上の明細を示しながら俺は訊ねた。携帯電話の画面を開きながら、ごく気のない風を装う。一馬は「あ、」と言って、明細を封筒に戻し、机の下に移動させた。

「……えっと、鳥花に、洋服プレゼントしたんだ」鳥花ちゃんというのは、一馬の年の離れた妹だ。確か、まだ小学六年生だったはずである。

「最近の小学生って、ずいぶんおしゃれに気をつかうみたいだよ」どこかで聞いたようなことを付け加えるのがまた怪しい。

 俺はざわつく内心を隠して、「ふうん」とさらにどうでも良さそうな声で相槌を打ちながら、携帯で、一馬の利用した店の名前を調べた。出てきた検索結果の下にはどれも、『レディースウエア・ファッション雑貨販売』『ホットな女の子の通販サイト』『秋冬先取り!新作モッズコート予約開始』等の文章がついている。

 俺は苛々もやもやとしながら、検索結果の青いリンクをクリックした。そうして表示されたページを見れば、疑いは余計に強くなる。一馬の利用していた店が、レディースはレディースでも、どれも『働く女性向け』の通販サイトのようだったからである。

 いくらおしゃれに気をつかうからって、『オンでもオフでも着回せるカーディガン』を小学生女子にプレゼントしたというのだろうか。それとも『今年こそ憧れのムートンコートをゲット』させたのか。八千円もする『プリプラ☆バレエシューズ』を『色ち買い』したのか。つっこみ待ちとしか思えない表現は置いといて、小学生女子へのプレゼントをここで買うなんて、どう考えてもおかしい。よもや、林さんのあの大量のスカートコレクションの一部は、一馬がプレゼントしたものではあるまいな……。

「トジメさん、」

「えっ、うん」俺は慌てて携帯を閉じて顔を上げる。一馬は、四角い卓袱台の隣の一辺に、開いたサッカー雑誌をのっけて、俺を見ていた。

「なに?」

「なんか、顔が鬼瓦みたいになってるよ。こんな」と一馬は、歯茎を剥き出しに、見開いた両目を爛々とさせた。

「嘘つけ」

「してたよー、こんな顔だった」と、もう一度同じ顔をつくってみせるので、俺はつい笑ってしまった。えへへ。一馬は何でこんなにかわいいのかよー、と歌い出したくなるようなかわいい顔で笑う。えへへ、と俺もさらににこにこしてから、しまった、と気づく。通販サイトの疑惑を追及するつもりが、見事にごまかされているではないか。

 だが俺は、ごまかされたかったのだと思う。その証拠に、俺には女性のファッションのことはさっぱりわからないから、大人っぽい小学生女子なら、大人と同じものを身につけるのかもしれない。なんて、さっきとはまるで真逆の可能性まで考えはじめる始末だ。

 一馬は、俺の方に少し尻をずらして座りなおした。雑誌を閉じる。ちゃんと読んでいたわけではないのだろう。表紙には十一月号と書かれていた。十一月号はふつう十月に出るものだが、今年の十月はまだ来ていない。一馬が読んでいるのは去年の雑誌だった。

「折角の休みに駆り出しちゃって、すまんのう」

「いや、つうか、俺の方こそ塩ぶっかけてすまんかった」

「あれねぇ、びっくりしたよ。彼氏に塩投げつけられるなんて、滅多にない経験だよね」

「彼氏」

 思わず繰り返す。待ち望んでいたはずの”一馬からの言葉”は、嬉しいとか感激とかではなく、何だろう。言うなれば、『こんだけ待たせといてこんなタイミングでさらっと言うか!』

 一馬は、真顔で少し首を傾げ、 「彼女って言った方がよかった?」でも、どっちかっていうと俺の方が彼女じゃない。トジメさんより髭薄いし。と、とことんずれたことを言った。

「し、……塩は、さ」笑うタイミングを失って、俺も真顔で言う。「お前に投げつけたつもりじゃなかったんだけど」

「うん。林さん、俺にも『気にしないでください』って言ってたよ。『急に来た方が悪いので』って」

「……優しい人だ」

「そのうえ領収書に印鑑押すスピードも速いんだよ」

「ああ、……その人が林さんか」会社で友達ができたと、そういえば言っていた。スカートの趣味がよくて、印鑑を押すスピードが速い、女の人だと。

「うん。まさしくあれは光の速さ」一馬は、左手で見えないページをめくり、握った右手で膝を叩いて判を押す仕草をする。

「ね…………ボ、とジャム。早く、出てくるといいな」猫、とまた言ってしまいそうになったのを、俺は力技で修正した。

「うん。ありがとう」

「なに、ありがとうって」

「なんとなく」一馬は言いながら、その場に膝立ちになって、俺の首に腕を巻き付けてくる。伸びた背筋が猫のようだ。そう言うと、

「撫でてみて」と顎を上向けた。晒された喉を、軽く曲げた指の第一関節のあたりで擦ってやる。開いていた目が、ひゅっと細められた。

「…………きもちい……」

 ため息の中に埋もれた声が、俺を駆り立てる。

 ベッドの上にまで散らかされた雑誌や脱ぎっぱなしのパジャマを床に除け、二人で倒れ込むと、狭い一馬のパイプベッドは、ぎゅい、と鳴いた。

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