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The Circus 本編1<レイト>

 まだ灯りの点されていないクノの部屋には、夕闇が入りこみ、あらゆるものの形を曖昧に描いていた。

 南向きの窓を背にしてソファに座っていたクノは、深い息を吐いて、目の前に立つ女を仰ぎ見た。

 鈴音は、体にぴったりと添う、淡い色のカクテルドレスを身に着けていた。陰った夕陽の具合で、肌と一体化して、瞬間、素裸のようにも見える。その腹に、新しい命を宿しているのだと、彼女はたった今、クノに伝えたのだ。

 子供を産みたいと。

 クノは、長い逡巡の末に、それを許した。彼の経営する移動娼館『ザ・サーカス』の一番人気が母親になることを、父親の分からぬ新しい命の誕生を、そして、自分が父親である可能性がゼロではない子供の生を、許したのだった。

「あと1年もしないうちに、零からの人間が、ここにひとり増えるのか……」クノは全く実感のわかぬままに呟いた。

「ゼロからのニンゲン、って、変な言葉」鈴音は笑った。さりげなく腹を撫でて「あなたのことよ、零からの人間、って。おもしろいわね」と語りかける。クノはその様子を、これもさりげなく視線で追った。

「クノくんのそういうセンス、あたし好きよ。本名がユウジーンだからって源氏名も『優臣』にしちゃうとか、出会ったときに鈴の音をさせてたから『鈴音』だとか。クノくんって見た目気難しそうだから、そういう単純なことすると、変におもしろいのよね」

「俺が本当に気難しかったら、初対面の大人にコーラのボトル投げつけてくるような子供娼婦を雇いはしなかったろうよ」

「それもそうか」

 鈴音が笑うと、小さな鈴の粒が葡萄のようにたっぷりとぶら下がった彼女のピアスも揺れて、ちりりちりりと愛らしい音が振りまかれた。

「ねぇ、クノくん」呼びかけて、クノの視線を自分へと惹き付けておいてから、鈴音はドレスの裾を翻し、扉の方へと足を踏み出した。

 ねぇ、クノくん。

 ねぇ、お願い。

 そこからはじまる鈴音のおねだりを、クノは叶えずにはいられない。そのことを、鈴音は誰よりよく分かっているはずだ。

 ドアノブに手をかけて、鈴音はクノを振り返った。二人は真顔で視線を通わせた。世界の終わりか、古い果物の缶詰の内側のような、とろりと腐蝕しかけたムードが部屋を浸していた。

「生まれてくる子供の、お父さんになってほしいの」

 そう言って、鈴音は臍の上に手を置いた。ぺちゃんこの腹をいくら見たって、零からはじまる生命の息吹など、露ほども感じることはできない。

「子供を俺の戸籍に入れろって意味か」

「そういうんじゃなくて……、でもそうなったらこの子、将来は男爵様? それは素敵だけど……」

「俺は末っ子で家も出てる。爵位なんか回ってくるか」

「あら、残念。なぁんてね。嘘よ。そんなのはどうでもいいの。子供の世話だってしてくれなくても構わない。クノくんのこと、『お父さん』なんて呼ばせたりもしないわ」

「意味が分からん。おまえが思ってる父親っていうのは、いったいどういう生きものだ」

「生きものって、」繰り返してしばらく笑ってから、鈴音は静かな瞳でクノを見つめた。

「例えば、この子が将来、正団員になりたがったとしたら、……それまで家族みたいにして暮らしてきた仲間と、セックスしたり、そうじゃなくてもライバル関係になっちゃう。家族が、いきなり消えるの。だから、せめてクノくんだけは、ずっと、その子のお父さんでいてあげて。この世にある愛の全てが、性欲込みの愛なんかじゃないんだって、忘れないように」

「おまえの言いたいことは分かった。けどな、それ以前の問題だ。移動娼館で生まれたから娼妓になるだなんて、おまえの子が、そんなすんなり育つもんか」

「どうかしら。あたしの子だからこそ、かもよ。ザ・サーカスのスター《鈴音》の、父親かもしれない男が両手両足の指でもたりないようなこのあたしの、子供だもの。あたしにそっくりの女の子なんて生まれたら、クノくん、上手くコントロールできる自信ある?」

「おまえが2人もいたら、俺は破滅する」クノは言い切った。鈴の音がまたにぎやかに聞こえだす。

「わがままを許してくれてありがとう、クノくん。あなたは彼の命の恩人にしてお父さん。この子、一生クノくんに頭上がらないわね」

 クノは愕いて、部屋から出ていこうとする鈴音の背中を凝視した。

「彼?」

「え?」しゃん、と強い音を響かせて、鈴音の顔がクノを振り向く。

「今、『彼』って言ったぞ、子供のこと」

「ほんと? 無意識だったわ。きっと、男の子なのね」零からの男の子。ふふ。どんな名前が素敵かしら。浮き浮きと呟きながら鈴音は部屋を出て行く。

 クノはソファに座ったまま、鈴音が出て行ったばかりの扉を、ぼんやりと眺めていた。

「男なら……、零人。零からの人間で、レイトだ。……そのまんまだな」

 クノならばきっとこんな名付けをするだろうと、鈴音でなくとも言い当てられそうなほど、少しも捻りのない名前しかクノの頭には浮かばない。鈴音が今夜の客のために選んだ香りがまだ残る、あっという間に闇になじんだ部屋の中に、かすかな自嘲の笑い声が響いた。

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