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The Circus 本編1<レイト>

 移動娼館『ザ・サーカス』の団員用食堂が最も賑わうのは、午後1時から2時頃だ。午前中に泊まり客を送り出した正団員たちが、その日最初の食事をくいに集まってくるのがちょうどその頃で、彼らより早く昼食をとりはじめていた準団員たちも、この時間帯にはまだ残って休憩をとっている者もいる。

 今日も、午後2時前の食堂は、ほどよい混み具合だった。南向きにたくさんとられた窓はどれも、うっすらと白く曇っている。淡いベール越しの12月の空は、今にも雪が降ってきそうな、冷たい灰色の雲で埋め尽くされていた。そのせいか、3つある窓際のテーブル席は、今日はひとつしか埋まっていない。ほとんどの団員たちは、食堂の中央に設えてある、軍艦のような巨大なテーブルの、思い思いの場所に座ってくつろいでいた。すでに食事を終えて、食後のお茶やデザートを楽しんでいるのがほとんどだ。

 少し手が空いたレイトは、厨房の冷蔵庫に背中をくっつけて、対面式の流しの向こうに見える食堂の様子を、見るともなく眺めていた。団員たちのお喋りや笑い声、それに、テレビから聞こえるろくでもないソープオペラの次回予告が、何となく絡み合った一つの音楽となって、レイトの周りを緩く取り巻く。ぷくりと湧いてきたあくびを、彼は奥歯ですり潰した。

 油の爆ぜる大きな音がしはじめて、レイトの眠気は、一瞬で掻き消えた。斜め前に立っているコックの和(かず)が、大鍋に熱したラードの中に、溶き卵を流し入れたところだった。彼女が杓子で鍋底を混ぜると、卵はあっという間に、ぶわっと膨らむ。レイトは目を輝かせた。調理をしているときの和は、てきぱきと動きながら、いくつもの魔法を見せてくれる。彼が、頼まれなくとも今日のように調理場の手伝いをしていることが多いのは、そのわくわくする魔法を見たいがためでもあった。

 和がチャーハンを作っている同じ六つ口コンロの、火力の弱い奥のバーナーの上では、ミネストローネスープの大鍋ときくらげのスープの入った小鍋がそれぞれ温められていた。立ちのぼる湯気は、頭上で唸りを上げる大型の換気扇に一直線に吸い込まれてゆく。

「レイちゃん、チャーハンすぐ上がるから、クノさんたちの席のぶん、注文確認してお出ししてね」

「はぁい」レイトは、食器棚からスープ皿を取り出しながら、「鶏の香草焼きとふかしたじゃがいもとミネストローネスープがクノさんで、静兄はトマトとバジルのサラダと温野菜5種盛りと少し冷ましたほうれん草とかぼちゃのポタージュ、それでエーシがお任せサラダの玉葱抜きときくらげのスープ、卵チャーハン特盛り!」とさっき自分で取ってきた注文を、空ですらすらと唱えた。流れるような動きで、スープを注ぎ、じゃがいもを皿に盛り付けて、バターを小皿に用意する。

「パーフェクト! さすがレイちゃん」和は、手際よくチャーハンを皿に盛り付けてから、自分とほとんど変わらない背丈のレイトの頭を、小さな子供にするような調子で撫でた。思春期の少年なら、照れるか嫌がりそうな褒め方だったが、当のレイトはちっとも嫌そうではなく、眩しげに目を細めて笑っている。

 レイトは、料理の皿を載せた盆を両手に持って、厨房から一番遠い席に向かった。窓際の、日当たりのいい、4人掛けテーブル席。そこは、団長のクノの指定席だ。

「静兄(しずにい)、お待たせー。クノさん、ごはんできたよ、起きて!」レイトは、運んできた皿をテーブルの上に並べながら、合間に、窓に寄りかかって居眠りをしているクノの肩を揺らした。どこでだって一瞬で寝られるのが、レイトの知っている中で最も鮮やかな、クノの特技である。

「ありがとう、レイト」クノの斜向かいに座っている静日が、彫像のように整った美貌で微笑んだ。下ろしていた長い灰茶色の巻き毛を、後ろでさっと1つに括る。レイトは、その動作を真似るように自分の手を持ち上げたが、襟足の髪が全然足りないことに途中で気づいて、やり場のなくなった手で、後頸を掻いた。

「おまえ、もう飯食ったのか」目を開けたばかりのクノが、今の今まで眠っていたとは思えない、滑らかな口調で、レイトに訊いた。

「たっ、食べたよ。静兄のとおんなじようなやつ」レイトは、慌てて頸の後ろの手を下ろす。静日の皿に野菜しか載っていないのを確認したクノは、すぐに自分の鶏肉を一口大に切って、フォークで突き刺し、レイトの前に持っていった。「静日に憧れんのは勝手だけどな、こいつが食わなくていいのはもう大人だからだ。おまえはまだガキなんだから、肉はちゃんと食え。でっかくなれねぇぞ」

 レイトは、目前の鶏肉を見つめて、そこに食いつくのを少し躊躇った。和に頭を撫でられたりするのは平気なのに、レイトは最近、こんな風にクノに子供扱いをされることが、気になって仕方がない。それは「恥ずかしい」とも「嫌」とも「嬉しい」とも少しずつ違っていて、自分でもその気持ちの正体がわからなくてイライラしてしまうような、とにかくレイトにとっては、まだ、未知の気持ちだった。

 気が乗らないままクノを上目に窺うと、フォークを上下に揺らして、早く食べろと促してくる。レイトはしょうがなく、口を大きく開けて肉に食いついた。クノの向かいの席から餌付けの様子を眺めていた、団長補佐の嬰矢が、「こいつむしろ、でっかくなり過ぎだと思いますけど」と苦笑する。彼の隣で静日も、「同い年の子たちと並んだら、レイトだけ、頭一つか二つくらいは飛び出しちゃうでしょうね」と同意した。

 背が高いだけでなく、レイトはもう、声変わりも終えようとしている。骨が伸び、しなやかな筋肉が付きはじめた体つきを見ても、彼がもうじきやっと10歳になる少年だとは、誰も思わないだろう。この、戸籍上の、彼の父親以外は。

 クノは、団員たちの言葉にも「そうか?」と首を傾げるだけで、今度は蒸した小振りのじゃがいもを丸ごと1個、レイトの前に差し出した。

「つうかレイト、俺のメシは?」嬰矢の指摘に、じゃがいもをひとくちで頬張ったレイトは、「んん!」と口を開けずに叫んで、厨房に取って返した。まだ口をもぐもぐさせながら、嬰矢の分の皿を持ってくる。

「おまえはどうしていつも迷いなく俺の分を後回しにしちゃうわけ」眉を情けない角度にして不平を言う嬰矢に、レイトは口の中のじゃがいもを嬰矢の飲みかけのお茶で流しこんでから、「だって、クノさんは団長で、静兄はスターだよ。エーシは静兄より稼いでるの?」と言い放った。

「1本取られたな、嬰矢」クノが机をひとつ叩いて笑う。レイトと静日も、目を合わせてくすくす笑った。フンと鼻を鳴らして、やさぐれた態度で卵チャーハンをかきこんだ嬰矢は、その一口めで目を丸くし、「和、これ最高!」と厨房を振り返る。うふふ、よかった。「うふふ」と書いてあるのをそのまま読み上げたような、特徴的な和の笑い声が返ってくる。

 空いているクノの左隣の席に腰掛けたレイトは、厨房の和から、正面の静日に視線を移すと、ちょっと身を乗り出して、声を低くした。「ねぇ静兄、静兄が和ちゃんにあげた指輪って、和ちゃんの魔法を吸い取っちゃうの?」

 サラダを口に運んでいた静日は、レイトの唐突な質問に困ったように笑んで、野菜を飲み込んでから、口を開いた。「和の魔法を、ぼくの指輪が吸い取る?」

「そう。和ちゃん、いつもは『おっとりさん』なのに、料理してるときはかっこいい魔法使いみたいになるでしょ。そんで、厨房に入るときは、静兄があげたオパールの指輪、絶対外してるんだよ。だから、」

「ああ、」静日は頷くと、まるで和のように、ふふ、と声にして笑った。「そうかもね。あの指輪には、ぼくのまじないがかかってるから」

「やっぱり! どんなおまじない?」

「ここで言うのは恥ずかしいなぁ」静日は、隣でにやにやしている嬰矢の方をちらりと見遣ってから、「今度、レイトとふたりっきりのときに教えるよ」と、口もとに手を添えて囁いた。

「ほんと? じゃあ約束!」そう言ってレイトは、人さし指と小指を立て、残りの三本の指先をくっつけた、キツネの形を右手でつくった。腕を伸ばして、同じ形の、少し大きな静日のキツネとキスをする。

「いいよなぁ和は、三十路目前のくせに、ハタチの超絶美形に婚約指輪なんて贈ってもらえて」嬰矢はサラダのレタスを、草食動物のようにむしゃむしゃやりながら呟いた。

「和ちゃんはだって、キレイだし優しいし料理も上手だしかわいいし、パーフェクトだもん。おっさんのエーシとは全然違うよ」

「おっさんだとぉ、俺がおっさんならクノさんなんかおじいさ」静日の手が、テーブルの下で嬰矢の膝をつつく。ただでさえ迫力のあるクノの黄緑の瞳が、つくり笑いの底で自分を見据えていることを、嬰矢は目の端で確認し、慌てて咳払いをした。

「あーあー、俺もリッチな若い美男子から求婚されてみてぇなぁ!」わざとらしい大声で、直前に言いかけたせりふをなかったことにする。

「それならまず、そういう美男子に見合う自分にならなきゃダメだよ。頑張って静兄からスターの座を奪うくらいにならないと」

「あのね、レイトくん。今じゃ年くっちまって昔みたいにはいきませんけれどね、俺だって元スターなんでございますよぉ」嬰矢は、「このこまっしゃくれめ」などとブツブツ言いながら湯のみに手を伸ばしたが、中身はさっきレイトが飲み干して空だ。文句を言われる前に、レイトは急いで、卓上の保温ポットから新しいお茶を注いでやった。

「でも、エーシがスターだったのは、おれが生まれたばっかの頃じゃないの? そんな昔のこと知らないよ」

「昔じゃねぇんだよ十年前なんて、一昨日くらいのもんだろ……」

 そこへクノが、微妙に今さらのタイミングで、「俺だって元スターだ」と乗っかってきた。軽く咽せてしまった嬰矢が、ケホケホいいながら「えぇ?」と声をあげたところに、今度は静日が、「ぼくだって、いつかは元スターです」と真面目な顔で重ねてくる。

「何の話か知らないけど、あたしだって元スターよ!」部屋の真ん中の軍艦テーブル席で、テレビの芸能ゴシップにかじりついていたピンクのツインテールが、手を挙げて窓際の席を振り返った。

 彼女、イチカがスターだった頃というのは、朧げながらレイトにも記憶がある。それにイチカは今でも静日と売上1位を競っているくらいだから、元スターだという話を持ち出しても「知ったことではない」ことはない、とレイトは内心で格付けをして、ひとり頷いた。

「そういえば、もう1人の元スターは今日は来てないの?」イチカは長い付け睫毛のついた目で室内を見渡して、誰にともなく訊ねている。

「スイなら、昼前に食べにきてたわよ。今日は入りが早いからって」和が厨房から顔を出して返事をした。

「あっ!」レイトは大声をして立ち上がるなり、開け放たれた出入り口の方へと駆け出した。嬰矢がその背中に行き先を訊ねると、「ロビーの掃除当番!」と返事が来る。

「もう?」

「今日は15時にスイの上得意さん、17時には静兄のお得意さんも来るから、今の内にやっとかないと」

 顔だけ後ろに振り向けてそう言うと、じいっと自分を見つめている視線に気付いて、レイトは、足を止めた。離れて見ても、クノの瞳の黄緑色は鮮やかで、発光しているかのようだ。《毒蛇》というクノの異名を強く思い起こさせる、印象深い目だ。

「な、なに、クノさん」

「外には絶対にひとりで出るなよ」

「……わかってるよ!」

 また子供扱いだ。レイトは赤くなった頬を膨らませて、食堂を走り出て行った。

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