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The Circus 本編1<レイト>

 翌日、レイトはさっそくスイから、部屋へ招かれた。昼の食堂の手伝いを済ませてから、5階のスイの部屋へ向かう。扉をノックすると、内側からすぐににやけ面が出てきて、レイトを迎え入れた。

 厚いカーテンに外の陽を遮られた室内は、まだ午後3時だというのに、闇の中にあった。明かりと言えば、ノート型パソコンの液晶画面が、テーブルの上で四角く光っているのみだ。レイトはスイに手を引かれて、その前のソファに並んで座った。

「摘むもんあるから好きに食ってな」テーブルの端には、駄菓子の袋がたくさん載っている。そのどれもが甘くないスナック菓子であることに、レイトは密かに安堵した。昨日の一件のせいで、正直、甘いものはあまり見たい気分ではなかった。

 スイがマウスを操作すると、パソコンの画面一杯にスクリーンが広がり、そこへ前振りも何もなく、いきなりフェラチオをしている女の横顔が大映しになった。無修正だ。レイトは、菓子の袋に伸ばしかけた手をぎくりと止めた。

「……ス、スイが好きそうな顔の人だね」黙っていたら間が持たないような気になって、レイトは思いつくままにそんなことを口にした。仁王立ちになった男の股間に埋められた女優の横顔は、鼻梁が高くて、睫毛も濃い。目を閉じても、二重の線が瞼に残っていた。

「そうなんだよ。この子、笑顔がいいんだ」

「ふうん……」どんな顔をして観ればいいのかわからず、レイトはソファの上に膝を抱えて腕を組み、そこに鼻から下を埋めた。女優の顔が前後に激しく動きはじめると、それを補助するように、男優の手が女優の頬にかかった。濡れた音と、苦しそうな息づかいが部屋を満たして、レイトの方が息をしずらいような気になってくる。

「ねぇ、スイ、……教えてくれるって、」居心地の悪さに耐えきれずに、レイトはまた口を開いた。

「オナニーを?」スイはにやにやして言った。

「……っ、バカじゃないの! おれが外に出ちゃいけない理由とかのこと! 昨日教えてくれるって言ってたでしょ!」耳とほっぺたがカッと熱くなる。部屋が暗くてよかった。隣を窺うと、スイは画面に目を遣ったままで、「あー」とか「うーん」とかそう深刻でもなさそうな調子で唸っていた。話の出だしの言葉を選んでいるようだ。

「旧ミルミナン地区って、知ってる?」とスイは切り出した。

「聞いた事ある、けど」

「ここからもっと東の、国境……ていうか、軍事境界線ギリギリのとこにある町のことなんだけど、そこに『ラーテル』っていう、クノを潰したがってるギャングがいるんだ」

「クノさんを、嫌いな人が、いるの……?」レイトは信じられない思いで聞き返した。クノが嫌われるなんてことがあるとは思わなかったのだ。ザ・サーカスの中では、クノは当たり前に団員全員に慕われ、敬われている。クノの居ないザ・サーカスなど、想像もできない。

 しかしスイは、そんなのは当たり前だというような顔で、頷いた。「そういうもんなんだよ。世界は広い……あ、」

 スイの「あ」につられて画面に目を戻すと、女優の口から、だらだらと凝りのある液体が溢れてくるところだった。透け透けの下着を身に着けた小振りの胸やふとももにも、それは滴りかかる。レイトは思わず渋い顔をしたが、女優はそのとき、とても魅力的な笑顔を画面の外の男優に向けた。眉がちょっとだけハの字になって、口角がキュートに上がり、えくぼができる。

「……かわいい」レイトの呟きに、スイも満面の笑みになった。「な、いいよな。すげーかわいい」

「きゅんってした」

「おまえも男だなぁ。ティッシュいるか?」

 レイトはわざと大きい音をたててチップスの袋を開け、油でべたべたにした手をスイに翳して見せてから、「いる」と威張って言った。スイは笑って、ティッシュの箱をレイトに渡す。手を拭いているうちに場面は切り替わって、ベッドの上に横たわった女優の体を、男優がまさぐりはじめていた。

 レイトはいかがわしい映像から自分の揃えた膝小僧へ目を移して、スイの言ったことを、頭の中でもう一度反芻した。この街の近くに、クノを潰そうとしている人たちがいる。昨日の、あのとんでもなくきれいな人も、クノのことが嫌いで、それで自分に近づいてきたのだとしたら。

「おれが外に出ちゃいけなかったのは、おれがクノさんの子供ってことになってるから……なの?」スイの「うん」という返事と、「うぅん」という女優の喘ぎが、同時に聞こえた。ちらりと画面を見ると、女優の広げられた股間がアップで映されていて、太い指が割れ目を擦っていた。慌てて膝小僧に視線を戻す。

「おれが、クノさんの子供だから……、毒のチョコレートで殺されそうになったんだ……」

「いいや、それは逆だ。おまえはクノの息子だから、助かった」

 スイはレイトの顔を見て、きっぱりと否定した。

「どうして?」

「ラーテルは、クノの夢を本気で潰したがってる。だからこそ、おまえを殺して、わざわざクノの逆鱗に触れるような真似はしないんだ」

「げきりん?」

「えーとなぁ……、例えば、例えばだぞ。昨日の白い美人に、おまえがもしも殺されてたとしたら、クノはその美人も美人のボスも、ラーテルって組織ごと、昨日のうちに木っ端微塵にしてるはずだ、ってこと。本気で怒ったクノに勝てる奴なんて、今のこの世にいやしないからな」

 レイトは、昨日公園で会った恐ろしく美しい人のことを思い返した。レイトはあの人に、どちらかというと好意を感じていた。変ないじわるを言ったりして、面白い人だったから、もっと話をしてみたいとも思った。けれど、あの人はクノを潰そうとしていて、レイトのことも、きっと、嫌いだったのだ。そう思うと、お腹が空洞になったような、薄ら寒い感じがしてくる。レイトは、そんな風に昨日の出来事を気にしていることを、スイに悟られたくなくて、逆に、思い出すのもぞっとするあの美人のことを、自分から訊ねていた。

「……あの人……、エーシは、『フィル』って言ってたけど、」

「フィルっていうのは、おまえが会った美人の、ボスのことだよ。つまり、クノをやっつけるために、『ラーテル』ってギャングを創った人間だ。フィル・トップセル。昔、少しの間だけ、うちの正団員だった」

「え……っ」

「俺が入団したときにはもういなかったから、どんな奴かは俺も知らない」

 あーあーあー、と、泣き出しそうな女の大声が響いて、レイトとスイは同時に画面に目を遣った。女優はあそこを3本の太い指で掻き回されて、シーツを必死で掴んでよがっていた。それをまともに目に入れてしまうと、さすがに下腹部にずんと疼きがきたが、レイトはまた視線を逸らしてその感覚をごまかした。

「なんで、仲間だったのに、クノさんを嫌いになったんだろう」

「さぁな。ただ、クノが、路上の子供を保護して自立させるまでの仕組みを、この店で稼いだ金を使ってつくりあげようとしてるのが気に食わないらしい、ってのは、聞いた事があるけど」

 レイトには、スイが言ったことの意味を、完全に理解することはできなかった。それでも、クノが子供を助けるという良いことをしようとしていて、フィルという人間はそれが気に食わなくて、だからクノを潰そうとしている、という大雑把な流れはわかる。わかったと思ったのだが、わからないことはもっと増えた。だいたい、どうして、良いことが気に食わないんだろう。そんなことってあるんだろうか。でも、実際に、それはあるのだ。あるからこそ、レイトは狙われた。

「…………クノさん、おれのこと、好きかな」

「当たり前だろ」

 スイは笑うが、レイトは笑えなかった。レイトもそれを、今までは当たり前だと思っていたのだ。レイトが、クノやスイや、団員みんなのことを好きなように、自分も彼らから好かれている。自分が嫌われるわけがない。当たり前に、そう思うまでもなく、それがこれまでのレイトの、当たり前の現実だった。

 けれど、この世にはクノを嫌いな人がいる。良いことをするのが気に食わない人もいる。知ったばかりのその現実が、レイトを不安にさせた。

 団員全員に慕われ、良いことをしているクノでさえ、誰かに嫌われているのだ。それなら自分は、もっとたくさんの人に嫌われていることだろう。もしかしたら、その良いことでさえ、誰かにとったら、悪いことなのかもしれない。その思いつきは、眠れない夜にふとんの中で、自分もいつか死ぬんだ、死ぬってなんだろう、と考えるときのような、真っ暗な宇宙にひとりきりで浮かんでいるみたいな、果てしない恐さに通じていた。

 気がかりなことはまだある。昨日、クノは、公園から戻ってきたレイトを、叱らなかった。鳩を殺した犯人について以外、何も訊いてこなかった。今日の昼も、改めて団員みんなに昨日の事を謝るために、レイトは早くから食堂の手伝いをしていたけれど、クノだけは姿を現さなかった。用事ができてしばらく戻って来られないのだと嬰矢は言っていたが、一緒に出て行った嬰矢は帰ってきていて、クノだけが長く帰らないというのは、これまでにあまりなかったことだ。

「クノさん、おれを嫌いになったから、出て行ったんじゃないよね……?」

「そんなわけねぇだろ。用事が片付いたらすぐ帰ってくるよ」不安に俯いたレイトの頭をくしゃくしゃに混ぜて、スイは言った。それから、少し難しい顔になって、レイトを覗き込む。「なぁ、それよりおまえ、こういうの観るの、初めてじゃないな?」

 何しろ、画面に映っているのは、完全無修正のアダルトフィルムだ。もしこれが初めてだったら、いくら真面目な話をしていたとしても、もっと映像の方に気が行ってしまうだろう。自分ならそうなると、スイは思った。けれど、レイトの様子は、もちろんまったく興味がなさそうなわけではなかったが、どこか冷静に見えた。慣れている、もしくは、知っている、という感じがする。

「うん、ううん、」レイトは視線を泳がせた。

「どっちだよ」スイは薄く笑って、レイトの視線を捉えようとする。

「その、こういうの、……映像は、見るの、初めてだけど……、おれ、知ってたよ。皆のしてる仕事が、こういうことだって」小声で言ってから、レイトはチップスをどんどん食べた。スイの表情が、冬の三日月より鋭くなる。

「誰かに聞いたのか。それとも覗き見か? 怒らないから、正直に言いな」

 レイトは、大きく見えてもまだ9歳だ。この店の仕事内容については、誰もまだ詳しくは教えていないはずだった。移動娼館という特殊な場所で育つ子供だからこそ、その特殊さをふつうに受け入れてしまわないように、これまでは、直接的なことを教えるのは避けてきたのだ。

「レイト、ちゃんと言え。どうやって知った?」

「…………静兄、の……しごとを……見て……」

 スイの迫力に圧されて、レイトはそう白状した。ソファから腰を上げたスイは、流れ続ける映像を止めもせずに、レイトを残して部屋を出て行った。

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