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The Circus 本編1<レイト>

 レイトは1人残されたスイの部屋で、膝をぎゅっと抱きかかえて、アダルトフィルムの続きに見入っていた。画面の中では、赤黒くたちあがったペニスが、仰向けに大きく開脚した女優の中に、入ったり出たりを繰り返している。女の人の場合は、違うところに入れることが多いのだと、静日が昔言っていたことを、レイトはその映像を見て思い出した。こういうことだったのかと、瞬きを忘れた瞳で画面を見つめる。

 そのうち、目の前の映像の上に、レイトの記憶の中にある光景が重なりはじめた。柔らかな女優の細い体は、しなやかで若い男の裸体に上書きされ、甲高い喘ぎ声も、甘く掠れた青年の声に変わってゆく。膨らんだ客のペニスが、静日のお尻の穴に吸い込まれて、出てくる。客は唸り声をあげながら、その動きを延々繰り返し、粘った泡が繋ぎ目からこぼれた。レイトの知らない、上擦った声をあげる静日は、客の動きに合わせて腰をうねらせていた。

 膝を抱えていた腕を解いて、レイトはソファから両足を下ろした。その付け根に手を動かしかけたところで、ここがスイの部屋であることを思い出して、手を止め、ひとりで顔を真っ赤にした。少し反応している前を隠すために、大きなポップコーンの袋を抱えて、部屋を出る。誰かに会っても怪しまれないように、澄ました顔をつくって、自分の部屋まで早足に戻った。

 扉に鍵をかけて、カーテンを閉める。ふとんに包まったレイトが反芻したのは、さっきまで見ていた映像によってなまなましさの甦った、1年前の、静日のセックスだった。

 あの日、クローゼットの中に隠されたレイトは、扉の羽根板の隙間から、静日の仕事を見つめていた。最初に、静日は客の前で、自分だけ服を脱いで裸になった。レイトはわけもわからず、体の奥の方から熱があがってゆくような感じに襲われ、身震いした。

 ベッドの上にのぼった静日が、さっきの女優がしたよりずっといやらしく、丁寧に、客の体をなめつくしていたことを思い出しながら、レイトは、自分の体に指をすべらせた。脣、顎、首筋、鎖骨のくぼみ。静日が客の体を舐めた順番に、下っていく。客の、濃い毛の生えた鳩尾や腹や太腿も、静日はじっくりと舐めた。静日のピンク色の舌が、もじゃもじゃした毛を掻き分けてすべる、その様子に、クローゼットの中のレイトの心拍数は、跳ね上がった。口の上に両手を重ねて、息を殺した。こめかみから伝った汗が、その手を濡らしたときの感触を、とても淫靡なものとして覚えている。

 客は静日を揺さぶりながら、いやらしい言葉を言うように静日に何度も命令した。静日はそのたびに身悶えて、最後には泣いて、許しを乞うた。すると客は、あやすように静日を抱きかかえて膝の上に乗せた。静日は嬉しそうに客に縋り付いて、長い髪を振り乱して腰を振り、少し前まで泣いて嫌がっていたはずの卑猥な言葉たちを、自分から叫んだ。

 静日の部屋のクローゼットの中で、レイトの体は、それまでには何となくしかわかっていなかった性的な快感というものを、はっきりと、初めて、掴んだのだった。それらのことを思い返しながら体を撫でていると、頭がだんだん働かなくなってきて、ふとんの中でレイトは、ジーンズをずり下げ、自分のものを擦りはじめた。こうなると、我慢がきかない。後で嫌な気持ちになるとわかっていても、この瞬間が気持ちいいのには勝てないのだ。

 目を瞑って、自分を慰めながら反芻する、映像と記憶の入り混じったレイトの妄想の中で、いつしか静日は、レイト自身に入れ替わっていた。相手の体を舐めているのも、揺さぶられているのも、いやらしいせりふを強要されて泣かされているのも、自分。そう思うと、体がじんじんと痺れてくる。大人の男のてのひらが、熱くなったレイトの体をまさぐる。耳もとに吹き込まれるみだらな睦言に身悶え、そうして、張りつめた太いもので貫かれる。レイトはその妄想の中で極まり、自分の手を、薄い精液で汚した。

 ふとんの中で、押し寄せてくるきつい倦怠感に微睡みかけていたレイトの体が、やにわに、びくりと痙攣した。飛び上がるようにベッドの上に体を起こす。掛け布団がベッドからずり落ちた。レイトは、汚れた自分のてのひらを、見開いた目に映した。そこから、ナイトテーブルの上の写真立てに、こわごわと視線を向ける。半開きの脣が震えた。瞳が涙に満たされて、今にもこぼれ落ちそうになる。レイトは急いで写真立てを倒して、眩しそうに笑う若い女の視線を掻き消した。

 初めて自慰をしたのは、静日の仕事を見たその日だった。初めて自慰によって達したのは、この夏のことだった。静日を自分に置き換えるみだらな妄想も、終わった後にやってくる、もやもやとした空しさや罪悪感も、初めてじゃない。レイトはもう、人に言えない秘密の味を知っている。けれども、今日ほど、自分を罪深く思ったことはなかった。溢れた涙がてのひらに落ちて、罪の雫と混ざる。レイトはそれを剥き出しのふとももになすり付けながら、歯を食いしばって、泣いた。

 妄想の中で、レイトの体をさすっていた右手の人さし指には、ほくろがあった。耳もとでいやらしいせりふを囁いたのも、レイトのよく知っている、波音のように力強く柔らかな、あの声だった。レイトは頭の中で、静日を自分に重ねたばかりでなく、静日の客を、クノに置き換えていたのだ。クノに抱かれている妄想をしながら、射精した。

 これが、いけないことでないわけがない。

 例え血の繋がった親子じゃなくても、「お父さん」と呼んだこともなければ、父だと思ったことがない相手だとしても、戸籍上では、クノはレイトの父親だ。それに、クノがレイトを育ててくれた大人の中の一人であることにも、違いはない。

 どうしよう。どうして、おれはこんな恐ろしいことをしてしまったんだろう。レイトはふたたびふとんを引き上げ、真っ暗闇に潜って、どうしようもなく、ただ、泣いた。


     ★


 あのまま、眠ってしまったらしい。レイトが目を覚ましたのは、夜中の3時を過ぎた頃だった。喉がとても渇いていた。食堂に行こうとベッドから下ろした足が、何かを踏んづけて、パン、と大きな音が鳴る。

「わぁっ!」

 びっくりして、レイトは足をよろめかせ、ベッドに尻餅をついた。まだドキドキしている胸に両手をあてて、一呼吸置いてから、レイトは、ベッドサイドの灯りを点けた。スイの部屋から持ってきた、ポップコーンの大きな袋が破れて、中身が床に飛び散っている。これを踏みつけてしまったようだ。声を出して、レイトは少し笑った。

 片付けてから、部屋の扉を開けようとすると、扉の下の隙間に、メモが挟まっていた。開いてみると、スイからのメッセージで、話は静日から聞いたということと、レイトが真剣に悩んでいたときに手助けができなかったことを詫びる言葉が綴られていた。そういう真面目な手紙を貰ったのは、スイからでなくても、初めてのことだった。

 レイトは、自分が一人前に少し近づいたような、くすぐったい気分を覚えて、それを大事にナイトテーブルの抽き出しにしまった。さっき倒した写真立てが目に入る。レイトはそれを元に戻さずに、部屋を後にした。


     ★


 食堂の明かりは消されていたが、廊下に点った電灯のおかげで大体のものの形は判別できる。レイトはそのまま薄暗い厨房に入って、冷蔵庫からりんごジュースの壜を取り出した。自分用のマグカップになみなみと注いで、その場で立ったまま一気に飲む。甘さと冷たさが喉から胃に落ちて、気持ちよかった。2杯目に口をつけたところで、廊下をこちらに向かってくる足音が聞こえた。レイトは、冷蔵庫の前にしゃがんで、息を殺した。こんな夜中に起きているところを見つかったら、きっと叱られてしまう。

 ひたひたと、2つの足音が食堂の中に入ってきた。足音と一緒に、鼻をすする声も聞こえる。

「何か飲み物でも持ってこようか」

 イチカの声だった。レイトは身を強ばらせたが、もうひとりの人物が要らないと伝えたらしく、厨房に人が入ってくる様子はなかった。小さく息をつく。2人とも、どこかの席に座ったようだ。椅子を引く音がした。

「ごめ、なさ……」もうひとつの声も、女の人のようだった。だが、泣いているらしく、か細い鼻声になっていて、レイトには誰の声かまだ判断できなかった。

「いいのよ。ほら、だいじょうぶだから、もう泣かないの。いい子ね」

「やだ、も、……ママみたい。うふふ。イチカの方が年下なのにね」

 うふふ、と、そのまま発音する特徴的な笑い方をするのは、和だ。和が泣いていて、イチカがそれを慰めている。レイトのマグカップを握る手には、知らず、力がこもった。

「お酒くさいわ。飲んできたの?」イチカが言った。

「少しだけ。途中まで嬰矢と飲んでたんだけど、あの人ったらね、おっきな図体で、ボロボロ子供みたいに泣きだしちゃって。ずーっと泣きながら無言で唐揚げばっかり食べてるのよ。変に人目を集めちゃうし、置いてきちゃった」イチカと和はふたりでくすくす笑った。

「でも、よかったわ。泣いて発散してるんなら。マーさんが亡くなってからずっと、嬰矢、何だか元気なかったものね」

 えっ、と、レイトは声をあげそうになった。いつでも機嫌良さそうに、にこにこしている和が、泣いているというだけでも愕きなのに、嬰矢に元気がなかっただなんて、少しも気づかなかった。

「お昼も、脂っこいものばかり注文してきたりしてね。昔からああなのよ。普段は体を鍛えてるから、人一倍食べ物に気を遣ってるくせに、落ち込んだりすると油ものどか食いするの。それで後になって、そのことを後悔してまた落ち込むのよ」

「バッカねぇ。でも、バカやらないと、やってられないんでしょうね」

「ええ……。嬰矢、マーさんのこと、本当に大好きだったもの……」

「それであんたは、そのバカからもらい泣きしちゃったわけ?」

「うふふ、そうね。あたしも、マーさんにはお世話になったから。色々、思い出したり……考えちゃって」

「そうだったの?」

「あの方に、『君には無理だから諦めなさい』って言われて……、それであたし、正団員になるの、諦めたのよ」

「そう……。そう、だったの……」

「入団のときに、クノさんからも言われてたんだけどね。どれだけ努力しても、正団員としてのデビューは99.9%無理だ。それは覚悟しておけ、って。あたし、だけど、2年近くも、その0.1%に縋りついちゃって……クノさんも、手を尽くしてくれて、マーさんのことも紹介してくれたんだけど……、やっぱり、駄目だった。当たり前よね、こんな体だもの。でも、当時は、そんな風には思えなかったわ。正団員になれなかったのが、悔しくて、悲しくて、……死んじゃおうかとも思った」

 和に、そんな時代があったなんて、レイトは、思いもよらなかった。冷たい厨房の床に座った尻はみるみる内に冷えてきていたが、レイトはそれに気付きもせずに、息をつめて耳をそばだて続けた。

「……あたし、そういう気持ちをずっと、忘れてた。コックとしてここに居場所をもらえて、皆も普通にそれを受け入れてくれたから、もういいやって思えたの。こんな体なのはあたしのせいじゃないし、正団員じゃなくてもやれることはあるんだから、って。……でも、静日を好きになってから……、何か、何て言うか……、こわくって。いつか静日にも、無理だって言われるんじゃないか、とか……ううん、それより、変な責任を感じさせて、あの子の人生縛っちゃったら嫌だな、とかね。そういうこと考えだしたら、見習いの頃よりずっと、この体が情けなくなって、悲しくて…………、ああもう、嫌ね。ごめん。酔って愚痴言って、嬰矢のこととやかく言えないわ、あたしも」

「……静日は、あんたの体のこと、もう知ってるんでしょう」

「ええ。気にしないって、言ってくれたわ。だけど、これはあたしの問題なの」

「その……、静日とは……、ある、の?」

「ちゃんとしたのは、一度だけ。……つまりね、あたしの体、外性器が、ない、わけだから……、気持ちよくなりようがないし、入れるのも、ものすごく、痛いの。ただ尋常じゃなく、痛いだけ。……ほんとあたし、何でこれで正団員になれると思ったのかしら。笑っちゃう。笑い飛ばしてしまわないと、頭がどうかなっちゃいそうよ」

「それ、少し、わかる気がする。あたしも、自分の体にはずっと、傷つけられてきたから……だって、女なのにアレが生えてんのよ。もちろん、商売道具だからちょん切れないしさ。それが何だか情けなくて、笑うしかないってこと、あるわ。そうでもしないと、自分のこと、かわいそがったりしそうになったりして」

「うん……、イチカぁ……、」

「いやだ、もう、そんなに泣かないでよ、つられちゃう! だいじょうぶよ。こんなに美人で巨乳で料理上手で、年下の色男がこーんな素敵な指輪を贈るような、おっそろしく魅力的な30女よ、あんたって」

「失礼ね、まだギリギリ20代よ。でも、うふふ、ありがと」

「そうよ、笑ってましょう。そして朝になったら頑張ってお化粧するのよ。女ってほんと得だわ。これで大抵の粗はカバーできるんだから」

 和とイチカは、涙声で笑い合いながら、しばらくおしゃべりをして、それぞれの部屋に引き上げていった。レイトは冷蔵庫の前に座りこんだまま、冷えきった体に、冷えたジュースを流し込んだ。

 嬰矢は、大事な人を亡くして落ち込んでいた。

 和もイチカも、自分の体のことで、苦しんでいる。

 知らなかった。気づかなかった。クノが誰にも嫌われないと思っていたように、自分が誰からも嫌われないと信じていたように、レイトは、団員たち皆にそれぞれの考え、それぞれの人生があることを、少しも考えたことがなかった。

「……おれ、子供だ…………」

 普通の子供より成長が早いらしいし、賢いともよく言われる。だから、その気になっていたけれども、そんなこと、ちっとも凄いことじゃない。体が大きいことも、物覚えがいいことも、そんなの全然、偉いことなんかじゃないんだ。何があっても、にこにこして、周りを明るくしてくれる人が、偉いんだ。自分はただの子供だ。

 レイトはそれを、胸に杭を打ち込まれたように、ずっしりと、感じていた。

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