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The Circus 本編1<レイト>

 半月ぶりに、クノが、ザ・サーカスへ帰って来た。その日の昼前に全体集合がかけられ、食堂には、まだ仕事の明けていない静日以外の、ザ・サーカス全団員が集っていた。誰もが少し落ち着かない様子で、クノが現れるのを待っている。

「お疲れさま」集合時間から少し遅れて、クノと、クノに肩を抱かれた見知らぬ少年が、食堂に入ってきた。戸惑い混じりの「お疲れさまです」という挨拶が、食堂の方々からあがった。厨房で昼食の準備をしていたレイトと蒼唯と和も、手を止めて、食堂の後ろの方へと移動した。

 後方から見ているせいか、レイトには、皆の視線が見知らぬその少年に吸い付く様が、カラーペンで描かれたようにはっきりと見えた。

 少年は、輝く銀の髪に、青紫とレモン色の二層になった瞳、きめの細かい象牙の肌を持っていた。皆の視線を浴びて怯えてしまったのか、彼は、眉を寄せてクノを見上げた。クノはそんな彼にやさしく笑いかけ、元気づけるように、ポンポンとその肩をてのひらで叩いた。少年は薄く頷いて、居並ぶ団員たちの方へと顔を向けた。緊張で、表情が全くなくなってしまっている。

 レイトは、その様子に、頭がぐらぐらするようだった。並び立つクノと少年の間には、ほんの一歩の距離もない。恋人同士のように、彼らは皆の前で寄り添いあっていた。

 クノはまず、次の移動先と移動日が決まったことを発表した。1週間後には、この街からずっと南に下った、冬でも暖かい、海に面した地方に行くことになるそうだ。団員たちから、控えめな歓声があがった。いつもならもっと盛り上がる場面だったが、少年の存在が、皆にそれをさせなかった。

「それから、新しい仲間を紹介する」

 クノがそう言うと、場は一気に静まった。かちゃかちゃと、煮物の鍋の蓋が、沸騰して動く音が響く。

「こいつの名前は、リン。しばらく、俺が預かることになった」クノに背中を軽く押されて、リンは2度3度、空気をパクパクと飲み込んだ。

「は……、はじめまして。リンといいます。よろしく、おねがいします」お辞儀をして、すぐに一歩後ろへ下がる。リンはクノと目を合わせ、息を吐いた。クノはまた、リンの肩を優しく叩いた。

「皆、仲良くしてやってくれ。俺からは以上だ。後は嬰矢に任せる」そう言うと、食事もとらずに、クノとリンは2人寄り添って食堂を出て行った。代わりに指名された嬰矢が、団員たちに囲まれて、質問責めに遭う。

「あの子、どういう子なんですか」

「準団員って、見習いではないんですよね」

「しばらく預かるって、どういう意味ですか」

 レイトは、騒然となった食堂から、ひとり厨房にそそくさと戻った。沸騰しすぎている鍋の蓋をずらして、火を弱める。嬰矢は、説明するからいっぺんに聞くな、と言って皆を宥めた。

「えー、まず、リンは、ラーテルから保護してきた子供だ」

 レイトは目を上げた。食堂からも、どよめきが起こる。

「ラーテルって、クノさんの、敵ですよね。あの子……ほんとに、仲間にしても、大丈夫な子なんですか」不安げな蒼唯の発言を遮るように、嬰矢はゆっくりと頸を横に振った。

「リンは、ラーテルによって自由を奪われてた、被害者だ。諸々の理由から、体もだいぶ壊してるし、精神的にも不安定なところがある。落ち着くまでは、医者からの指示で、クノさんが傍について面倒をみることになった。しばらく預かるってのは、そういう幅のある期間のことだと理解してくれ。当然、リンの身分は、クノさんも言った通り、見習い団員じゃなくて、レイトと同じ、ただの準団員だ」

 そこで、何人かの団員がレイトの方を振り返った。『ただの』という嬰矢の言葉にも、振り返った団員たちにも、悪意がないのはわかっていたが、レイトは何となく、爪弾きにされたような、捻くれた気分になった。

「それから、クノさんから実技指導を受けてる奴は挙手」蒼唯と、もう1人、若い女の見習い団員が小さく手を挙げる。「おまえらの担当は今日から俺が引き継ぐ。スケジュール組み直すから後でちょっと時間くれ。あと、俺のはクノさんよりデカいから、期待しておくように。以上、解散」

 失笑の中での解散になった。イチカの、嬰矢を罵倒する声が食堂にこだまして、笑いが大きく沸き起こる。

 そのまま食事をとっていく団員が多く、厨房には次々に注文が入りはじめて、すぐに大忙しになった。レイトは、蒼唯と一緒に、猛然と和の手伝いをした。そうしていれば、クノとリンの2人で1つのような睦まじい光景も、あの白い暗殺者に遭った日からごちゃごちゃに絡まりだした頭の中の考えも、一旦すべて、忘れることができた。


     ★


 クノは部屋に戻ると、リンを楽な部屋着に着替えさせて、ダイニングの簡易キッチンに立った。買い込んできた、リンが好きだという、インスタントの甘いオートミールの箱を開ける。

「腹減っただろ。食事にしよう」

「はいっ」膝下まである、裏起毛のクリーム色のトレーナーを1枚着ただけのリンが、裸足で駆け寄ってきた。このホテルには中央暖房があるため、ラジエータの付いている部屋ならどこでも、薄着でじゅうぶんに暖かい。しかしさすがに裸足は見た目に寒そうだ。クノはスリッパを持ってきて、キッチンテーブルに座らせたリンの足もとにしゃがみ込み、履かせてやった。

「挨拶、緊張しただろう」

「はい。たくさん、人が……」

「でも、ちゃんと喋れてた。偉かったな」

「クノさんが、傍にいてくれたから、だいじょうぶでした」

 頭を撫でられたリンは、ぎこちない笑顔になって、クノをみつめた。無理をして笑っているように見えるが、これが今の彼にできる、精一杯の心からの笑みであることを、クノは知っていた。

 この2週間、クノは、検査と治療のために入院していたリンに付き添って、同じ病室に寝泊まりしていた。リンには、フィル・トップセルの言った通り、薬物とアルコールと性行為に対する軽度の精神的依存が見られた。マーを殺害した罪の意識に苛まれると、リンは部屋じゅうをのたうち回ったり、暴れて物を壊したり、吐いたり、失禁したり、体を傷つけるほど激しい自慰行為に耽ったり、許しを乞うて泣きわめいたりを、繰り返した。

 クノは、リンが何をしようとも、決して苛ついた態度をとったり、怒鳴りつけたりしなかった。自傷する可能性があるとき以外に、体を拘束することもしなかった。何かを汚したり壊したりすれば、すみやかに後片付けをして、身の回りを常に清潔に保った。

 入院初日は、顔の筋肉を上手く使えず、少し長い言葉を喋るだけでも舌を縺れさせていたリンも、そんな風にずっと傍にいて、食事からトイレの世話まで焼いてくれるクノの存在に、次第に表情を取り戻し、甘えられるようになっていった。萎れかけた切り花が、水切りされて再び元気を取り戻すように、リンはクノから、いつでも、いくらでも、尽きることのない愛情を吸い上げることができた。

 クノは皿にあけたオートミールをレンジに入れて、リンの隣の椅子に腰掛けた。リンはクノの動きを、いちいち首を廻らせて目で追った。視界にクノが居ないと、安心できないのだ。

「リン。おまえの名前に、意味を加えようか」

 クノの提案に、リンはきょとんとして、目を瞬かせた。

「いみ……?」

「ああ。サーカスでは、意味のある名前を持ってる団員が多いんだ」言いながら、オートミールの箱の蓋の部分を千切って、クノはそこに、丁寧な筆致で、『綾』と書いた。

「これで、リン、って読む。派手な絹の織物とか……」クノはふと目を細め、綾の、絹のような光沢のある細い髪をすくって、さらさらと指から零した。「きらびやかさ、美しさを示す字だ」

「綾……」

 濃紺のインクで書かれたその字を、綾は指先でなぞった。クノが万年筆を綾に渡す。留めはねまできっちり書かれたクノの字の隣に、綾もそれを忠実に守った、不格好な字を書いた。空いているスペースを埋め尽くす勢いで、いくつもの『綾』を綴る。その上に、温い雫が降りかかってきて、文字は青く滲みだした。

「クノさん、ありがと……ございます。ありがとう、ございま……、ありがと、」

 綾は顔を覆って、肩を震わせて泣いた。終わりの見えない感謝の言葉を、クノは、リンの頭を胸に抱きしめることでおしまいにさせた。加熱を終えたレンジが、合図の音を鳴らせる。扉を開けると、メープルシロップの甘い匂いが辺りに広がった。

「うまいか?」クノが訊くと、綾は食べながらこくんと頷き、スプーンで掬った茶色い粥状のそれを、クノの方に差し出してきた。苦笑いして、クノはそれを銜える。オートミール自体あまり好きではない上に、甘いものも得意ではない。すげぇ甘ぇな、と変な顔をして笑ったクノの脣に、続けて、綾の脣が重なってきた。クノの口の中のオートミールを吸い出すように、音を立てて強く吸う。

「ん、う……っ」綾は、椅子から上体だけをクノの方へ伸ばした、不安定な姿勢でキスを続けた。クノは綾の細い腰に腕をまわして、膝の上に抱きかかえた。くちづけが一段と深くなる。綾はクノの太腿に、脚を左右に大きく割って跨がっていた。トレーナーの裾がずり上がって、痩せた脚が、付け根までほとんど剥き出しになる。クノは目を背けたい思いで、そのまだ幼い肌に、てのひらを這わせた。

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