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The Circus 本編1<レイト>

 ふとんの暗闇に隠れ、罪悪感に蝕まれながらする自慰は、決して愉快なものではない。けれど近頃のレイトにとって、自らを快感と後悔の泥沼へ追い立てるその行為は、眠れぬ夜と、気怠い朝の、避けきれない習慣になっていた。

「…………っ、ぅう、………………はぁ、……は、」

 放出の前後の荒い息の底で、レイトはいつも、あるひとつの名を呼ぶ。呼んでしまえば、罪悪感がまた一段と色濃くなるのはわかっている。わかっているけれど、我慢できなかった。

「………………ノさ、…………っ、」

 クノさん。

 その名を、その姿、におい、声。思い出すだけでレイトの胸は高鳴り、熱くなる。けれど同時に、手足の先からは体温が抜け落ちた。てのひらを汚す生温さに、胴震いが起こる。

 なんで、いつの間に、こんなことになってしまったんだろう。クノさんを、好きになってしまった。クノさんが好きだ。クノさんが俺の父親でも、これは、家族の好きじゃない。

 俺は、クノさんがほしい。

 レイトはまだ10歳にもならない子供だったが、家族への愛情と恋慕の情とを混同するほど、そしてその想いは、父親に向けてはならないものだと理解できないほど、子供ではなかった。奥歯を強く食いしばって、すべてを、自分自身すら洗い流してしまいたい、そんな目の回るような気持ちで、レイトはふとんを蹴って、浴室へ向かった。シャワーの真下に立って、栓を思いっきり捻る。まだ温まっていない水の槍が、小さな頭を勢いよく殴りつけた。

 体にまとわりついてくる衣服の感触を、気持ちが悪いと思って、そこでやっと、レイトは自分が服を脱ぐ前にシャワーを浴びはじめてしまったことに気が付いた。どうかしてる。頭をぶんぶん振って、肌に吸い付く寝間着と下着を引き剥がす。

 しかし、裸になってシャワーを浴びても、お湯の温度が、どうにも気持ち悪く感じられる。泡立てた石鹸で、からだの隅々まで、どんなに擦っても、少しもすっきりしない。流しても流しても、消えない。罪悪感。欲望。嫉妬心。振り払われた自分の手。繋がれたクノと綾の手。恋人同士のように寄り添う、ふたりの後姿。

「あー……、……!」

 脳みそが吹っ飛びそう。体が腐りそう。このままじゃ、死にそうだ。

 こんな気持ちは知らない。

 だけど、体が知っている。爪や髪や血管や毛穴、それを形づくるもの、レイトという形を決定したものの中に、いつかどこかで、無数に刻印され、受け継がれている。

 それが恋だ。

 初めてでも、どんなにいびつでも、レイトの全身の細胞が、クノに恋をしていると、知っていた。


     ★


 食堂へ向かうレイトの足取りは、水の中を歩くように重い。ザ・サーカスの早朝の食堂は、人が少なく、集う顔もだいたい固定されている。正団員のほとんどは、客を送り出す準備をしているか、まだ寝ているかのどちらかなので、この時間に朝食をとるのは、見習いを含む準団員たちが主なのだ。その中には当然、クノと綾も含まれている。

 そこにクノがいると思うと、レイトの心臓は勝手に高鳴る。だが同時に、胃が、固い石ころに置き換わってしまったみたいな、気の重さも感じた。同じ部屋で寝起きしているクノと綾が、睦まじく食事する姿を、今日も、何でもないような顔で見なければならない。食堂の手前の角で、レイトは立ち止まった。一度、大きく深呼吸をし、勢いをつけてから、レイトは明るい顔で食堂に駆け込んだ。

「おはよー! 和ちゃん、おれトースト!」

 レイトは、席の方に視線を遣らずに、そのままとりあえず厨房の中に逃げ込もうと考えていた。だが、対面式になった流しでは、綾が、辺りを泡だらけにして、大量の食器を洗っている。この時間に、何でこんなに洗いものが出たのだろう。レイトは、綾の前で足を止めた。

「おはよう、リン。おれ手伝おうか?」

「……あ、おはよう、レイト。……ええと、これ、……れんしゅう……」

「練習?」

「うん……」綾は、控えめに頷くと、調理台で食パンをスライスしている和の方に、目を向けた。

「きのう、食器洗いの途中でお皿何枚か割っちゃったから、練習したいって。ね、」和の言葉に、今度は、大きく頷いてみせる。泡まみれの綾の両手は、持った皿を落とすまいと、力んで小さく震えていた。

「そうなんだ。おれも前はよく割ってたよ。ね、和ちゃん」

「そうだったわ。レイちゃんも、昔たくさん練習したのよね」

「したしたー。練習のときもいっぱい割った!」

「うふふ、そうだったわ。あ、レイちゃん、ほんとにトーストだけでいいの?」

「うん。リン、頑張ってね」

「あ、……あの、ありがとう……」綾は、頬をふわりと染めて、微笑んだ。

 なんて、かわいいんだろう。レイトは素直に、そう思った。綾の頬は、ふっくらとまるくて、触ったら、ぽかぽかしていそうだった。小さな猫や犬のように、大事にしたくなる。

「おいレイト、おまえ、ちゃんと肉も食えっつってんだろ」背後から、クノが声を掛けてきた。ドッと、大きく脈打った心臓の音が、目の前の綾にも聞こえやしなかったろうか。レイトは、本当は心臓を押さえつけたい手を、脇腹の辺りにそれとなく遣って、後ろを振り返った。クノはいつもの、厨房から1番遠い窓際の席で、新聞を広げている。テーブルに置かれた皿は、薄切りのパンを1枚残して、後はすでに平らげてあった。

「朝から肉なんか食べれないよ!」レイトは、その場を動かず声を張った。

「食べ『れ』ないじゃなくて食べ『られ』ない、だ。おい和、何か適当に、肉料理も付けてやってくれ」

「いらないよ! 勝手に決めないでよね」頬を膨らませたレイトに、和がうふふと笑って、コンロにかかっている深めのフライパンを示した。「レイちゃん、ミートボールはどう? 今日のは、トマトの味少し濃いめにしてみたの。レイちゃん、きっと気に入ると思うんだけど……」

「ほんと? おれ和ちゃんのミートボール大好き。いっぱいちょうだい」

「うふふ、わかったわ。もう少し煮込むから、待っててね」はーい、やったー! レイトの歓声を、クノが笑う。「朝から肉なんか食べ『れ』ないんじゃなかったか?」

「食べ『られ』るよ! ミートボールと肉は違うし」

「いや、肉だろ」うん、肉だ。肉でしかない。クノの反論に続けて、食器を返しにやってきた蒼唯と揺も、口々にツッコミを入れた。

「肉だけど、なんか種類が違うの! ってゆーか、食べろって言ったのクノさんなのに!」

 蒼唯たちは笑いながら、綾に食器を渡して、食堂を出て行った。受けとった食器を、綾は慎重に流しに置く。それから、たんぽぽの綿毛が飛ぶ瞬間みたいに、顔を上げた。

「レイトは、なんで、クノさんって、呼ぶの?」

 ドキッとした。レイトは自分の表情を、半端な笑い顔に固定するので、精一杯だった。振り返ると、綾は真面目な顔をして、きれいな目でレイトを見つめていた。

「え、……っとそれは、みんな、そう呼ぶから……」

「でも、クノさんは、レイトの、お父さん、なのに……」

 その瞬間、レイトは、脳と目だけをこの場に残して、それ以外の自分の体が、異次元の彼方まで吹っ飛ばされたような、衝撃を感じた。その正体が、怒りだったのだと、後になって考えれば、そう判断できる。けれど、その一瞬の感情の振り切れ方は、完全に未体験の、強烈なもので、自分に何が起こったのかすぐにはわからなかった。ただ、どうにか、綾を無視したりはせずに、「うん、そうなんだけど、なんとなく」などと呟くことくらいは、できていたと思う。

「レイト、」手招きで、クノに呼ばれた。ぐらぐらする頭を、何とか頸の上に座らせて、レイトは、招かれるまま、クノのところまで足を動かした。4人掛けの席の、斜向かいの椅子に腰かける。下を向いて、レイトは、小さく言った。「おれ……変? ……クノさんって、呼ぶの……」

 変なのは、そこじゃない。わかっていて、けれど、自分の最も変なところ、この動揺の大本にあるものを、クノに知られるのが恐くて、レイトは、そんな質問をした。

「気にするな。これまで通り、好きに呼んだらいい」

「ん……」

「なぁレイト、この前、」クノはそこでコーヒーに口をつけた。ほんの少しの音もたてずに、カップをソーサーへ戻す。クノはそれを簡単にやるが、レイトはまだ、1度も成功したことがなかった。腕と腹の筋肉を、相当上手く使わねば出来ない。「この前、綾が、おまえの手を振り払っただろう。ごめんな。まだ、謝ってなかったよな」

 やっぱり、クノは気付いていたのだ。それなのに、その場で気づかってはくれなかった。それはクノが、自分より、綾を優先して考えている証じゃないだろうか。卑屈な考えが胸を満たして、レイトは目の前のクノにバレないように、靴の中の足の指を、ぎゅっと結んだ。

「別に、ぜんぜん気にしてないし、……クノさんに謝ってもらわなくても、いいです」バレないように、と思ったのに、声に不機嫌が滲んでいた。それに自分で気づいて、レイトは脣を噛む。こんなだから、俺はガキなんだ。静兄はあんな風に言ってくれたけど、やっぱり俺はダメダメだ。

「あのな、レイト。綾には……、ものすごく、辛い事があって、まだ、体の調子もよくなくて、今は、自分のことで、いっぱいいっぱいなんだ。おまえが嫌で、あんなことしたわけじゃない」そんなこと、わかってる。わかってても、嫌な気分になってしまうんだ。大人になったら、こんないじけた気持ちにならずに、もっと、優しくなれるのかな。早く、大人になりたい。レイトはそう思いながら、「うん」と、頷いた。

「あいつ、最近少し、元気になってきただろう?」クノの優しい目が、綾に向けられる。レイトは後ろを振り向かずに、また頷いた。確かに綾は、最初の頃に比べれば、笑ったり、喋ったりするようになったと思う。「あいつな、あのとき、おまえが声を掛けてくれたことがすごく嬉しかったみたいで……目に見えて元気になってきたのも、あの日からなんだ。おまえの優しさが伝わって、綾の力になってる」

「うん。あのとき、綾、クノさんが居ないって、泣いてたから……。クノさんが戻ってきたの、嬉しくて、急いで行っちゃっただけだって、おれ、わかってるよ」

「そうか。よかった。綾は、一番年の近い、おまえの兄ちゃんだ。これからも、仲良くな」

「……綾、おれより、年上なの? おれ、弟ができたんだと思ってた」クノは笑って、レイトの頭に手を伸ばした。「おまえ、やっぱり、普通の子供よりでっかかったんだなぁ」

「そんなのクノさん以外、みんな前から知ってたよ」

 細められた黄緑の目が、自分に当てられている。レイトはそれが嬉しくて、でも、その瞳に恋の要素が欠片も含まれていないことが、嫌という程伝わってきて、苦しくてたまらなかった。

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