14

The Circus 本編1<レイト>

 本当は昼食も外で食べて帰るつもりだったのだが、白い暗殺者――自称、ロセル・ボゥレズ。忘れないようにその変な発音の名前を口の中で復唱する――に会ったせいで変に疲れてしまった。スイは、まだ午にもならない内に、ファストフード店の持ち帰り用の大きな紙袋を抱えて、ザ・サーカスへと戻ってきた。

「お帰りなさい、スイ。早かったね」受付のパソコンで事務作業をしていた見習い団員が、顔を上げる。「おう、ただいま。なぁ、蒼唯っていま外出中?」

「ええ、定期検診に行くとか言ってましたよ」

 やはり、先程街で見かけたのは、蒼唯だったのだろうか。スイは、ラージサイズのコーラを受付に差し入れて、チーズバーガーにかぶりつきながら、エレベーターホールに向かった。

 自室の前で、スイは残っていたバーガーを口の中に押し込み、片手を開けた。パンツの尻ポケット、前ポケット、ジャケットのポケットと順に探って、ようやく見つけた鍵を差し込んで回すが、鍵の開く手応えが返ってこない。スイは軽く息を吐いた。侵入者は知れている。マスターキーを持っている人間は、ひとりしかいないのだ。

 予想通り、スイの天蓋付きの豪奢なベッドには、クノが居た。

「ったく、俺の興行は終了したってのに」

 クノは横向きに丸まって、死んだように眠っていた。本当に、死んでたりして。だが、よくよく見ていると、羽根のふとんを被った肩が、緩やかに上下しているのがわかる。

「なんだよ、生きてんのかよ」スイは、ベッドの端に腰を下ろした。抱えていたファストフードの紙袋を、ナイトテーブルの上に置く。首を巡らせて、青ざめたクノの寝顔を、そのまま暫らく眺めた。目もとを隠す、濃茶色の前髪をかき上げる。現れた眉間の皺は、癖になっているらしく、眠っていてもしっかりと刻まれていた。力の抜けた目の下や口の周りの皮膚は、40半ばの年齢にしては若々しいが、それでも、出会った頃に比べれば、張りを失って緩んできていた。

「老けたなぁ……」スイは小声で呟いて、中指の爪で、薄く黒ずんだクノの下瞼をなぞった。すると、それに呼応するように、上瞼がぱかりと完全に持ち上がった。黄緑色の蛇の目玉が、ふたつ、スイの真下に現れる。

「…………夢に、おまえが出てた……」ゆるく瞬きをしながら、クノは言った。声は掠れている。スイは指を引っ込めて、「どんな夢」と訊いた。

「何か、良い……幸せな感じの、夢。まだ見習いの頃のおまえが、赤ん坊のレイトをおんぶして、俺に意味不明なこと捲し立ててた……チョコレート買えとか何とか……」

「なんだよそれ」

 どこが良い夢なんだかわからない。けれど、クノの頭の中だけにある、幸福な何かの記憶と、過去の自分が結びついているということが、スイを不思議に切ない気持ちにさせた。そのせいか、「顔色悪いから、もうちょっとここで寝ていけよ」なんて、らしくない優しい言葉まで掛けてしまいそうになる。だがスイは、口から出る直前で、そのせりふを飲み込んだ。そんなことを言っても、どうせ「今日は随分優しいじゃねぇか」なんて、いやらしい顔で笑われるだけだろう。

「あんた、今日は綾についてなくて平気なの?」労りの言葉をかける代わりに、スイはそう訊いた。

「ああ、最近だいぶ調子がよさそうだ。今日も朝早くから皿洗いの練習してたし、今は和とレイトと一緒に、荷造りしてるはずだ」クノは怠そうに上体を起こした。首を左右に捻って、あくびをもらす。ナイトテーブルに置いたファストフードの紙袋を抱え直したスイは、ベッドをまいて、窓際のソファセットへと移動した。袋の中身をひとつずつ取り出してテーブルの上に並べてから、ポテトに手を伸ばす。

「油臭ぇと思った……。おまえ、まさかそれ全部1人で平らげるつもりか」クノもベッドを降りて、スイの向かいのソファに腰掛けた。

「今日だけだから文句言うなよ」

「言わねぇけど、おまえといい嬰矢といい……その妙などか食いの癖治せよ。そのうち病気になるぞ」

「言ってんじゃん、文句」

「文句じゃなくて忠告だ。有難く聞いとけ」クノは、コーラとシェイクの紙カップにそれぞれ被せられた蓋を勝手に開けて、中身を確認している。シェイクの方には再び蓋をして、コーラを、カップに直接口をつけて飲んだ。スイはその様子を、文句も言わずに暫らく黙って見ていた。

「さっき、街で偶然、ラーテルの暗殺者に会った。アホみたいに美形の」雫をひとつ落とすようにスイの口から出た言葉に、クノは目玉を剥いて、カップを乱暴にテーブルの上に戻した。衝撃で、黒い飛沫が辺りに散る。

「本当に、偶然か?」

「たぶん。何もしてこなかったし、本人もそう言ってた。『俺が独断ですることに、意味なんかない』って」

「ロジェと、喋ったのか」

「ロジェ?」

「綾に聞いた。あの美形の名前だ」

「おかしいな。俺には、『ロセル』って名乗ったぜ」

「ロセル……?」

「ああ。ロセル・ボゥレズ、って」

 スイがその名を口に出した後、世界が全ての活動を止めたような、完璧な静寂の一瞬間が訪れた。黄緑の眼光が、スイの脳天を突き通すかのように、鋭さを増す。

「ロセル・ボゥレズ……」クノは、スイの発音よりずっと本物らしい巻き舌で、その名を発音した。

「ああ。生前の名前だとか、わけわかんないことも言ってたけど」

 その言葉に、空に預けられていたクノの視線が、何かをはっきりと捕まえて、見開かれた。

「……そうか。あいつ……、ロジェ・ボワレズ・タブリ…………あいつは本物の、亡霊なのか……」

「『タブリ』? ってことは、そのロジェだかロセルだかの実家も、あんたんとこと一緒で、超激スーパーお貴族様ってこと?」

「超激スーパーお貴族様?」クノは疑問形で繰り返して、鼻を鳴らせた。「ウチなんて、農家出身のひいじいさんだかひいひいじいさんだかが、建国の戦争ンときに後の王を庇って死んだってだけで爵位もらった、ただのラッキー貴族だよ。今でも家族は農業で生計立ててるし、大昔から北方の領主として名を馳せてきたボワレズ家とは、格が違う」

「なんでそんなに偉い貴族の息子が、ギャングの暗殺者になんてなってんだ」

「そんなこと俺が知るか」

「じゃあ、『本物の亡霊』ってのは? 本人も、同じこと言ってたけど」

「ボワレズ辺境伯家は、この国が統一されるより以前からある、言ってみりゃ王家なんかよりよっぽど歴史のある正真正銘の名家だ。『ロセル』は、爵位を継ぐべき長男に代々与えられる由緒ある名で、これを現代風に発音すれば『ロジェ』になる」

「『ボゥレズ』が『ボワレズ』?」

「そう。長男は、生まれた瞬間に新しいボワレズ家の『ロジェ』となり、それまで『ロジェ』を名乗っていた父親は、それ以降、名を変える。つまり、ロジェ・ボワレズ・タブリという人物は、同時代に1人しか存在しえない」

「ってことは、あの暗殺者の『ロジェ』は、いるはずのない2人目のロジェ・ボワレズで、ボワレズ家には、ちゃんとした別の『ロジェ』が居る、ってことか……?」

「ああ。確かまだ、7つか8つの子供だったはずだ」

「だから、亡霊……」スイの呟きに、クノは頷く。

「調べてみないと、俺も記憶が定かじゃないが、……10年くらい前だったかな。当時のロジェが、事故か何かで亡くなったんだ。現在のロジェ・ボワレズの、兄に当たる人物だと思うが」

「そいつが実は生きてて、ギャングの殺し屋をやってる……?」

「わからない。……だが、もしそうだとしたら……、ああもう、わからないことばっかりだ。……面倒だな……」クノはベッドに戻り、そのままばたんと、仰向けに倒れた。天蓋に向けられた、物思いに沈んだ目が、たまに瞬きをしているのが、スイの位置からも何となく見える。表情には、疲労が色濃く滲んでいた。

「俺の部屋に寝に来るぐらいだから、夜、寝れてないんだろ。綾の調子がいいのに、何で?」

「いいっつっても、少し前に比べればの話だ。夜中に起きてぐずったりとかは、まだするから」まるで、赤ん坊を持つ親だ。不眠になるほど付きっきりで面倒をみてやって、甘やかして、レイトが赤ん坊の頃よりよっぽど、今のクノは父親のようだった。けれど、綾は、赤ん坊ではない。

「あんた、綾を、抱いてるんだよな」クノは答えなかった。だが、それが肯定の沈黙であると、スイは聞き分けた。「あいつを正団員にするつもり?」

「俺がこの店に連れてきた子供の中で、見目麗しくない奴なんかいたか?」クノは自嘲の笑みを口もとに浮かべていた。滅多に見せない、気弱な表情だ。スイは、居心地の悪さと、胸の痛みを、同時に感じた。自分が齢をとればとるほど、クノが、完璧な神様などではなく、自分と同じ人間であると思い知る。そういう風に思えることが、嬉しくもあり、苦くもあった。スイにとって、クノに寄りかかるだけでも許される時代は、もう、過ぎてしまったのだ。

「もうちょっと寝ていけよ。起こしてやるから」少し前に飲み込んだせりふを、口に出す。

「今何時だ?」

「12時半前」

「じゃあ、あと30分寝かせてもらう」

「わかった。おやすみ」

「キスは?」クノは半笑いで、スイに視線を送った。

「濃いのと薄いの、どちらをご所望ですか」スイはベッドの脇に立ち、クノの顔の両脇に手を付いた。肘を曲げて顔を近づけ、答えを聞く前に、脣を合わせる。その感触だけで、これまでにクノと過ごしたあらゆる夜の記憶を、体が勝手に再生する。スイは、下腹に集まる血を感じながら、久しぶりのクノの舌を、自分のそれで撫で、啜り、味わった。顔の角度を何度も変えて、しつこく、貪り合う。

「満足したら、さっさとおやすみ」高飛車に言って、スイは脣を離した。下になったクノの脣はどろどろに濡れている。それを指で荒っぽく拭ってやると、クノは、声を出して少し笑った。

「おやすみ」目を閉じてすぐに、クノは寝息をたてはじめた。スイは、この間に10年前の新聞でも調べてみようかと、扉の方へ足を向けかけたが、クノの寝顔に再び目を遣って、踵を返した。心なしか、先程までより、クノの眉間の皺が、薄くなっているような気がする。自分が傍に居ることで、少しは、クノの疲れを吸い取ることができているのだろうか。ソファに深く掛け直したスイは、クノの飲みかけのコーラで、疲れた舌を潤した。

inserted by FC2 system