15
The Circus 本編1<レイト>
「海だ!」車が大きなカーブを越えてすぐ、後部座席の窓に貼り付いたレイトが歓声をあげた。
「綾、見える? 海が見えてきたよ!」隣に座った綾にも窓の外が見えるように、レイトはシートにぴたーっと背をくっつけて、顔だけを綾の方へ振り向けた。綾は窓に顔を寄せる。宝石の瞳が、車道の向こうに果てしなく広がる、紺碧の世界に釘付けになった。
「……海、だぁ……」
波の穏やかな冬らしくない海は、水平線まで延々となだらかに続いて、陽光に煌めいている。空には嘴の赤い海鳥が群れ飛び、車道の下に広がるマリーナには、無数のヨットたちが色とりどりに群れ留まって、短い休息の時期を過ごしていた。
「クノさん、海見えたよ!」
「クノさん、海です」
レイトが助手席のシートを後ろから揺さぶると、綾も、それを恐る恐る真似た。運転中の嬰矢が、ちらりとそれを横目に見遣る。眠っていたクノは、小さく唸って、眉間に刻んだ皺を濃くした。
「こらおまえら、クノさん疲れてんだから静かにしてろ」
「だって、きれいだからクノさんも見た方がいいよ。ねー、綾」
「う、うん。海、すごい……」
「海……?」起き出したクノは、顰めた顔を窓の外に向けた。黄緑の目玉に、見慣れた海の景色が映る。「もうこんなとこまで来てんのか。悪ぃ、嬰矢。本気で寝てた。運転交替しよう」
「いいですよ。最初から交替する気ありませんでしたから」嬰矢は笑う。クノはもう一度「悪い」と言って、座席に座り直し、サングラスをかけた。
「ねークノさん、見た? ちゃんと見てよ、海すごいよ」
「クノさん、海、ずーっと、あの遠くの線まで全部、海です。すごい……」
クノは、海海とうるさい後部座席の子供2人の方を振り返った。彼らは重なるようにして、海側の車窓に額をくっつけて、明るい海に見入っている。座席には、綾がクノの部屋でいつも使っていた毛布が、乱れて大きく波打っている。クノが寝ている間も、彼らは大人しく座ってはいなかったのだろう。クノは腕を伸ばして、シートからずり下がっている毛布の端を引き上げた。
「綾は、本物の海見るの初めてか」
「は、はい。海、広くて、すごいです」
綾はクノと視線を合わせてそう答え、すぐにまた窓の外に目を戻した。さっきから「すごい」ばかり言っている。クノは苦笑した。長距離の移動に慣れていない綾のために、車には毛布の他にも、酔い止めから催眠鎮静剤、組み立て式の簡易トイレまで積んであったが、それらの出番は幸いにもなくて済んだようだった。
「もうちょっと後の季節なら泳げたのになぁ。ねークノさん、今年の夏は海の近くの街に行こうよ。それでみんなでビーチフラッグスとすいか割りして、バーベキューと、あと、花火もする!」
「……あの、レイト、ビーチフラッグスって、なに?」
「えっとねぇ、ちょっと綾、場所あけて」レイトは綾を座席の隅に寄せると、後部座席をいっぱいに使って、うつ伏せになった。
「まず砂浜に旗を立ててね、そこから少し離れたところに、皆でこうやって旗に足向けて寝転んで……」ビーチフラッグスについての説明が終わると、今度は、すいか割りや、花火、バーベキューについても、綾は質問した。レイトがそれをまた、大きなジェスチャーを交えて説明する。はしゃぐ2人はすでに、今年の夏は、海で一緒に遊べるものと信じきっているようだ。
「参ったな。夏の興行はもう、いつもの避暑地に決まってんだけどな……」声を潜めてそう言いながらも、楽しそうな子供達の様子に、クノの口許は綻んでいた。嬰矢も笑顔だ。「まぁ、興行で行かなくたって、皆でまとめて休暇取って、海辺に遊びに行ってもいいわけですし」
「そう言われてみれば、団員全員でどっか出掛けたこととか、一度もねぇな」
「普段の生活がすでに旅ですからねぇ」違いない。相槌を打って、クノはサングラスの下の細めた目を、バックミラー越しに、笑い声の続いている後部座席に向ける。2人は靴を脱いで座席にあがり、毛布を海に見立てて、泳ぎの練習をはじめていた。息継ぎの真似をしたレイトの笑顔が、クノの方に向く。
レイトの、涙袋をせり上げて笑う、眩しげな表情は、見る者をたちまち真夏の日差しの下へ連れて行く。
クノはそのとき、もう戻れない、ある真夏の路地裏に立っていた。どこからか、鈴の音が聞こえる。それを辿って覗いた草むらの中に、太った男にたのしそうに跨がる少女の姿を見つけた。こちらに気づいた少女娼婦の艶やかな笑み。色褪せた黄色いワンピース。日焼けした少女の細い脚を、行為の残滓が伝う。報酬は汗をかいたペットボトルのコーラ1本。それでも、暑い日には有難いと言って笑った、白い歯。ちりりと音をたてる、錆びかけた小さな鈴のついたピアス。
悲しいときも、嬉しいときも、自分の興味の対象のみを真直ぐに見据えて、決して涙をこぼさなかった、けだものの瞳。
運命の女。
クノの人生の中で、そう呼べる女は彼女が最初で、きっと最後だ。彼女の名は鈴音。あの真夏の路地裏で、クノが名付けた。
陽光と葉影が、鈴音にくっきりとした模様を落とす。鈴音は笑う。猫のように目を細めて、眩しそうに、「クノくん」と呼びかけて、笑う。烈しいくせに実体はない。もうこの手に抱くことは叶わず、そして最初から、つかまえることはできないとわかっていた。抱けば抱くほど、眩しく、遠くなった。失って10年の時が過ぎようとしている今でもなお、鈴音は、クノの全身を熱く焦がす、真夏の日差しそのものだった。
年を追うごとに、レイトの笑顔は、そんな母親に似てくる。これが血の繋がりなのか、それとも、レイトが、笑顔の写真でしか母親を知らないせいだろうか。無意識に、似せているのかもしれない。生後3日で母に捨てられ、父親が誰かもわからない。そのかなしみを、クノはレイトの、母にそっくりの笑顔の中に、見つけた。
「……ところで、クノさん、」嬰矢のひそひそ声は、吐息ほどの空気の揺れでもって、クノの耳に届いた。「俺が引き継いだ、見習いのことですけど……」
「蒼唯(あおい)か」クノは、嬰矢の浮かない表情から推量する。嬰矢は目配せで肯定した。
「このままだと、デビューは相当、厳しいですよ。アレ自体も……多少は問題あるかもしれませんが、何より、本人がアレに今でも苛まれてるってのが、……厳しいですね」
「でも、俺相手のときは、ほとんど問題ないくらいになってたんだ。だからおまえも、もう少し、時間をかけてみてくれ。突破口さえ見つかれば、あいつはきっと、良い団員になる」
「わかりました。やってみます」
前部座席で交わされた大人たちの仕事の会話は、毛布の海での遊びに夢中になっている子供達に届くことはなく、そのままはしゃぎ声の底に消えていった。
★
ザ・サーカスが次の街へ移動するときの団員の移動方法は、基本的に各人任せだ。とにかく、次の興行初日に客を迎えられる状態であればよし、という方針なので、旅行がてら寄り道しながら鈍行列車で向かうもよし、単車に跨がって風を感じながら行くもよし、豪華リムジンでエステを受けながら気が付けば到着というのもよし、そして、高速鉄道で一気に目的地に乗り込むのもまたよし、である。
今回、高速鉄道で海辺の街に一番乗りしたのは、蒼唯たち、若い団員4人のグループだった。
「着いたー! あったけー!」はしゃいで最初にホームに降りた、正団員の陶郎(とうろう)に続いて、蒼唯も新しい街に降り立った。空気に潮のにおいがする。真冬の今でも春先のように暖かいこの街は、国内有数の保養地だ。週末の駅構内は人で溢れているが、ほとんどの人間が休暇を前に浮かれているせいか、ギスギスした嫌な感じは少しもない。
「なーんかなまぐさいなー」蒼唯の後ろから降りてきた揺(ゆり)が、鼻をひくつかせながら言った。最後に出てきた見習い団員の円(まる)が「その言い方イヤ」と揺の腰をハンドバッグで叩く。大きな荷物は先にホテルに送っているので、みな身軽な格好だ。
4人は一列になって、改札に移動した。擦れ違う人々の視線を、自分たちがいちいち奪っていることには気付いていたが、見られることには皆慣れている。移動娼館で暮らしていると、知らぬ間に何か異質な雰囲気が身に付いて、周囲からくっきり浮き上がって見えてしまうものなのだ。なりたての正団員と準団員の寄せ集めといえども、それが4人にもなれば、周りの目に立つのも当然だった。
「蒼唯、ほんとに行かねぇの?」揺がつまらなそうな顔で、いつの間にか最後尾にまわっていた蒼唯を振り返った。これから彼らは、地元で有名なレストランにエビを食べにいくのだ。先輩団員がこぞって太鼓判を押す店だから、予約が取れただけで揺たちはものすごく昂奮していて、移動中、ほとんど何も食べなかったくらいだった。
「うん、ごめん。ちょっと疲れちゃったから、先に店に行ってるよ」
「ほんとに場所わかる? 蒼唯ちゃん運動音痴だから心配」頭に載せられた円の手を避けながら、蒼唯は、「運動音痴は関係ないだろ」と、元から尖った上脣をもっと尖らせた。「有名な場所だし、近くまで行けば嫌でもわかるよ」
「んじゃ、お大事にな。写真撮ってきてやるから」陶郎が上手な目配せを寄越す。
「うん。感想聞きたいから、みんなちゃんと味わって食ってきてよ」
仲間たちと別れた蒼唯は、駅の雑踏の中をひとり、足早に進んだ。ひとりきりになってしまえば、別段周囲の視線も感じない。静日さんやスイだったら、こうはいかないだろうな。蒼唯は、ザ・サーカスの顔である2人の先輩団員を思い浮かべて、密かに嘆息した。
中央出口を出て、海岸通りの方へ向かうトラムの乗り場へ歩く。その途中に、灰色の公衆電話機が壁沿いに5台並んでいた。蒼唯はその1番奥の電話機にコインを入れて、空で覚えている番号を素早く押した。長く待つ。相手が電話口に出てから、蒼唯は口を開く前に、周囲を何気ないしぐさで窺った。
「飛頭蛮です」受話器を握った手で口許を隠して、蒼唯は、頭を飛ばす妖怪の名を名乗った。「たった今、次の街に着いたところです。例の件についてですが、もう少し時間を頂けませんか。――いえ、……、それは承知しています」言いながら、蒼唯はタートルネックの首を、空いてる方の手で上げ直した。「――もちろん、わかっています。……ええ、必ず。……では、また連絡いたします」
蒼唯は受話器を置いて、顔を上げた。切り揃えられた前髪の下で、赤ん坊のように大きく丸い、透明な瞳が、根の深い暗さを湛えて眼前の壁を見据える。
だがその表情は、ほんの一瞬で掻き消えた。鼻歌まじりに鞄から地図を取り出した蒼唯の後姿はすぐに、トラムの乗車場へ向かう観光客らしい連なりの中の、ひとつの点として紛れてしまった。