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The Circus 本編1<レイト>

 クノが、綾(りん)を探して部屋を飛び出した、その数分前。綾の目覚めは、とてもすっきりしていた。開いた目に、最初に飛び込んで来たのは、愛しい人の寝顔だった。クノを起こさぬよう気をつけて、綾は寝台の上に身を起こした。足の裏を床に下ろしたのと同時に、焦れるような甘い痺れが、下腹部から背筋に這い登ってくる。眠たい幸福の中で、綾は、足元に散っていた服を身に着けた。そうしながら、薄暗がりの中に浮かぶ、クノの無防備な寝顔を見つめ続ける。

 ザ・サーカスに来たばかりの頃、綾の目には、クノとレイトが瓜二つに見えていた。それぞれの造形の違いがわかってきたのは、ようやく最近のことだ。以前はほとんど同じに見えていた鼻の形も、今では、別物に映る。

 2人の細部の違いを認識できるようになってはじめて、綾は、彼らの本当に似ている部分に気付いた。例えば、それは髪質だ。彼らの焦茶色の髪は、触ってみると、見た目よりずっと柔らかくてさらさらしている。そして、瞳。特に太陽の下で見るとき、レイトの深い茶緑の目の中に、あの毒蛇の、金を帯びた黄緑の煌めきが瞬く刹那がある。

 父と子。

 その、揺るぎない事実に、綾は圧倒される。何があっても、誰が断ち切ろうとしても不可能な、人と人とを唯一、永久に繋ぎ続ける楔が、彼らを結びつけている。今さらどう足掻いても、祈っても、綾がそれを手に入れることは、絶対にできない。

 天が、彼らを選び、授けた。

 綾には、与えられなかったもの。

 今朝の海岸でも感じた、腹がシクシクするような気持ちの悪い感覚が、また、綾を捕まえようとしていた。レイトが生まれながらに持っていた居場所も、保護者も、それらが与え育んだ健康や、明るさ、自信、賢さも、綾は、何一つ持たない。持たないと、今はじめて、自覚した。

 綾には、幼い頃の記憶がない。彼が覚えているのは、以前いた貸し出し型の娼館で、金持ちの家と娼館とを行き来した約2年と、その後、フィル・トップセルに引き取られてからの、いくらかの月日のことのみだ。それ以前の自分に親がいたのか。もしいたのなら、なぜ今はひとりなのか。なぜ自分が娼館で働き、そこで『リン』と呼ばれていたのか。何もわからない。思い出そうとすると、激しい不安感や罪悪感、そして吐き気を伴う酷い頭痛が必ず襲ってきて、過去の再生をさせぬようにするのだ。

 足の甲に冷たい刺激を感じて、綾は我を取り戻した。下を覗き込む。部屋が薄暗くて、足もとはよく見えない。顔も、変にすうすうした。頬を触ってみると、ぐっしょりと濡れている。涙だか汗だか、よくわからないその雫が、素足に次から次へと降りかかった。その立て続けの刺激で、綾は、朝から裏口に放置したままのサンダルのことを思い出した。

 着たばかりのトレーナーの袖で顔を拭った綾は、情事の疲れの抜けない、ふわふわする足を室内履きに突っ込んだ。クノの寝顔にもう一度目を当ててから、そっと、部屋を出る。急いでエレベーターで1階に降りて、店の裏口へまわったが、そこに今朝脱いだはずのサンダルは見当たらなかった。レイトがもう、屋上の洗い場に持って行ったのだろうか。怠い体に鞭打って、綾は小走りで再びエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押した。


     ★


 煙草を吸い終わるまでの間、スイの胸には、先刻のレイトの濡れたような睫毛や、危うい雰囲気が、曖昧な、砂糖菓子のにおいのする淡い影を落とし続けていた。

 普通の子供より、ひと足もふた足も早く、子供と大人の境目に到達しつつある、レイト。けれど、いくら見た目が大人びていても、そこいらの大人より人間ができていても、彼はまだ9歳の子供だ。妙な気分になるなんて、あってはならない。そんな感情を抱くなど、

「変っ態! だぜ……あー、コワイコワイ……」

 暮れはじめた空に、大きなひとり言を吐き散らす。髪を掻き混ぜ、スイは、笑いのような息を、ハッと、太くこぼした。

 レイトに惹かれてしまうのも、入団してから今まで、ほとんど恋愛らしい恋愛をしてこなかったのも、己が、子供に性的関心を持つような人間だからだとしたら、簡単に納得できるのだ。

 そしてある意味、そうであった方が、スイにとっては気が楽でもあった。自分が変態だとはっきりすれば、これから先、一生まともな恋愛なんかできないと諦めもつくし、万が一、誰かに恋心を抱いてしまったときに、歯止めもきく。

 しかし残念ながら、スイには、自分がそういう類の人間だとは思えなかった。何しろ、レイトの外見はとても子供とは言い難かったし、スイもまだ20代半ばと若い。ってことは、だな……、いや。いやいやいやいや。スイは頭を振る。まさか。だって、相手はレイトだぞ。おしめだって換えてやってた、おんぶしてあやしながら仕事だってしていた、あの、赤ん坊だった、レイトなんだ。正気か、スイ・ラビ……。

 本当はとっくに発見してしまっている答えから逃げ出すように、スイは、屋上から引き上げた。短い階段を下って、非常扉から自室のある5階の廊下へと戻る。4階までの廊下は、色付きの天然石が幾何学模様に配されたモダンなデザインなのだが、ここ5階の廊下だけは、一面白大理石の、洗練されたつくりになっていた。靴音が、下の階より美しく響く。

 自室までの短い道のりの間も、スイの表皮のすぐ下は、レイトのことでいっぱいだった。エレベーターの前を通り過ぎ、角を曲がればもう部屋に着く、というところで、背後から、マリンバを叩いたような柔らかな音が響いた。エレベーターの到着を告げる音だ。スイは足を止め、後ろを振り返った。レイトが、何か言い忘れたことがあって戻ってきたんじゃないかという気がしたからだ。

 エレベーターの扉が開く。中から出てきたのは、少年だったが、レイトではなかった。綾だ。スイのいる方には目を向けず、非常階段の方に急ぎ足で向かおうとする。屋上へ行くつもりだろう。スイは背後から綾を呼び止め、彼に近づいた。「レイトなら、もう食堂の手伝いに行ったけど」

 スイの存在に気付いていなかった綾は、ビクリと身を縮ませた。ぎこちない動きで、体ごとスイの方を向く。「あ、……そう、ですか」

「おまえの分のサンダルも洗ってたみたいだから、上行ってもすることねぇぞ」

「…………はい、あの、……じゃあ僕も、食堂に……、」

 怯えたように俯いた綾の、鎖骨の間の浅い窪みに、真新しいくちづけの痕があることに、スイはまず、気付いた。それから、匂い。それは、クノのつけている香水の匂い、ではなく、クノの匂い、だった。鼻でかぐ匂いではない。言ってみれば、娼妓の、もしくは、クノと長年親密な関係を持ってきたがゆえに感じる、ある種の勘のようなものだ。

「いや。おまえ、今日はもう部屋に戻れ」

「……え、……」

「レイトに、そういうのあんま、見せつけんな」

 ただでさえ、最近のレイトは過敏になっている。先刻会ったときも、少し様子がおかしかった。レイトは聡い。そして、自分の暮らすこの場所が、世間的にはいかがわしいとされる場所であるということも、その仕事の内容も、もう理解しているのだ。例え自分と同世代の子供でも、心身に問題を抱えていても、ザ・サーカスにやってきた以上、綾が、ただ保護されてきたわけではないということを、レイトが理解できていないとは思えなかった。

 スイは、「そういうの」と言うとき、わかりやすく襟もとを指で示していたが、綾にはその意味が理解できなかったようで、眉を寄せて目の前の大人を見上げるばかりだった。なんて、愚鈍なガキだ。スイは、頭の内側が毛羽立つような苛立ちを感じた。これがレイトだったなら、自分の不注意を詫びて、首の詰まった服にすぐに着替えてくるだろう。もちろん、そんなのは勝手な自分の妄想であって、綾の現実の振舞いと比較できることではない。そんなのは、百も承知だ。綾がまだ、心身共に健康な状態とは言い難いということも、わかっている。それでもスイは、腹が立って仕方がなかった。

「おまえ、あいつらが……クノとレイトが親子だって、知ってるよな?」冷静に言ったつもりだったが、そのスイの声と表情には、苛立ちの端切れが棘のようになって覗いていた。

「……は、……は、い……」綾は青くなって、小さく答えた。

「だったら、少しはレイトに気を遣えよ。四六時中おまえがクノを独占してたら、レイトはいつ、クノと過ごせる?」

「…………でも、……」

「でも? でもって何だよ、」スイの眉間が、怒りに任せて狭まった。まさか、ここで反論されようとは思わなかった。綾は脣を真一文字に結んで俯く。そのすぐまん前に立って、スイは無言で、「でも」に続く綾の言い訳を待った。

 その己の行動を、大人げなかったかもしれない、とスイが思いはじめるまで、ほんの30秒もかからなかった。相手は子供じゃないか。これでは、弱いものいじめだ。スイは、バツの悪い思いで、綾を見下ろした。前髪に半ば隠れた額に、脂汗がべったりと浮かんでいる。スイは目を剥き、身を屈めて、綾を覗き込んだ。

「おい、大丈夫か、綾、」汗に濡れた綾の顔は真っ青で、呆然と見開かれた2つの目玉は、スイの足先の辺りに向けられたまま、微かに、震えているように見えた。

 しまった。これは、本格的にまずそうだ。

 スイはポケットの携帯電話を探った。クノ、の前に、医者に連絡すべきか。かける番号を迷った、その刹那、スイの耳の奥に、異様な音が貼り付いてきた。電話帳を操作していた指を途中で止める。それは今までに聞いた覚えのない、奇怪な音色だった。強いて喩えるとすれば、長時間同じ姿勢を取り続けた後で、首や腰を回したときに聞こえる、あのペキとかポキとかいう音を、際限なく集めて重ねて騒音公害レベルの音に引き上げた音、といった感じだろうか。地面が揺れている気がして、スイは、足もとに目を遣った。

「…………っ、な……、」何だ、これ。一瞬で乾上がった喉の奥で、スイは呻いた。

 大理石の床の一部が、表面に細かな皹割れの蜘蛛の巣を巡らせながら、ケーキが焼けるみたいに膨らみはじめていた。スイの靴先数センチの所から、向かい合わせに立った綾の足もとまで、直径約1メートルの椀型に、見る見る内に膨らんでいく。

 爆死。

 スイの頭の真ん中を、ガツンと、その言葉が占拠した。昨年の末、ザ・サーカスの旧くからの支援者であったマー氏が、爆殺された。しかし、現場から爆薬の類は一切見つかっておらず、爆発の原因はいまだ不明だという。唯一わかっていることは、その暗殺を実行したのが、誰であったかということだ。

「綾!」

 廊下に、クノの叫び声が反響した。いつの間に来たのだろう。スイの耳には、エレベーターの到着音は届かなかった。綾が、もがくように顔を上げる。

 クノさん。

 音を伴わずに、綾の脣がその名を呼んだのを、スイは見た。もしくは、石の割れる音に、他の全ての音がかき消されているのかもしれなかった。足のすぐ先で、膨らみ切った白大理石の半球が、今にも飛散しそうに震えている。

 綾は、スイの背後に近づいてきているはずのクノを、クノの瞳を、限界まで大きく見開かれた美しいアメトリンの瞳で、凝視していた。それは初めてクノに会ったときと同じ、黄緑の球面の中に入って行きそうなほどの、一心の凝視だった。瞼のふちで、珠の涙が迷うように震えたかと想うと、それらは頬を伝い落ちることなく、空中へ散っていった。逆立った銀の髪が、海中のように波打って、煌めいている。飛び散りはじめた大理石の破片が綾の薄い頬を削り、ごく小さな血飛沫が上がる。スイの目にそれらは、ハイスピードカメラで撮影したかのように、くっきりと映った。

 綾を庇わなければ、と、スイは思った。だが、足を半歩踏み出した瞬間、スイもまた、大きな石礫に顎を弾かれ、後ろに突き飛ばされた。

 逃げろ、綾。

 そう、声にできたかどうかもわからなかった。爆発音と共に、スイの視界も思考も、次の瞬間を待たずに、白一色に塗りつぶされていた。

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