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The Circus 本編1<レイト>

 綾(りん)が遠い場所へ行ってしまったことを後になって知ったとき、スイは今、胸に引っかかっているささくれのような後悔が、これから長く自分を煩わせ続けるだろうと予感した。謝る機会を、たぶん一生、失ってしまった。

「参ったなぁ……」

「どうかしたの?」和(かず)が、温かいスープをスイの前に置きながら、言った。

 朝一番の食堂には、まだ彼らふたりの姿しかなかった。結露した窓から、温度のない朝の陽が白々と差し込んでくる。昼間は春を飛び越えて初夏のように汗ばむ日々が続いているが、朝晩の冷え込みはまだ厳しい。

「や、ひとりごと。そういや今日レイトは?」

「綾の見送りに絶対遅刻しないようにって、昨日は徹夜したんですって。部屋に戻って寝るって言ってたわ」ふぅん、と鼻先で返事をして、スイは子供のように脣を尖らせた。「それにしたって、俺にも綾の出発のこと言わないってさぁ、」

「急に決まったことだったみたいよ。あなた、昨日は全然体空かなかったでしょう」

「そうだけどさぁ……」

 今回のクノの行動は、やっぱり不可解だ。綾を特別扱いする理由はわかったが、まだ、何かある。綾にまつわることで、クノが明かしていない大きな秘密が。スイにはそんな気がしてならなかった。

「レイト、最近また背が伸びたわよね」

 和が言った。綾の話をしていたはずなのに、急に何だ。スイはそう思いかけたが、和にとっては最初から、『綾を見送ったレイト』の話題だったのだろう。スイは、厨房に並んだレイトと和の姿を頭に思い浮かべた。「確かに、和ちゃんの背はもう完全に越したよなぁ」

「いつの間にあんなに、鈴音ちゃんに似たのかしら」

「は?」

「似てると思わない?」

「いや俺、直接には鈴音さん知らないし」

「生き写しだわ」昂奮しているのか、和の口調が、彼女にしてはずいぶん早口になっている。

 スイが入団したとき、鈴音はもう、レイトを残して男性団員と駆け落ちした後だった。見習い団員だった頃、赤ん坊のレイトをあやしながら、スイはしょっちゅう思ったものだ。

 馬鹿な女もいたもんだ。こんなにかわいい、生きてるだけで泣けてくるほど満たされる、幸せの塊みたいな赤ん坊を、恋愛なんて不確かなもののために捨てられるだなんて、頭がおかしいとしか思えない。

 やがて正団員となってから、伝え聞く彼女の才能、クノさえ虜にしたその魅力に、憧れに近い気持ちを抱くこともあったが、基本的には今でも、スイにとっての鈴音は、『レイトを捨てた最低女』のままだ。

 ただ、クノと鈴音が特別な関係にあったらしい、というのを知った後で、スイは一度、保管されている鈴音の写真を片っ端から引っ張り出して、眺めてみたことがある。仕事に関係のないスナップのほとんどは、化粧もろくにせず、大口を開けて笑っているようなものがほとんどだった。眩しそうに、目を細めて笑う、その笑顔。海辺の太陽の下の、夏休みの子供たちみたいな、見る者の郷愁を誘う、特別な魔法のかかった笑顔だ。

 レイトの笑顔と、よく似ていた。

 これが血の繋がりというものなら、何と残酷なことだろう。鈴音がレイトの母であるのは動かし難い事実だが、彼女はレイトから見れば、生後3日の自分を捨てて、男を取った女なのだ。そんな奴に、誰が似たいと思うだろうか。自分がレイトの立場なら、平気で憎み続けてるに違いない。

 でも、あのレイトのことだ。鈴音についてどう思っているか訊いたりすれば、『生まれるはずのなかった自分を産んでくれたことに感謝してる』なんて、聞いてる方が暴れ出したくなるようなことを、達観した笑顔で宣うかもしれない。そんな自分の妄想だけで、皮膚のすぐ下あたりがイライラしてくる。何か鈴音に、大きな不幸でも起こってくれないと、割に合わないような気分になってくる。そうしてレイトは、そんなことを決して望まないだろう。スイの義憤の持って行き場は、永遠に八方塞がりだ。

 ふと気付くと、和はまだスイの傍らに立って、遠い目でどこか中空を見つめていた。生気を抜かれたような、色のない横顔が、いつもの和らしくなくて、怖くなる。

「どうしたのよ和ちゃん、んなマジな顔で」スイは和の背中を軽く平手で叩いた。スイを見下ろした和は、ゆっくりと数回瞬きをし、一度厨房の方へ行ったかと思うと、テレビのリモコンを取って戻ってきた。

「鈴音ちゃんってね、」和はスイの隣に腰を下ろし、テレビを点けた。朝の賑やかなニュース番組では、天気予報をやっているところだった。そういえば、この街に来てから、お日さまマーク以外の予報を見たことがない。この前まで滞在していた北の地方の予想最高気温は0℃になっているが、この辺りでは、今日も昼間は30℃近くまで上がるらしい。

「鈴音ちゃんって、私の知ってる全部の団員の中で、唯一、クノさんのこと、侮ってたの」

 和の喋るテンポが、普段のゆったりしたものに戻っていた。スイはやっと少し安心して、スープを口に運ぶことができた。野菜の味が良く出ていて旨いが、いつもの和のスープより多少煮詰まり過ぎているようだった。こんなに正直じゃあ、いくら腕がよくても自分の店を持つことはできないなと、スイは密かに苦笑した。全部のメニューに『シェフの気まぐれ○○』という名前を付けなければならなくなってしまう。

「俺も結構、侮りはじめてるけどねぇ」

「そうだったの?」和はうふふと笑った。

「もちろん、尊敬はしてるけど」スイは一応のフォローをして、わざとらしい目配せをした。和もスイの言わんとしていることはわかっているので、うふふ、と笑みで応じる。

 和は、そう見えないように上手く振る舞っているが、実の所、クノと非常に仲が良いのだ。クノの本当の懐刀といえば、スイでも、嬰矢でもなく、和のことだった。とはいえ、彼女の前で喋ったことが何から何までクノに筒抜けになっているというわけではなかったが、コックという立場の彼女だからこそできる、悪く言えば身内への諜報活動、良く言えば守護天使のような働きについては、古参の団員たちの間では、密かに諒解されていることだった。

「鈴音ちゃんもね、クノさんを尊敬しながら、下にも見てたの。『私の願いを全部叶えちゃうのがクノくんの欠点よ』……なんてことをね、お酒が入ると、よく言ってたわ」和の目線はテレビに向いていたが、その目に映っているのは、10年以上前の記憶だろう。

「和ちゃん、そんな仲良かったんだ、鈴音さんと」

「ええ……。憧れだった。あんな風になりたかった。鈴音ちゃんも、あたしの体のこと知ってからは、すごく良くしてくれたしね。『できるなら私がお母さんになって産み直してあげたい』なんて言うのよ。変わった人だったけれど、本当に自分に正直で、真直ぐで、嫌いになれないの。眩しい、太陽みたいな人。自分は絶対にこうはなれないけれど、こんな人がいてくれて嬉しいなぁ、って」

「そんな人が、何で、自分の子を捨てたかな……」半分は無意識に出たスイの呟きに、和は、自分が悪いことをしたような顔になって、俯いた。「ええ……。そのことがあるから、昔みたいに、無邪気に好きではいられなくなっちゃったわ。許せないもの。あんなに小さくて、誰かの力を借りなきゃまだ生きていけない、かよわい命を捨てて、自分の快楽を取った、あの人を」

 その言い方はずいぶんきっぱりしていて、スイはもしかして、和が妊娠でもしているんじゃないかと考えた。そうでなかったとしても、子供が欲しいという気持ちがあるのかもしれない。もしくは、女の本能だろうか。いや、自分の母親みたいに、ちっとも親らしい部分がなく、ただの女でしかない人間も存在するのだから、その言い方は間違っている。どうせ言うなら、母の本能、と言うべきだろう。

「ま、俺は母親捨てて、一度はパトロンと暮らすこと選んだような人間だしな。芸術家になるって家飛び出しといて、今は男娼なんてやってるし、……鈴音さんのこと、どうこう言える立場じゃなかったわ、そういえば」苦く笑って、スイは言った。

「それ言われたら私なんて、親兄弟も親戚も、生まれる前から決まってた婚約者も、みーんな生まれた国に捨ててきたわ。うふふ。昔のことすぎて、忘れてたけど」和も、眉を顰めるようにして笑い、スイの肩に、頭を寄りかからせた。女の細い肩を抱いて、スイは小さく鼻を鳴らす。クノが呆れるほど、いい年をして男に抱かれてばかりいる自分が、真っ当な男のような格好をしているのは、だいぶ滑稽だ。

「親捨てたと言や、クノだって、家飛び出して好き勝手やってるお坊ちゃんだと思ってる奴もいるんだろうな。中途半端に、ハハキさん家が上級お貴族様だってことだけ知ってたりしたらさ」

「本当のならず者は、クノさん以外の私たちなのにね。根無し草が集まって、《毒蛇》の名に頼って、どうにかこうにか裏社会に居場所を確保して……」

「だな。俺、よく思うよ。クノを神様にしてるのは、路上のガキや、裏でのさばってる奴らじゃなくて、一番傍にいる、俺たちなんじゃねぇかって。あいつが神様でいてくれなきゃ、この国に、俺たちの居場所なんてないからさ」

「……そうね。そう言われて、思い出したんだけど……、私、鈴音ちゃんがいなくなったとき、すごく怒って、悔しくて、悲しくて……でも、どうしてか少しだけ、ほっとしてたの。……きっと、クノさんを盗られなくて済んだ、って、安心したのね、あのとき……」

 スイは、そこで初めて、考えた。

 鈴音さんは、どうだったろう。ザ・サーカスに入団するまでは、街娼をして生きていたという彼女にとっても、《毒蛇》は、神に等しい存在だったのではないだろうか。神を求め、神に見出され、神を打ち負かした、かつての路上の少女は、その神の気持ちが自分に傾いてゆくのを、どんな思いでみつめていたのだろう。もう、想像するしかないことだ。いや、想像したって仕方のないことには違いない。

 考えをうやむやにしながら、スイは何となしにテレビ画面に目を遣った。芸能ニュースの中で、イチカのお気に入りのモデル兼タレントが、学業に専念する為に事実上の引退をする、という話題が取り上げられていた。和と視線を合わせて、2人で「あーあ」と軽く笑う。「イチカちゃん知ってんのかなぁ。かわいそうに」

「でもこの人、最近の芸能人じゃ珍しいくらい演技が下手なのよね。前に何かのドラマで見たけど」

「こんだけ色男だと、演技の下手さも際立ちそうだな」

「そうなのよ。ほんとこう言っちゃ悪いけど、どんな真面目なシーンでも彼が出てると笑っちゃうの、下手すぎて。イチカは、そんなとこも可愛いとか言うんだけど、俳優としては致命的よね」

「でもなんか、エロいよな、こいつの体。経験積んでそうっていうか。顔は好みじゃねぇけど、ちょっと抱かれてみたいかも。ほら、こないだ嬰矢んとこに来てた、何とかって有名なモデル、あいつと繋がってないのかねぇ」

 それは何でもない戯言だった。実際、番組内で繰り返し流れていた、有名メゾンの秋冬コレクションの映像の中で、無表情にウォーキングをしている『シン(20)』は、ほどよく野性的な、美しい体型をしていた。特に、張りのある胸筋と、腰から太腿の裏にかけての線がセクシーだ。

「シンがお客さんとして来たら、それこそイチカが放っとかないわよ」

「あたしが何だって?」騒々しいピンクの頭が食堂に飛び込んでくる。直後に、テレビ画面を見たイチカから、この世のものとは思えぬ絶望の雄叫びが発せられ、それが呼び水となって、食堂は一気に朝の忙しい時間へと突入した。

 予言はいつもそうやって、日常の中に紛れ込んで流れてゆくのだ。

 振り返ってみれば、その瞬間には確かに、違和感がある。別の時空と繋がっているような、静かすぎてざわざわするような、そんな空気が。けれどそれは大抵、予言が現実となってしまった後か、避けきれないほど直前に迫ったときに、ようやく気付く程度のものだ。もしかして、あれがそうだったのだろうか、と。

 薄明るい朝の食堂の空気に溶けていった、何気ない和との会話が、十年の時を経て自分を脅かしにやって来ようとは、そのときのスイにはまだ、想像もできないことだった。

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