27

The Circus 本編1<レイト>

 クノはその日の内に帰ってきた。

 綾が店を離れた件は、怪我のこともあって、念のために大病院に移った、と伝えられた。団員の多くはそれをそのまま納得した。綾の存在は最初から、ほとんどの団員たちにとって、クノのつかのまの付属品でしかなかったのだ。

 夕食どきの厨房では、いつも通り、和がてきぱきと料理をつくっていた。レイトもいつも通り、和を手伝って厨房にいた。いつも通り、ということに、レイトは悪いことをしている気分になる。だがそこに、責めるべき相手はいない。誰も悪くない。だからこそ余計に、

「……はがゆい」

 小さな呟きは、レイトの狙い通り、ミキサーの唸りの中に飲み込まれた。材料がよく混ざって、撹拌する音が軽くなった瞬間を聞き逃さずに、回転を止める。轟音が途切れると、入れ替わりに、食堂のテレビから流れる古いドラマのテーマソングが耳に入ってきた。誰かがハミングで、その悲しげなメロディをなぞっている。特大サイズのグラスに、出来上がった緑色の液体をなみなみと注いで、レイトは慎重に窓際のテーブル席のひとつへ足を運んだ。

「揺(ゆり)ちゃん、いつものおまたせー」

「ありがとー」鼻歌を止めて、正団員の揺が、テレビの方に向けていた顔を上げた。この野菜と果物のフレッシュジュース1杯が、彼の夕食だ。ほかのテーブルの上にあるのも、スープや、ハーブのサラダなどの簡単な皿が多い。正団員は、基本的に、仕事前にはあまり食べないのだ。

「あ、なぁレイト、蒼唯(あおい)知らない?」言いながら揺は、頸を伸ばして、開け放たれた入口の向こうを覗き込むようにした。レイトもつられて周りを見渡したが、蒼唯の顔はない。「朝会ったきりだけど……」

「おかしいなぁ。開店時間から受付あいつだから、いつもだったらこの時間に食いにくるのに」

「そういえばそうだね」

「……朝会ったときって、さ、どんな感じだった?」揺は、レイトの方に顔を寄せ、声を落として、訊いた。揺の隣に腰かけて、レイトも同じように小声で返す。「いつもの寝起きの蒼唯ちゃんだった、と、思うけど……俺も朝眠かったから、ごめん、よく覚えてないや」

「そっか。まぁ、訓練が長引いてんのかもしんないしな」

「……何か、気になることがあるの?」

「いや……俺、最近、蒼唯になんか……避けられてるような、気がして、」揺は、緑色のジュースを、喉を鳴らして呷った。息を吐き、口もとを拭ってから、何でもないような顔をつくり直す。「たぶん、知らんうちに俺がまた無神経なこと言って、怒らせてるだけだとは思うんだけどさ。でも、そうじゃなかったら、……何か、……悩みとか、あんのかなって……」

「揺ちゃん、蒼唯ちゃんのこと、大好きなんだねぇ」

 レイトにそう言われると、揺はパッと頬を赤らめた。スポーツ刈りの頭に手を遣って、照れくさそうにこめかみの辺りを掻く。「うん、まぁ、一応、親友、だと思ってるから」そんな仕種も、ハの字になった、手入れのされていないように見える太い眉も、ザ・サーカスの団員としてはちょっと目を引くほど素朴な印象がある。そこが売りになると見込んだ揺は、見習い時代から真面目に努力して、今では各地の方言をほとんど操れる、いわば国内ポリグロットだ。ちなみに、出身は首都なので、普段は他のどの団員より正確な標準語を話す。

「おれ、後で、蒼唯ちゃんにちょこっと探り入れてみよっか?」

「頼める?」

「まかせて」

 だが、その日、開店前30分を切っても、蒼唯は食堂に現れなかった。この時間になると、食堂はすっかり暇だ。レイトは一応、和に断りを入れてから、蒼唯の部屋に向かった。ノックをしても、呼び鈴を鳴らしてみても、返事はない。訓練が長引くにしたって、蒼唯の担当である嬰矢も現役の正団員なのだから、こんな時間になることはないはずだ。レイトは非常階段を下りて受付を覗いてみたが、そこにも蒼唯の姿はなかった。

 戻ってきてから、もう一度だけ蒼唯の部屋の呼び鈴を押そうとしたとき、扉の内側で、何か大きな物音がした。

「蒼唯ちゃん?」ドアノブをまわすと、鍵がかかっていない。レイトは扉から顔だけ中に突っ込んで、もう一度、「蒼唯ちゃん、いるの?」と声を掛けた。カーテンの引かれた室内は、まだ陽があるのに、薄暗く沈んでいる。

「……来る、な……!」くぐもった掠れ声が返ってくる。レイトは声のする方に目を凝らした。洗面所に続く扉の前に、見覚えのある薄灰色のセーターが落ちている。レイトは、びくりと体を震わせた。セーターの一部が、真っ赤に変色していた。「蒼唯ちゃん、怪我してるの?」

「大丈夫、だから、……こっち、来ん、……ッ、」言葉が、苦しげな嗚咽に掻き消される。蒼唯は、手洗いで戻しているようだった。

 レイトは自分の部屋の冷蔵庫から、スポーツドリンクのボトルをひとつ掴んで、蒼唯の部屋に戻った。洗面所のドアの前に落ちていたセーターは、やはり、蒼唯が愛用しているタートルネックだ。血の染みは、その襟足の部分に広がっていた。染みの中に、何かに引っ掛けたような穴が空いている。

 そのうち、トイレの水が流される音がして、ガウン姿の蒼唯が、扉を開けて出てきた。血の気のない顔で、足もとにしゃがんだレイトを見下ろす。ふらついた細い体が、今にも倒れてきそうで、レイトは反射的に立ち上がっていた。「蒼唯ちゃん、怪我は……」蒼唯は、レイトが手にした自分の服に、ちらりと視線を遣った。

「もう手当てしたから」ぼそりと言って、首筋を軽く撫でる。ガウンの襟と内巻きの毛先の間に覗く、蒼唯の細い頸には、大判の絆創膏が、ほとんど一周するように巻きついていた。

「――いや、もう今日マジついてなくてさ、」蒼唯は急に明るい声を出して、苦笑してみせた。レイトの手からセーターをとりあげて、「これ、気に入ってたのになぁ」とぼやきながら、血の染みが見えないように丸めて結び、ゴミ箱に突っ込む。

「今日、朝起きたときから頭痛ひどかったんだけど、薬のんだらマシになったから、さっきちょっと買物に出たんだよ。そしたら、道端ですごい眠気がきちゃって。ふらっとその辺の壁に寄っかかったつもりが、そこ壁じゃなくて、鉄条網だったの」

「えぇっ、いッ……たぁい!」レイトは、縮めた自分の頸の後ろに両手を遣った。鉄条網の針に引っ掛けたのなら、あんなに血が出ていたのも頷ける。

「痛かったよぉ、あんまり痛くておかげで目が覚めたのはよかったんだけど、帰ってきて痛み止め飲んだら、朝も用量以上に飲んでたからか、急に気持ち悪くなっちゃって」吐いてた、と身振りで言って、蒼唯はクローゼットの扉を開けた。着替えて受付に向かうつもりなのだろう。レイトはそれを慌てて止めた。

「蒼唯ちゃん、今日は寝てなよ。受付の仕事はおれが誰かに代わり頼んどくから」

「大丈夫だって。戻したらだいぶ楽になったし」

「でも、そんな青い顔で受付にいたらダメだと思う」

「そこまで酷い顔色してる?」レイトはうんうんと大きく頷いた。「揺ちゃんが見たら心配するくらいには」

「……あの無神経が心配するってことは、結構ひどいのか」

「だからこれでも飲んで、今日は寝てなさい」持ってきていたスポーツドリンクをナイトテーブルの上に置いて、レイトはイチカのような口調で言った。

「はぁーい」蒼唯は子供っぽく返事をして、しぶしぶベッドに入ると、ボトルに手をのばした。ひとくち飲んで、はぁ、と息を吐き、今度は半分くらいまで、一気に飲んだ。

「さすがレイト、気が利くなぁ……ありがと」

「おいしかった? もう一本持ってこようか?」

 そう言って笑うレイトの顔を仰ぎ見た蒼唯は、しばらくそうしてレイトを見つめていたが、唐突に、両目から、涙を細く滴らせはじめた。レイトはわけがわからず、ただ、顔を歪めて泣く蒼唯を、見ているしかなかった。

「……おまえは、俺なんかより、ずっと……、正団員に、向いてるんだろうな……」

 心臓の音が、内側から拳で叩かれたような衝撃になって、レイトの体に伝わった。正団員になること。それはレイトがここ最近、ずっと考えていることだった。

「俺は……、……だめだ、ぜんぜん……、なれなかっ、……」

「え……?」

「正団員にも……なれなかったし……」額に両手を遣って、しゃくりあげながら、蒼唯は言った。

 どうして、なれな「かった」と、言うのだろう。正団員になるのに、時間制限があるなんて、聞いたことがない。いや、厳密に言えば、年齢という期限はあるのかもしれないけれども、蒼唯はまだ16歳だ。「エーシは、19のとき正団員になったって。そこまででも、もうあと3年もあるよ」

 蒼唯は、震える両手を顔から外して、濡れた横目で、レイトを見上げた。全て諦めたような目。なつかしい、壊れたおもちゃを火に焼べるような視線の、奥の奥に、表面の手触りとは全く違う、ある切実さが潜んでいる。秘められたその迫力が、レイトをたじろがせた。

「おまえは、恵まれてるから、わからない」と、蒼唯は言った。溢れた涙が、ゆっくりと頬を伝う。「俺が……、おまえだったら、……よかったのに……」蒼唯はさらに何か続けようとして口を動かしかけたが、それを飲み込み、ベッドに潜り込んでしまった。ふとんの下で、レイトに背を向ける。しゃくりあげに合わせて、盛り上がった肩の部分が震えた。

 部屋を出る直前、背後から、「ごめん」と声が届いた気がした。レイトは足を止め、ベッドを振り返った。もう泣き止んだのか、ふとんの山はぴくりともしていない。「ゆっくり休んでね」と囁いて、レイトは静かに扉を閉めた。

 それからレイトは大急ぎで非番の団員を探したが、こういう時に限って、みな外に遊びに出てしまった後で、誰も捕まらない。後はもう、給仕係の準団員の誰かに直接交渉するしかないと思い立って、レイトは開店15分前のロビーを覗き込んだ。イチカやクノに見つかれば大目玉を食うことになるのは承知の上だ。

 ほんの少し前に訪れたときにはまだ、レイトの知っているいつものロビーと変わりなかったはずなのに、シャンデリアに灯が入ったそこはもう、別世界だった。磨きこまれた家具や調度品の返す鈍い光、咲きこぼれる薔薇のしっとりとした光沢、濃厚なその香りや、楽器をチューニングする音の重なりなどという形のないものにさえ、光の粉が降りかかっているように感じられる。揃いの制服に身を包んだ見習い団員たちがきびきびと立ち働くたびに、空気が動いて、ロビーの方々がキラキラと柔らかく輝いた。

 そんな、どこもかしこも眩い空間の中でも、ひときわ目を惹く存在がある。受付のパソコンを覗き込んで、スケジュールでも確認しているらしい、華やかなスーツ姿の人物。静日(しずか)の横顔に、レイトは、釘付けにされた。伏せた目の、濃く長い睫毛。艶やかな亜麻色の巻き毛。陶器の肌。独特の、ウエストが高い位置で絞られた、やや女性的な印象のあるスーツは、きっと客からの贈り物だろう。

 レイトにとって静日は、昔から知っている、兄のような人だ。しかし今、レイトに気付いて、さりげない動作でこちらへ近づいて来るのは、レイトが「静兄」と呼んで慕う、いつもの彼ではなかった。一度だけ見た、客と、ベッドにいるときの彼とも、また違う。この国全ての娼妓の頂点に立つ、ザ・サーカスのスター、《静日》。レイトの前に立ったのは、その肩書きを全身で掲げた、美しい、男娼だった。

「何かあった?」静日は小さな声でそう訊いた。事情を話すと、すぐに給仕担当の見習い団員のひとりをつかまえて、受付係と代わってくれるよう話をつけてくれる。「もう大丈夫だから、レイトはすぐ上に戻って。早めに来るお客さんがいるかもしれないからね」

「うん。忙しいときに頼み事してごめん。ありがとう、」静兄。と、いつもの呼び方をすることが、レイトにはできなかった。

 レイトを見てにこりと笑いかけた瞳が、途中で、エントランスの方に向けられる。本当に客が早くやって来たのだろう。さざなみと、小鳥のさえずりのようなヴァイオリンの二重奏が、まるでずっと続いていたかのように、いつの間にか始まっていた。

「お待ちしておりました」非常扉の閉まる直前。客を迎える静日の、一瞬の、横顔の微笑みが、誰もが知っている名画のように、絶対的なものとして、レイトの目に焼きついた。

 自分の部屋に戻って、シャワーにかかっても、レイトの上がった心拍数は、しばらく治まらなかった。さっきの、静日のひと笑み。あそこには、色々なものがこめられていた。客に会えなかった期間の寂しさ。拗ねた心。憤り。それを一瞬で忘れさせる、再会の歓び。『あなたに会いたかった。あなただけに』――それを伝えるだけの技巧が潜んだ、完璧な微笑み方……。

 レイトは湯船に浸かって、湯気にけむった天井を見上げた。目を閉じると、蒼唯のしゃくりあげる声がまだ、耳の奥に反響している気がする。具合の悪い仲間の仕事を、ちょっと代わってあげることさえできない、今の自分。ザ・サーカスの準団員として、ただ養われている立場の《レイト》では、仲間と本当に苦楽を共にすることなんてできないし、彼らが困ったときに手を差し伸べることも、支えになることだって、できないのだ。

 そんな自分でいるのは、もう、嫌だ。

 俺はもう、一秒も子供でいたくない。

 震える手でどうにか体を拭いて、ガウンを羽織る。ナイトテーブルの端っこに、申し訳程度に置かれた母親の写真を睨みつけて、うつぶせに倒す。それから鏡台の前に行き、母によく似た顔を5秒、睨みつけてから、レイトは、部屋を出た。

inserted by FC2 system