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The Circus 本編1<レイト>
「イチカさん、俺の話を聞いてくれる?」急に人の減った食堂に、スズの声が微かに反響する。そこに残ったのは、スズとイチカ、そしてクノを筆頭に、レイトが《スズ》になることを知っていた団員達、合わせて7人だけだった。
「正団員になるっていうのは、俺が、自分で決めたことなんだ」
「あんたが決めたことじゃなければ、今頃あたしはここにいる全員を殴り飛ばしてるわよ」イチカは、重たそうにまつげを上げて、スズを見下ろした。「あんたの意志は関係ないの。ここにいる大人たちが、それを認めたことに、怒ってるのよ」
「みんな、認めたくて認めたわけじゃない。スイなんて、クノさんのこと殴ったんだよ。誰も好きでやったんじゃない。仕事だから、仕方なくやったんだ。貧乏くじ引かされただけだよ。だから、みんなのことは、責めないで」
「あんたたち、子供にここまで庇われて、恥ずかしくないの?」イチカは顔を引き攣らせて、室内の人間を見回した。みな黙って、イチカの言葉を受けとめている。
「そうじゃない! そうじゃないよ、イチカさん。俺が悪いんだ。俺が正団員になりたいって言ったとき、クノさんは、絶対ダメだって言った。そうやって、絶対に許してくれないだろうって、俺、予想してたから、……だから、卑怯なことも、酷いことも、いっぱい言ったし、……クノさんが、認めるしかないように、」言いさしたところで、クノが低く「スズ!」と呼んだ。「もういい。それ以上言うな」
「俺がクノさんを脅したんだ!」クノの制する言葉を振り切り、スズは、イチカを見据えて、言った。「俺が脅した。毒入りのチョコレート持って行って、正団員になること許してくれないなら、これを食べて、クノさんの目の前で自殺するって」
イチカは、信じ難いものを見る目で、スズを見た。にくしみさえ感じる目で。スズはそれを正面から受けとめた。足の指先に力を入れて、堪えた。
「今回のことは、俺以外、誰も悪くない。スイも、エーシも、静兄も、和ちゃんにとっても、クノさんの言うことは絶対だし……、クノさんは、許すしか、なかったんだ……」
◆
翌日の午後、食堂の手伝いを終えたスズは、嬰矢の部屋にいた。窓には全て、カーテンが引かれていて、その周りだけが茫々と明るい。昼を締め出した薄暗い部屋の雰囲気は、嫌いではないと、スズは思った。
「おまえ、昨日イチカに言ったこと、本当なのか」シャワーから戻ってきてすぐに、嬰矢はそれを口にした。先に湯を使ったスズは、ガウンを羽織った姿で、嬰矢のベッドに腰掛けている。
「嘘なのは、毒入りのチョコレート、ってとこだけ」スズは答えて、部屋履きの爪先を上下に動かした。「クノさんに見せたのは、ただのチョコレート。泥で汚して、ジップ付きの袋に入れて、……あの人が、ブランコのところにぶちまけたチョコレート菓子みたいに見せかけただけ」
「それをわざわざ準備して行ったのか? 恐れ入るな、全く」嬰矢は、呆れ顔で笑った。
イチカは、昨日、スズの告白を聞いた後で、黙って、食堂を出て行った。その後の仕事を休んだりはしなかったようだが、今日は朝昼と食堂に顔を出していない。
「俺、イチカさんのことも、傷つけちゃった……」
「……気持ちが揺らぐか?」
「ううん、揺らがない。……から、余計に……、これからも、ずっと、イチカさんに嫌な思いさせていくのかなって……」
「もう、ここで正団員になるって決めたんだろ?」
「うん」
「なら、仲間を傷つけることを、恐れるな。イチカだけじゃないぞ。俺たち全員、おまえに気を遣われるほどヤワじゃない」嬰矢はしゃがんで、ナイトテーブルの下に内蔵された、簡易冷蔵庫を開ける。
「エーシは、……俺が働くの、ほんとはどう思ってるの?」
「わからない」嬰矢は言って、愛用の、カロリーオフのスポーツドリンクを一本、取り出した。「嫌ではない。けど、積極的に喜ぶ気持ちにもなれない、ってとこかな……。気持ちいい答えができなくて、ごめんな」そう言って、スズが座っているのと逆の側に、腰を下ろした。背中と背中の間には、だいぶ広い空間があるのに、風呂上がりの嬰矢の方から、暖かい空気が、スズのガウンの背にまで伝わって来た。
「俺は、独り立ちする直前まで、親元で育ったからさ……子供の頃から娼妓やってる奴の気持ちも、娼館で生まれた奴の気持ちも、どうにも、想像し難い」
「……そういえば、聞いたことなかったけど、エーシは、何で、団員になったの?」
「スカウトだよ。パーティ会場で、クノさんに偶然会って、そんときに」
「それまでは?」
「学生。で、生活費稼ぐために、ダーツやってた。クノさんと会ったそのパーティにも、余興で、ダーツの技見せるために呼ばれたんだ」
「じゃ、クノさんのこととか、それまで何も知らなかったの? 移動娼館のこととかも」
「移動娼館ってモンの存在は知ってたけど、自分には一生、縁のない場所だと思ってた。客として行ってみたいと思ったこともなかったしな。《毒蛇》については、そう、何も知らなかった。名前さえ聞いたことがなかった。だからクノさんに声掛けられたときはさ、若くて傲慢な権力者の色男にケツ狙われちまったんだと思って、小兎ちゃんになった気分だったよ」
「それでスカウトされて、すぐに団員になるって決められたの?」
「うーん、そうだな、あんまり悩まなかったような覚えはある。俺、それまで大した経験なかったから、男娼って仕事について、あんまよくわかってなかったんだよな」
「エーシ、昔からモテなかったんだね」
「おまえは相変わらず辛辣だなぁ」眉を集めて、嬰矢は飲もうとしていたペットボトルから、一旦口を離した。「まぁ、その通りだけどさ。生活も、逼迫してたわけじゃねぇけど、豊かなわけでもなかったし、セックスするだけで大枚稼げて、大学も卒業できるなんて夢みたいな話じゃねーかって、割と打算的に入団決めたんだ」言い終わってから改めて、喉を鳴らしてスポーツドリンクを飲む。
「……夢の入団、だね」
「うん?」
「クノさんはきっと、そんな風に、大人になってから、自分で決めて入団してくる人たちだけの、ザ・サーカスをやりたいんじゃないのかな」
嬰矢の喉仏が、スズのその言葉を聞くなり、ぎゅっと引っ込んだ。
どうして、スズは、こんな風に育ってしまったんだろう。子供が考えなくてもいいことに気を回して、気付かなくてもいいことに心を痛めて。かわいそうだと、思ってしまいそうになる。レイトはただ、そういう、聡い人間で、だからこそ、スズになった。それだけのことなのに、それが、悲しい。彼が彼であることが、悲しいと感じてしまう。
「スズ」嬰矢は、自分の感傷を切り捨てて、もうすぐ客の前に出る、仲間の名を呼んだ。
「うん?」スズは嬰矢の方へ顔を振り向けた。
「キス、」顎を少し上向けて催促する。
「うん」ベッドの上に膝立ちになったスズは、嬰矢の頸まわりに、するりと両腕を回してきた。舌を絡め合いながら、嬰矢は、スズのガウンの紐を解いた。
「ほんと、上手んなったな、スズ。気持ちいいよ」脣と、両手でされる愛撫を受けながら、嬰矢もスズの、吸いつくようでいて滑っこい肌をまさぐって楽しんだ。「最初ンときは、ケツにまでびっしり鳥肌立てて、体も力入り過ぎてガッチガチで、触ってて笑っちまいそうだったのになぁ」
「笑っちまいそうじゃなくて、思いっきり笑ってたよ。俺、真剣だったのに」
「今はちょうどよく力抜けてて、いい感じだ」
「エーシが好きな感じに、調節して緩めてるんだよ」
「そりゃありがとう。けどおまえ、もうデビュー決まってんだから、これは訓練じゃなくって遊びだぞ。俺も自分の快感優先するし、おまえもそうしな」
「うん。でも俺、エーシの手加減してないセックス、知らないから」
「ああ、そうだっけ」嬰矢は目を細めて、蠱惑的な笑みをつくった。「いいけど、本気でやめて欲しいときは、ベッド叩いて知らせろ。それ以外は、泣こうが騒ごうが暴れようが、とことんやるからな」
スズは、まだまっさらなシーツを「こう?」と平手でポンポンと叩く。「なにするの? 縛ったりとか、そういうの?」
嬰矢は、スズをベッドに仰向けに転がした。はだけたガウンも剥ぎ取って、自分も裸になる。「そんなのよりもっといいこと。つうか、実年齢が15になるまでは、SMとかクスリは軽いのでも禁止だからな。それは守れよ」
「うん、わかってる。約束します」スズは真面目な顔で頷きながら、嬰矢の腹筋を、いやらしく、指先で下の方へなぞって仕掛ける。
「いい返事だ」嬰矢もそれに乗って、落ち着いた大人らしい声でそう返しつつ、スズの膝を掴んで、大きく外側へ開かせた。
◆
嬰矢の部屋を出てきたスズの足の運びは、ぎくしゃくとして、今にも転びそうだった。
足の付け根が、緩んでぐらついている感じがする。簡単にしか後始末をしていないから、歩くと、まだ腹の中に残ってる液体が、ぐちゅぐちゅと音を立てるのがわかった。スズの頬にはまだ、情事の熱が残っていた。
射精なしに達することは、スイに教えられて、何度か経験していたが、あんな、恐怖を感じるほど深く遠いところまで連れていかれたのは初めてだった。思い返すと、さっきまで嬰矢の太いので満たされていた部分が、焦れるように収縮する。
角を曲がって、自分の部屋が近づくと、スズは小さく、息を吐いていた。やっぱり、俺、緊張してたのか。今さら気付いて、少し、笑ってしまった。鍵をかけて出たつもりだったが、掛け方が甘かったのか、単純に忘れたのか、部屋の戸締まりができていなかった。大して気にもせず、中へ入り、戸を閉める。
シャワーを浴びようと思って、クローゼットを開けたときだった。背後に気配を感じ、何気なく振り返ろうとした瞬間、口を塞がれた。布を詰め込まれ、その上からテープを貼られる。両手も粘着テープで後ろ手に縛られ、顔を正面しか向けぬように固定されたまま、スズはベッドの上に引き摺り上げられた。
「本当にこいつか?」後ろから、抱きしめるように自分の体を固定している男が、声を発した。スズは、その声に、微かな東のイントネーションを聞き取った。「10歳のガキだったんじゃねーのかよ」別の男の声。やっぱり、東部訛りがある。
「見た目は14、5歳くらいに見えるって、報告上げといたはずだけど」
答えたその声に、スズは、全身を強ばらせた。それは、スズがよく知っている声だった。固定された視界の中に、その人物が、自ら回り込んでくる。
「なんて顔してるの、《スズ》」
見たことのない、酷薄な顔で笑っている。けれどもそれは、どう見たって、スズの友達の顔をしていた。どんなに頭で否定しようとしても、何度瞬きを繰り返しても、それは、ザ・サーカス見習い団員の、蒼唯、だった。