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The Circus 本編1<レイト>

 海辺の町にスズを残して、ザ・サーカスは、首都へ興行場所を移した。

 検査や治療、面倒なカウンセリング、空いた時間は勉強と、教養のための読書や映画鑑賞にあてて、毎日あれこれ忙しくしているうちに、スズがデビューするはずだった興行初日も、いつの間にか過ぎ去っていた。

 かなり酷い状態だった手首と足首の擦り傷は、わずか2週間ほどで、ほとんど痕も残さずに治っていた。これに関しては、主治医も首をひねるほど早い治癒だったらしい。「きみの体の成長が早いことと、何か関係しているのかねぇ」などと、医者らしからぬ曖昧なことを言って、年寄りの主治医はしきりに感心するばかりだった。

 体力の回復が早かったことから、予定を早めて行われた最初の手術も、無事成功した。後は、損傷した括約筋の補強手術と、必要な場合は、見栄えの整形手術を終えれば、再び見習い団員として、ザ・サーカスに戻ることができる。

 入院から、1か月。スズはベッドに横になって、枕の上に広げた本を読んでいた。窓から直接陽は射さないが、部屋の中はじゅうぶんに明るい。室内の気温が上がると、つい先日、静日が送ってくれた薔薇の、みずみずしい香りが部屋じゅうに広がって、スズの気持ちも明るくなった。

 今読んでいる本は、季節の肴の作り方と、それに合う酒を写真つきで詳しく解説してある分厚いもので、これは和の蔵書であるらしい。ところどころに、見覚えのあるかわいらしい字の書き込みがあった。真ん中あたりのページまでくると、同じ根もとから生えた大小ふたつの四葉のクローバーが、押し花になって仲良く眠っているのに、スズは気づいた。

 静兄と、和ちゃんみたい。

 スズは口もとを綻ばせ、それから押し花を傷つけぬよう慎重に、ページを繰った。

 医師と看護師のほかに、スズの個室を訪れるのは、彼の希望もあって、クノとスイのふたりだけだ。彼らは、だいたい週に1度のペースで、首都から車を飛ばしてやってくる。忙しいのだから、そんなにしょっちゅう来なくても大丈夫だと、スズが何べん言っても、ふたりは同じように口先で「わかった」と言うだけで、通いのペースを変える気はないようだった。しかもほとんどの場合、それぞれ日をずらして、別々にやってくる。スズの元には、週に2度の見舞い客と差し入れがくる計算だ。それもたぶん、話し合ってそうしているのだろうと思われた。

 おかげでスズの部屋には、生花が絶えることがない。差し入れの本も、枕の両脇からサイドテーブルの上、部屋の隅の書き物机と椅子の上にまで、山の連なりのように積み重なっている。新しいものもあるが、そのほとんどは、ザ・サーカスの誰かの持ち物で、持ち主からの見舞いのメッセージが添えられているものも多かった。本の山に囲まれていると、ザ・サーカスの気配に包まれているみたいで、何となく落ち着く。このまま、病院の廊下を歩いていけば、みんながいるザ・サーカスの食堂に辿り着けるような、変な安心を感じる。

 それでも、孤独を実感する瞬間はある。例えば、静かな昼間に、少ししか開かない窓を開けて、ひとりでストレッチをしているとき。窓の下の中庭から、子供のはしゃぐ声や、それを諌める大人の低い声が聞こえてくることがある。安全な空間で、故郷の気配に囲まれていても、本当は、遠いところでひとりぽっちなんだと、そういうときに、思い知る。

 でも、ひとりだからこそ、つらくても平気だった。寂しさに泣こうが、嫌な夢を見て飛び起きようが、調子が悪くて不機嫌になろうが、誰に気兼ねすることもない。

 孤独は、自由だ。

 ただ、生まれたときから、周りに人のたくさんいる環境で暮らしてきたスズにとっては、今の自由さはそんなに素敵なものとは思えなかった。ひとりきりの食事や、誰の手伝いもしないで一日を終えること。自分の行動が誰にも影響を与えなくて、誰かの行動で自分の時間が変形することもない。そんなの、死んでる人とまるで同じ状態じゃないか。そんな風にさえ思える。

 人声が聞こえると外に出たくなってしまうのは、そのせいだ。誰かと関わりたい。何でもいいから会話をしたい。

 とはいえ、そんな欲求に負けるスズではない。もう、自分がザ・サーカスのスズだという自覚は、持てるだけ持った。こんな目に遭っても持てなかったら、そいつはこの先、死ぬだけだろう。このフロアから勝手に外に出てしまえば、大勢の人間に要らぬ心労と迷惑をかけることになるのも、明白だった。

 スズは意識した呼吸をして、気を落ち着かせ、窓を閉めた。動いていた空気が止まり、本から立ち上るザ・サーカスの気配が強まる。

 知らない人にだって平気で話しかけることができた、ほんの少し前の自分が、なつかしかった。


     ★


 結局、スズが退院の許しを得るまでに、3回の手術と、4か月という時間が必要になった。それでも、当初、医者から言われていたのより、2ヶ月も早い退院だった。

 夏も間近の6月。

 ザ・サーカスは、首都での興行もとうに終え、北西部の興行を挟んで、現在は、中部の古都ケーテンに場所を移している。

 退院の日、スイは、立派なベッド付きのキャンピングカーで、スズを迎えにやって来た。元気になったから退院するのだというのに、過保護もいいところだ。スズは内心で呆れたが、表には出さずに礼を言った。それだけ、今回のことで、スイには心配をかけたということだ。早く元気なことを実感してもらって、安心させたい。スズは心からそう思う。

 スイと一緒に、揺も、迎えに同行していた。この4ヶ月間で、見違えるほど、顎周りがシャープになっている。ザ・サーカスの団員にしては素朴な雰囲気があることを売りにしていたから、以前は眉もほとんど手を入れてなかったのに、今はそれとなく整えているようだ。もみあげの辺りの産毛も、きれいに処理されていた。

「荷物、忘れものない?」揺が、急にこちらに顔を振り向けたので、密かに彼の横顔を観察していたスズは、愕きを喉の下に押し込めた。

「うん」と返事をしながら、一番近くにあったバッグを覗き込み、チャックを開け閉めしてみせる。「もう3回も確認したよ。スイ、どこ行ったんだろ」

「支払いとか色々あるみたいだから、もう少し待ってよ」

「帰るの、ちょっと、緊張するなぁ……」

「大丈夫だよ。みんな、もう、消化できてるから。……イチカさんも」

「……うん。ありがと、揺ちゃん」

 揺は、微かに眉尻を下げて、淡く笑んだ。

「…………な、……スズ、」遠慮がちに、揺は口を開いた。「……蒼唯のこと……なんだけど、……」

 わざわざ、スイについて来たのは、その話をしたかったからだろう。スズにも、それはよくわかっていた。

「うん」揺の目を見て、スズは頷く。揺も、ひとつ、頷いた。

「俺……、いや、俺だけじゃないと思うけど、……蒼唯が、親に虐待されてたってのは、知ってたんだ。……そういうの、うちではそんな、珍しくないし、……傷痕とか、普段の態度とかで、ある程度、想像はつくから……」

 スズは、気付かなかった。

 いつも、何にも、気づけない。全部、その本人の口から、言葉が出てくるまで、気づくことができない。今回だって、蒼唯の絶望の牙が、はっきりと自分に対して剥かれた瞬間まで、スズは彼の苦しみを、想像もしていなかった。

 だけど。

 自分の過去をさらけ出し、一度は《スズ》を殺すことを選んだ蒼唯に対して、あのとき、友達として、自分ができる限りのことは、したと思う。それがスズの、蒼唯の告白を聞いた日の自分に対する、評価だ。

 それでも、もちろん、後悔はある。

 あの日、視界を奪われる直前に見た、恐怖に震える蒼唯の表情を、スズははっきりと、覚えている。あのとき、自分にできることは、全部やったと言い切れる。けれど、その「自分にできること」は、あまりにも少なく、貧弱だった。ほとんど、何もできないに等しいくらいに。

「……けど、俺、あいつが……、ラーテルの、幹部の子供だった、っていうのは、……もちろん、全然、気付きもしなくて……」

「それは、クノさんだって、気付けなかったんだよ。仕方がないよ」

「……そう、なんだけど、……でも、蒼唯と、いつも一緒にいたの、俺、だったのに、……」

 揺の言葉は、その辺りをうろうろするばかりで、なかなか、核心に触れようとはしなかった。彼は、蒼唯の親友だ。親友が間者だったとか、仲間を殺そうとしただとか、そんな話を、聞きたいわけがない。

「あの、……ごめん。やっぱり、何でもない。その、……あ、喉、渇いてない? 何か買ってこようか?」揺は、自分の訊きたいことを口に出さず、それで誤魔化そうとした。実際に暴行を受けたスズを目の前にして、加害者側の人間かもしれない蒼唯の話をするのは、躊躇われたのだろう。揺らしい。スズは、優しい気持ちになって、言った。

「大丈夫。あのね、揺ちゃん。蒼唯ちゃんは、暴漢が店に入り込んでることに気付いて、俺を助けに来てくれたんだよ」

 揺の表情が、それを聞いてようやく、少し緩んだ。100%の真実ではなかったけれど、蒼唯がスズを見殺しにできずに、助けに入ったのは、本当のことだ。

「信じても、いいのか……?」揺は、注意深く、スズを案じる顔を保って、そう言った。スズは、「俺が生きてるのが、証拠だよ」と笑った。揺は目を瞑って、長い、長い、安堵の息を吐いた。きっとこの数ヶ月間、ずっと緊張していたはずの硬い背中を、スズは、優しく抱き寄せた。

「あいつ……、父親に、連れ戻されたんじゃ、……ないよな、」スズの肩口に軽く頭を乗せるようにして、揺が、不安定な声を出す。

「違うよ。今は、クノさんの知り合いの、安全なところにいるって。《毒蛇》が味方なんだよ。絶対、もう二度と、百目なんかに捕まったりしない」

「そう、だよな。…………よかった……」揺は、洟をすすって、頭を上げた。真直ぐに、ちょっと赤い目で、スズを見る。「あのさ、レイト……じゃなくて、スズ、だな」

「うん」

「俺……本心では、おまえが正団員になんの、やっぱ、反対だったんだ。いくら見た目が大人っぽくても、実際はまだ、子供なわけだし、」

「うん」

「でも、違うんだよ。おまえがいない間、ちゃんと、考えたんだけど、……俺は、おまえが正団員になったら、売上で勝てる気、まるでしないんだ。だから正直、おまえにデビューしてほしくないって、そういう気持ちも、あった」揺は、ケンカの後みたいな、ちょっとぎこちない笑顔を見せた。「っていうか、突き詰めたら、そっちの気持ちの方が大きいんじゃねぇのって、気付いて……だっておまえ、俺と背丈もそんな変わらないし、賢いし、普段からおまえのこと、年下だって思ってもないしさ」

 揺の、ごまかしの一切ない言葉に、スズは、喉の奥が熱くなるのを、感じた。

「だから、そんな考えで反対するのは、最低だって、思ったんだ。そもそも、俺たちの仕事って、勝ち負けじゃないもんな。だから俺、おまえに勝てる気は、どう前向きに考えようとしたって、やっぱりしないんだけど、……でも、おまえが正団員になってくれたら、すごく、店のために、なると思う。これからは、……いや、これからも、一緒に頑張ろうな、スズ」

「うん……!」

 これから「も」、と、揺は言い直した。その、たった一文字で、揺は、ザ・サーカスから消えてしまった《レイト》という少年のことを、覚えていると、彼もまた、大事な仲間だったのだと、スズに伝えた。

 スイの足音と鼻歌が、廊下を近づいてくる。

 スズと揺は互いの目を見交わして、さっと目許を拭くと、荷物を手に、立ちあがった。


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