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The Circus 本編1<レイト>

 興行が終わってから移動日までの食堂は、昼時でも、外に遊びに行く者が多いために空いている。午後1時過ぎの食堂にスイが顔を覗かせると、中央の席に悠々と陣取った肖が気づいて、「あれ、出かけなかったの? 珍しい」と声を掛けてきた。休日らしく、短い髪には寝癖がついたままだ。

 同じテーブルには綾もいるが、こっちはスイには目もくれずに、自分の豪華なデザートを平らげていた。この野郎、挨拶ぐらいしやがれ。そう思ったのとほとんど同時に、水を飲むついでのぞんざいな視線をスイに向けてくる。

「スズなら来てないよ」目と同じくらい冷ややかな声で、綾は言った。

「はァ?」スイの苛立ちはそのまま声に出る。しかしそれにも、「探しに来たんじゃないの?」とますます冷え切った声が返ってくるだけだった。スイは、図星をさされたバツの悪さもあって、「俺が飯食いに来たらいけないのかよ」とぼやきながら、厨房の和のところへ行った。

「静日が、あとで様子見に行くって」和は、スイにだけ聞こえる声で、低くささやいた。曖昧に頷き、彼はとっておきの、熟成肉のステーキを注文した。耳ざとくそれを聞きつけた肖が、厨房に飛んでくる。「和さん、その肉ってまだある? 俺も食いたいなぁ」

「おまえ、もうデザートまで食い終わってんだろ。この肉はなぁ、俺がこの日のために苦労して……」

「南部最優秀地区45年物の赤」肖はスイの言葉を遮って耳打ちする。そうして、食糧庫のワインストックから、ラベルの古びたボトルを1本持ってきた。

「これは幻の……!」恭しく差し出されたワインボトルのラベルを見るなり、スイの目が輝く。「くそう……、ガキのくせに、取引きってもんをよく解ってやがる。和ぅ、肉、こいつにも分けてやって」

「うふふ。もう半分に切っちゃったところ」そう言って和は包丁を置くと、鉄板にきれいに脂を引いた。半分にしたと言っても、成人男性が片手を広げたくらいの大きさはある。厚さも5センチほどと、なかなかのボリュームだ。「うっまそぉ!」肖は今にも涎を垂らしそうに口許を緩めて、肉を見つめている。

「ごちそうさまでした」厨房の盛り上がりを完全に無視して、綾は食器をカウンターに返し、そのまま食堂を出て行った。眇めた目でスイがそれを見遣っていると、「ガキかよ」と、肖が呆れ声を出した。

「俺に言ったのか」

「どっちもどっち」グラス2客とデカンタを手に、肖は厨房を出て、席に戻る。大事なボトルとソムリエナイフを抱えて、スイはその後を追った。軽く振り返った肖が、「仲直りのやり方くらい、義務教育中に身につけとけよ」と眉を上げる。

「別に、仲違いしてるわけじゃねぇよ」

「そうだな、どっちかっていうと、磁石の関係だよな」

「同じ磁極だと反発しあうって?」

「そ。性格似てるよ、あんた方」ナイフを渡された肖は、劣化したコルクを手早くきれいに開けて、デカンタになみなみとワインを注いだ。彼は貴族の出身で、入団するまではもちろん、給仕や使用人がするべき仕事など、何一つできなかった。この見事な手さばきは、見習い時代に、スイ秘蔵の高級ワインを端から開けまくって会得したものだ。

「俺はあんなにねちっこくて陰険な性格してねぇよ」

「そこはまぁそうだけど、愛したがりのくせに他人に踏み込まれるのは嫌、ってとことか、そっくりだよ」

 ドッと心臓が大きく打ったのを、スイは自覚した。案外、よく観察していやがる。だが、その一瞬の動揺を表に出すことなく、「なーに一丁前に分析してんだよ。全然だ。愛するより愛される方が楽だっての」と普段通りの調子で返す。

「嘘だぁ。好きになられて好きになるようなお人よしじゃねぇじゃん、あんたも綾も」肖の目は、デカンタの辺りに向けられている。古いワインの、枯れたような深い赤は、肖の肌色によく似合った。

 スイは、軽いふくれっつらのまま、鼻を鳴らした。肖の指摘は、くやしいが、どれも的確だ。

 いつでも、スイは、愛してきた。愛されることは二の次で、ただ、愛した。版画も、この仕事だって、そうだ。上手く愛せているか、そんなことは解らない。けれど、少なくとも、愛されるために、自分の尊厳を足蹴にしてまで媚を売るような、みっともない真似だけはしていないつもりだ。他人の愛を得ようとすることは、みにくい。男の愛を得ることしか考えていなかった母みたいに。初めて男の前で服を脱いだときの、自分自身のように。あんなみじめな思いをするのは、二度とごめんだ。

 だから、スズのことも、俺はただ、愛している。

 こんな日に、あいつが求めるのは、俺じゃなくて、静日だ。もちろんそれは役割分担というもので、今日、あいつが静日を求めたから、俺より静日の方が必要とされてるとか、そんな単純な話ではない。

 俺ができるのは、こんな愛し方だけだ。嫉妬さえできない。俺以外の男をあいつが求めても、俺はくやしくも何ともない。こういうことを、冷静に考えられるのも、俺がスズに、見返りを求めていないからだ。

 運ばれてきたステーキを、大きく切って、スイは口の中に詰め込んだ。ワインを飲んで、また肉を噛む。上等の脂と、紅葉しはじめた山の色のように複雑な風味のワインが混ざって、旨い。

 向かいの席で同じ肉を食う肖も、スイと同じくらい旺盛な食欲を見せている。彼は、スイが一生かかっても身につけることの叶わない、気品ある粗雑な食い方で、肉を口に運んでいた。入団当時から比べれば、酒にもずいぶん強くなったが、貴重なワインを水のように流し込むその姿にも、やはり、損なわれることのない品がある。

 何が彼の品を保証しているかと言えば、結局のところ、食事を心から味わって楽しんでいる、という点に尽きる。そしてそれこそが、育ちの違いというものだ。腹を満たすためにあるものを食う。そんな生活をしてこなかった人間にしか、あんな優雅な食い方はできない。

「あ、でも、決定的に違うとこあった」肖は少し食事の手を止め、口の中が空くのを待ってから、言った。「あんたは、良い人だよな」

「それ、綾が聞いたら怒るんじゃねぇの」

「別に褒め言葉じゃないだろ、良い人、って。綾が偏った自己中野郎だってのは、事実だし」乱暴な言葉で評するのは、遠慮のない友達だからこそだ。肖には、陰口を叩くという発想がない。

「まぁ、言われても嬉しくない言葉、っていうと、何かと『良い人』が挙げられてる気はするな。俺は今、割と嬉しかったけど」スイは、デカンタの残りのワインを、自分と肖のグラスに注ぎきった。

「それは、あんたがマジで『良い人』だからじゃない?」肖は悪い顔をして笑う。スイは眉を寄せた。「今のが褒め言葉じゃねぇことは解った」

「いや、今のこそが褒め言葉だよ」グラスを回しながら、肖は目を細めて、脣の端を吊り上げた。「今のが、初めての褒め言葉」

 ベッドではあられもない声をあげて、いつも俺を褒めまくってんじゃねぇか。下品なジョークを言おうかとも思ったが、グラスを回す肖の手つきを見て、スイは内心に留めておいた。安ワインならまだしも、こんな良いワインを浴びせられることになったら、貧乏性の自分はもったいないお化けにとり憑かれてしまうに違いない。


     ★


「スズ、食事を持ってきたよ」ノックの後に聞こえたその声に、スズは、無視を決め込むのをやめて、内側から扉を開いた。静日が、軽食とティーポットを載せたトレイを両手で持って、そこに立っている。

「ありがとう。ごめんなさい、あんまり、お腹、空いた気がしなくて。心配かけるつもりじゃなかったんだけど」今日は一度も鏡を見ていないことを思い出して、スズは、手櫛で髪を梳きながら言った。

「ううん。ぼくのおせっかいだから、気にしないで。迷惑かなとも思ったんだけどね、」

「そんなことないよ。どうぞ、入って」スズはトレイを受け取って、静日を中に招いた。

「ありがとう。そう、言ってくれるかなって思って、甘えてみたんだよ」

「俺、静兄に甘えられてるの? それって、すごい、……うれしいな」スズは、寒い日に雲間から射す細い陽光のように、笑った。

 ふたりは、応接間のソファに向かい合って座った。テレビには、ゴルフの試合の生中継が映っているが、音量は絞られている。静か過ぎるのが嫌で流しているだけで、この大会に興味があったわけではない。スズがテレビを点けるのは、特に最近では、そんな理由であることが多かった。

 クノは、昨日の夕方に、ザ・サーカスを出て行った。

 全団員が見送りに集まったロビーで、スズはあくまで一団員として、クノを送り出した。平均的な分量の挨拶と、平均的な長さの握手とハグを交わして、集団の中に紛れるように立って、見送っていた。

 静日が持ってきたトレイには、サンドウィッチやスコーン、彩りのいいサラダに、まだ湯気の立っているスープ、それにデザートの果物まであった。スズの好物のりんごだ。美味しそうな皿を見ると、スズは少し、食欲を刺激された。ほとんど丸一日、何も口にしていない。

「いただきます」

「めしあがれ」

 静日も、一緒に持ってきた、自分の分のスコーンを食べはじめた。時間を見て、二人分の紅茶を注ぐ。スズは幸せそうな顔で、紅茶に口をつけた。もう、それが自分を裏切らないことを知っている、リラックスした表情だ。

「静兄、俺ね、」最後の一滴まで飲み干してから、スズは口を開いた。「ちゃんと、別れられたよ。レイトではいられなかったけど、……クノさんの望む、スズとして、最後まで、ちゃんと……」

 ちゃんと、という、スズの言葉の意味を、ちゃんと理解しているのは、自分と、スイだけだろうと、静日は思った。それは、スズのクノへの気持ちが、恋愛感情であると解っている人間、という意味ではない。それならば、たぶん、気づいている人間はほかにもいる。

「ちゃんと」と厳密に区別したのは、自分とスイだけが、スズの片恋を、ほんの少しも軽く見ないで受け止めている人間だと思えたからだ。子供の思い込みだとか、たかが片想いだとか、そんな風に、スズの気持ちを片付けてしまえない。

 それだけ、自分たちがロマンティックな性質を持っているということだろうか。それとも、スズという人間を尊重しすぎているせいか。けれど静日には、スズ以上に尊敬できる仲間はほかにない。出会ったそのときから、この聡明で、自分よりずっと若い友人は、川の流れのような愛情を、当たり前のように注いでくれた。学んで、経験して、育ってゆくその姿から、逆に教わることも、いまだに多い。

「スズ、」静日は、友人の手を取った。うっすらと涙を滲ませた、美しい眼が、上向いて、静日をとらえる。

「ぼくは、きみがちゃんとやり果せるって、解っていたよ。きみがスズになったときから、……ううん、…………クノさんへの、きみの気持ちに、気づいたときから、……解ってた」

 スズは、声を出さずに微笑んだ。目のふちに盛り上がった涙は、こぼれることなくそこに留まって、いつしか彼の身の内に戻った。まるで、彼が最後まで伝えることのなかった、愛のように。

 こんなに、美しいものはない。

 静日は、スズの手をやさしく、しっかりと、握りこんだ。彼の感じているであろう痛みを、少しでも、吸い取ることができるように。いつか、彼の愛が再び溢れそうになったときには、そこに笑顔で受け止めてくれる誰かがいますようにと、そう、願いながら。


(本編1<レイト>・了/本編2<スズ>につづく)

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