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The Circus<スズ>

 帰り際に、昨日約束していた虎太郎の紅へのラブレターを預かって、真一朗は、新市街の並木通りにあるハチクヤビルに寄った。時刻は13時半。受付に顔を出すと、制服のシャツの胸もとがはち切れんばかりのグラマーな店員が、「紅くんはいま昼休憩中でぇ、おうちに戻ってまぁす」と、彼女特有の眠くなる口調で教えてくれた。

 裏に回って、住民用のエレベーターで7階に上がる。通路の突き当たりが、紅と弓助の愛の巣だ。玄関の呼び鈴を押して待つと、鍵の外れる音はすぐに聞こえたが、人が出てくる気配がない。真一朗は、自分で扉を開けて中に入った。家の中には、チーズのいいにおいが漂っている。

「紅さんにお届けものでーす」紅色の大きな封筒を掲げて、真一朗はキッチンに顔を出した。テーブルでニョッキを食べていた紅が、口をもぐもぐさせながら、フォークを持っていない方の手で、空にクエスチョンマークを描く。

「おまえの訪れを待ちわびる男からのラブレター」真一朗が机に置いた封筒を、紅は、不思議そうに取り上げた。口の中にあるものを飲み込んでから、「なぁに?」と改めて口に出して、入っていた画用紙を開く。その瞬間。

「かッ…………わ……っ!」うめき声と共に、紅はじたばたしはじめた。画用紙には、丸と点と線だけで構成された、顔らしき図形が描いてある。絵の下には、『だいすき べに』という歪な文字も書き入れられていた。

「ああもうっ、かっわい……かわいすぎるトラタ、俺もだいすきトラタだよぉ!」紅はとろけそうな顔でその絵をそっと抱きしめ、キスする格好をしてから、改めて、虎太郎が大好きな濃いオレンジ色で描かれた自分の肖像画を、ぴっかぴかの笑顔で眺めた。真一朗はそれを横目に、食器棚から勝手にグラスを出してきて、紅の向かいに座る。

「これ甘いやつ?」机上の炭酸水の壜を掴む直前に、真一朗は訊いた。

「ううん、普通の」それで安心して、自分の分をグラスに注ぐ。真一朗は、チョコレート以外の甘いものが、あまり得意ではない。甘い飲み物は、中でも特に苦手だった。

「あれ、でもなんで真さんがトラタのおつかいしてんの?」紅はようやくそのことに思い至ったらしい。

「ザ・サーカス帰りだから」真一朗が答えると、紅はもとから人一倍大きな目を、さらにひとまわり大きくした。「えっ、真さんまた娼館通いはじめたの?」

「いや、取材」

「…………って……、それって、取材対象、スズ?」声の調子は疑問形だが、紅の表情は、もうそれを確信している顔だった。

「よくわかったな」

「そりゃ、一昨日の今日でザ・サーカス行ったってんなら、原因はスズしかないでしょ」

「通ってんのは昨日からだけどな」

「早業だなぁ」紅は呆れ半分という顔で笑った。「まぁ、でも、よかったね。とりあえず、新作書こうって気になっただけでも、めっけもんじゃん」

「ふたりが出会うとき、確かに、何かが起こった、って感じかな、俺としては」

「いかにもどっかの三流作家が好きそうなフレーズだなァ、自己中的運命論つーか」真一朗の背後から、完全にバカにした節回しの声が湧いた。振り返ると、相変わらずの派手な衣服に身を包んだ弓助が、ダイニングキッチンに入ってくるところだった。

 ちなみに今日の弓助の格好は、形こそまともだが、色味や素材感の違う様々な緑色がモザイク状に組み合わされた、パッチワークデザインのスーツに、赤みの強いピンクが基調の、複雑なチェックのシャツ。ちらりと覗く黄色いウエストコートの柄も、こちらは線の太い、単純なチェックだった。靴は白い鞣革のスリッポンで、これも型押しの格子柄。サングラスのリムまで金銀のチェックで揃えている。

「なんだおまえ、いたのかよ」真一朗はわざとらしく目を薄くして言った。

「俺の家なんだからいつだって好きなときにいるさ」弓助はそう言うと、紅の皿を覗き込んで、ニョッキをひとつ、手づかみで摘み食いした。ソースが垂れそうなものだが、なぜかきれいに食えてしまっている。

「ちょっとボス、手ぇ洗った?」弓助は適当に頷いて、紅の隣の椅子に座る。「これうっめぇ。ソース、ブルーチーズに……きのこはセップか?」

「そう。先生が、仕入れすぎたからってさっきくれたんだ。ブルーチーズ残ってたし、お試しでちょっと作ってみた」紅は、フォークに掬ったニョッキを、「あーん」と言って弓助の口に持っていく。素直に口を開けて食わせてもらってから、弓助は、料理の味を褒め、紅の料理の上達を褒め、ついでに紅本体のかわいさまで褒めた。幼なじみと、昔好きだった相手の、人目を憚らぬラブラブっぷりを至近距離で見せ付けられ、真一朗の遠くなった目の際が、断続的に痙攣する。

「いちゃついてる暇があるんなら、とっとと打ち合わせしてぇんだけど」真一朗はテーブルに頬杖をついて、遠くを見たまま低くぼやいた。

「なんだおまえ、トラの使い走りで来たわけじゃなかったのか」

「あ……っのなぁ……、来春のお化け屋敷の脚本について話あるから来いっつったの、おまえだったと思うんだけどな」おまえ、の部分に、嫌味な調子のストレスを置いて、真一朗は言った。そのときによって関わりの程度に差はあるが、真一朗は、お化け屋敷ハチクの演出や脚本に、開店当初から携わっている。

 弓助は紅のコップで炭酸水を飲んでから、「ああ、それだけど、今度はおまえに全部任せてみようかなと思ってさ」と、事もなげに言った。

「ハァ? 俺が超絶スランプ中だって知ってて言ってんのか」

「長編小説が、だろ。掌編だのエッセイだのは普通に書いてんじゃねぇか」

「普通じゃねぇよ、ヒィヒィ言って捻り出してんだよ。だいたい、ここのシナリオなんてなぁ、イチから全部ひとりでやろうと思ったら、長編一本分くらいの労力、余裕でかかるだろうが」真一朗の額に、青筋が浮かぶ。

 お化け屋敷ハチクの一番の売りは、季節ごとに変わるシナリオだ。怖いだけではなく、深読みのできるストーリーに、さりげなく謎解きが隠されていたり、どんでん返しがあったりするのが人気で、さらに、登場人物(たいていの場合は幽霊だ)の造形が魅力的であることも、リピーターの多い理由の一つだった。脚本家は、責任重大なのだ。

「書けない作家の糊口をしのがせ、チャラついた恋愛小説家にホラーという新境地まで用意してやる俺のこの優しさを、どうしてすんなり受け取らねぇかなァ」

「今までチーム組んでつくってた脚本を、いきなり俺に、調子の悪いこの俺ひとりに、押し付けようって魂胆がわかんねぇよ」

「魂胆だァ? そんなん、経費節減に決まってんだろ」

「出たよ本音。だったらテメェで書きゃいいだろ、今までだって原案は全部おまえなんだから」

「あのなぁ、春公演の脚本だぞ。草木が芽吹き花が咲き乱れる、お化け屋敷とは一番折り合いの悪ィ季節だ。それをおまえの腕に任せるつってんだから、文句ばっか言ってねぇでやる気見せろよ」

「ハイハイ、読めた読めた、客足伸びなさそうな季節のシナリオ書かせて赤字の責任押し付けようってわけだ」

「どうでもいいけどふたりとも、脚本が遅れたら遅れただけ、役者や美術や宣伝その他大勢のスタッフが大変な目に遭うってこと、忘れないでね」今まで黙っていた紅が、ぴしゃりと恐いことを言って立ち上がった。食器を片付け、2人分のコーヒーを淹れたと思ったら、それをテーブルに置いて、さっさと仕事に戻ってしまう。食卓に残された、いい年をした幼なじみ同士は、短く目を見交わした。

「……そういや昔、おまえのこと尻に敷いてやりてぇって言ってたな、あいつ」真一朗は笑って、コーヒーを啜る。

「あんなイイ尻に敷いてもらえんなら、便座にだってなりてぇだろ?」弓助は平気な顔でのろけてみせた。


     ★


 真一朗が帰っていってから、スズは、浴槽にたっぷりと湯を張って、花のにおいのするバスソルトを溶かし込んだ。本当はもっとハーブっぽい、安眠効果のありそうな香りを選びたかったが、肌ににおいが染み付くので避けた。仕事のある日は、幕開けの客の顔を思い浮かべて、香りを選ぶ。その程度の計算は、スズだけではなく、ザ・サーカスの正団員なら全員、ほとんど頭を働かせることなく、当たり前にしていることだった。

 磨硝子で柔くなった陽があちこちで遊ぶ、明るいタイルの浴室は、居心地の良い自分の部屋の中でも、特に気に入っている場所のひとつだ。

 なのに、今のスズの顔といったら、眉間には皺が寄り、顔の筋肉はあちこちで緊張していて、どう見たって楽しそうではない。

 伊木真一朗。

 原因は、あの男だ。

 両手で掬ったお湯を顔にぶつけて、スズは、透き通った薄桃色の湯の面を睨む。

「レイト」と、真一朗が呼ぶ声が、まだ、耳に生々しく残っていた。たった15分の間に、いったい、何回呼びやがった。

 零からの、人間。

 役立たずだった、子供の名前。

 一対一で会って話すときに、わざわざ相手の名前なんて呼ばなくたって、いくらでも会話できるだろうに……。苛立ちを散らすように、スズはもう一度、湯を、顔にぶつけた。足りない。今度は強く目を閉じて、勢いよく、湯に顔を沈める。少しずつ息を吐き出すと、泡が顔面を転がって水面に逃げてゆく。

 冷静になってみれば、べつに、伊木真一朗から、何か非礼を受けたわけではない。苛立ちの原因はあの作家にではなく、自分にこそあるのだ。取材を許可したのも、本名を教え、その名で呼ぶことを許したのも、自分なのだから。自分で選んだことには、何の言い訳も使えない。そう……、昔、俺にそう言ったのは、誰だったろう。スイだったっけ……。

 スズは風呂から上がると、髪を念入りに乾かしてから、3時間後に目覚まし時計のアラームをセットして、自分の寝台で眠りについた。いつものように、アラームが鳴る寸前に起きて、今度は、今日の仕事開始時刻の30分前にアラームをセットしなおした。書斎の文机にノートパソコンを出して、電源を入れる。

 スズは先年度から、ティリャサン王立大学の経済学部経営学科に在籍している。王立大学では、通学や、通常の時間に講義に出席することが困難であると認められる場合、電子網を通じての講義の聴講や課題の提出で、単位取得が可能だ。スズの場合、とにかく講義を聴く時間を作ることが大変で、どうにか2年かけて、第1学年での必要単位数を取得できた。卒業できるのは、このままのペースでいけば、6年後だ。スズは、大学のサイトにログインすると、必修科目の講義の動画を選んで、ヘッドフォンを着けてから、再生ボタンを押した。ノートを開いて、メモを取る体勢になる。

 6年後、自分は27歳――きっとまだ、その頃には、ザ・サーカスの正団員でいるだろう。普通の娼館ではあり得ないことかもしれないが、この店では20代後半でも、まだまだ花の時期、稼ぎ時だ。静兄は、30歳を超えた今でもまだ、売り上げ上位の人気団員なのだから、俺もそんな風に――握っていたペンの尻で額の真ん中をぐりぐりとつついて、スズは学業に関係のない思考を中断する。それにしても、必修の講義に限ってこうもつまらないのはなぜだろう。スズはノートを閉じた。講義の動画の上に新しいテキストファイルを開いて、来週締切のレポートに取り掛かった。

 それからアラームが鳴るまで、スズは一度の休憩も挟まずに、レポートをひとまず書き上げた。正確な数字が必要になる場所は、明日、資料を当たり直そうと決めて、デスクトップにファイルを保存した。電源を切ると、学生の顔も一緒に、机の奥に仕舞い込む。

 浴室に入って服を脱ぎ、男に抱かれるための自らの体を、念入りに整えてから、シャワーを浴びつつ、今日の段取りを頭の中で確認する。今夜訪れる予定の客は、18時から21時までと、21時半からの泊り客の、2人だけ。まずは幕開けの客のための香水を選び、服を選んで、髪をセットした。寄木細工の、開けるのに手間の掛かるからくり仕様の小物入れや、ハーブのポットが置かれたドレッサーの鏡には、レポートに追われる学生の姿など、決して映らない。そこにいるのはいつだって、ザ・サーカスの《スズ》だ。

 スズは部屋を見回し、ナイトテーブルに生けられた花が、昨夜のままであることに気づいて、それを洗面所に移動させた。花びらがフリルのようになった、珍しい品種の黒百合は、スズは好きだが、今日一番にやって来る客の好みではない。スズはすぐさま部屋を出て、エレベーターで1階に降り、重い玄関扉を開いて、むせるように濃い、暮色の中へ出た。

 玄関前のロータリーの中洲に、円形の、薔薇の咲き乱れる庭がある。スズは、夕焼けの色に染まった敷石の車道を渡って、蔓薔薇のアーチが見事な、短い階段を駆け上がった。中には、この庭の管理を引き受けている、静日の姿があった。咲き終わった花を切り落としているようだ。

「静兄、ちょうどよかった、薔薇少し分けてもらえる?」

「もちろん。好きなの持っていって。はい、」静日は、持っていた鋏を、スズに渡した。

「ありがと」スズは、盛りを過ぎた花ばかりを数本、持ち手のところだけ棘を落として、短めに切った。「花を飾るんなら、もう散りそうな庭の薔薇を飾ってほしい、だなんて、なんだかいじらしくって、愛おしいよね」それは、今日最初に来るはずの客が、以前、スズに言ったせりふだった。

「この前は、まだ固いつぼみが好きな人は魅力的だ、って言ってなかった?」と、静日は笑った。

「惚れっぽいからな、俺」スズは照れ笑いを浮かべて、鋏を静日に返した。「そうそう、トラタの絵、伊木先生が今日、紅のところに持っていってくれたよ」

「ああ、ごめんね、ありがとう。伊木先生にも改めて御礼と謝罪をしないとね。ほんとトラタは、あんな有名な先生を使い走りにしちゃって」

「静兄と和ちゃんの子供だもん、すでに大物だよ」

「スズが兄代わりだし、余計にね」静日の言葉に、スズは、真昼みたいに眩しげな顔で、笑った。

「伊木先生は、明日もいらっしゃるの?」

「たぶん。じゃ、もらってくね。いい夜を!」薔薇を持ったのと反対の手を振って、スズは先に家の方に戻っていく。

「いい夜を」静日は、しばらくそこから、彼らのスターの背中を見送っていた。

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