05

The Circus<スズ>

 綾(りん)は、辛抱強く数分おきに彼を起こし続ける目覚ましのアラームをようよう切って、寝台の上に裸の体を起こした。眇めた目で時間を確認する。12時6分。いつもならもう少し寝ていられる時間だが、今日は始業前に山奥のテーラーまで出かけていって、新しく誂えているコートの試着をしなければならない。食事の時間を考えるなら、もう起きなければまずい頃合だった。

 身支度を整えて、部屋の扉を開ける。今日も、ホールの真ん中には、天井から射す日の光を細かな葉という葉で受け止めている、スズの木――この木の下でスズがよく寝転がっているので、綾はそう呼んでいる――が、いつもと変わらぬ姿を見せていた。木の向こうから、靴音が聞こえてくる。スズの部屋の扉が閉まる音もした。この時間ならスイか、スズ本人だろう。そう思って綾は、枝ぶりをまいて、靴音を追うようにエレベーターの方へと歩を進めた。

 エレベーターの前に立っているスーツの背中が目に入ったとき、それが明らかに身内の人間ではないのがわかって、綾は一瞬、引き返そうかと、足の運びを止めかけた。普段から、スズの客とはできるだけ顔を合わせないようにしている。しかし、綾が木陰に入るより早く、その人物が後ろを振り返った。

「……あ、どうも、」

 相手が先に挨拶をした。通った鼻筋に、大きな二皮目。短く刈った髪に飾り気はないが、そんなもので誤魔化す必要はないと言わんばかりの、精悍な美男だった。背が高く、腰の格好や肩幅なんかを見ても、スーツを着るために生まれてきたかのような体つきをしている。

「……伊木、真一朗……先生、」相手の顔を仰いで半開きになった綾の口から、その名がこぼれる。

「あ、ええ、そうです。初めまして」真一朗は、今度は体ごと後ろに向きなおって、言った。

「初めまして、綾と申します。ええと……、」口に出していいものか迷って、綾は、スズの部屋の方を目で示した。「ああ、はい」と真一朗は頷く。「先日から、彼に取材……というか、まぁ、話に付き合ってもらっています。また顔を合わせることもあるかと思いますが、どうぞ、お見知りおきください」

 差し出された名刺を受け取る。伊木真一朗は、短く整えた爪の形も美しかった。作家になる前にはモデルをしていたというから、そういう細かな所にも気がいくのだろう。「ご丁寧にどうも。すみません、俺、今、名刺の用意がなくて、」

「いえ、お気になさらず」

 エレベーターが到着した。蛇腹扉の開け閉めは、真一朗がした。しかも当然のように、綾を先に箱に乗せる。本来ならこの店の人間である綾がやるべきことだが、手を出す隙もなかった。エスコート癖がついているようだ。さすが、恋愛小説を量産している色男なだけはある。

「でも、愕きました。ついこの前、スズと、あなたの話をしていたところだったんで」綾は隣に立つ男を見上げて言った。

「そうなんですか?」真一朗も、目を大きくして綾を見る。

「俺、先生の書かれるものが好きで、特に随筆を面白く読ませて貰ってます」綾は、ちょっと話題を逸らし気味にして、そう言った。まさか、スズが真一朗の小説をけなしていたなどとは言えない。すぐに食堂のある2階に到着した。挨拶をして先に降りる。

 エレベーターを降りて左手の食堂からは、人声と、テレビの音が聞こえていた。綾が中に入っていくと、広い空間に散ったテーブル席の方々から、「お疲れさまです!」と挨拶の声が上がる。この時間に居るのは、若い団員や、裏方の準団員が多い。「おつかれー」と纏めて返して、厨房を覗き込んだ。

「お疲れさまです、綾兄さん」

「リリー!」そこに居た後輩の姿に、綾は目を見開いた。凄い勢いで厨房の中に駆け込み、相手の両肩に手を添える。リリーは、人気の正団員だが、先日、客から貰ったたちの悪い風邪をこじらせ、肺炎と診断されて、しばらく入院していたのだ。「退院、まだ先の予定だったろ? いつ戻ったの? 体は? 大丈夫か? ちゃんと休んでなきゃ駄目だって!」

 まくし立てる綾の両腕を、安心させるように軽く叩いて、リリーは微笑んだ。「今朝戻りました。ちゃんと治してきたから大丈夫。もう元気だよ。仕事も、明後日から復帰するから、」

「そんな急がなくたって、何なら暫く俺がおまえの客の相手したっていいんだからさ、無理しないでもっとゆっくり養生……」

「なにバカなこと言ってんだか」しゃがんで、コンロの下のオーブンを覗き込んでいたコックの揺が、呆れた声を出した。「綾が出しゃばんなくたって、仕事できるかできないかくらい、リリーが自分で判断するよ。ねぇ、」

 リリーは控えめに頷いた。「綾兄さんが気遣ってくれるのはすごく嬉しいんだけど、俺、ほんとにもう、元気なんだよ。心配かけて、ごめんなさい。ちゃんと、体調を見ながら、主治医の先生にも相談してやっていくから、安心してね」

「それなら……うん。わかった」綾は言って、リリーの頭を撫でた。「でも本当に、体を一番にしなきゃ駄目だからな。リリーはいつも、」

「揺くーん、俺のグラタンまだぁ?」タイミングも何もなく掛けられた大声に、綾は忌々しげな視線を背後に向けた。声の主の肖(あやか)は、厨房から一番離れた窓際のテーブル席にひとり陣取って、競馬新聞に目を落としたままの格好だ。

「あと1分30秒ー!」オーブンから目を離さずに揺は返した。

 綾は、自分の分のスープとパンを左手に、出来上がったばかりのグラタンを右手に持って、肖の席へと向かった。広げられた新聞の上に、乱暴にグラタン皿を置く。

「うぃーっす、あんがと」肖は、新聞を下敷きにされたことに文句も言わず、いそいそとフォークを掴んだ。綾は肖の斜め前の席に座る。

「さっき、伊木真一朗に会った」パンを千切りながら、綾は言った。

「あぁ……スズのとこに取材に来てんだよ」肖は目を薄くした。「イチカさんとか、淡竹屋方面からのツテもあんだろうし、断りきれなかったんだろうけどさぁ、ただでさえ忙しいのに、睡眠時間削ってまで毎日相手するって……」

「毎日?」綾は目を上げて肖を見る。グラタンに息を吹きかける合間に、彼は、「なんだってさ。1日何分って時間制限はつけてるみたいだけど」と、まるで我がことのように嫌そうに答えた。

「へぇ……。ま、大丈夫なんじゃない。何だかんだ言っても、取材受けるのは本人が決めたことだろ」素気なく言って、綾はスープを口に運ぶ。

「出た、そのいかにも興味ねー面。リリーのこととなるとあんな過保護になるくせにさぁ」先刻の厨房でのやりとりは、競馬新聞に目をやりながらも、ちゃんと耳に入っていたらしい。

「俺の愛情はリリーに注ぐためにあんだからしょうがないだろ」綾は言いながら、厨房のリリーを振り返り、満面の笑みで手を振った。気づいたリリーも微笑んで手を振り返す。とろっとろにとろけたにやけ顔を、肖に向けるときに一瞬で真顔に戻して、綾は続けた。「つか、イチカさんが目ぇ付けるだけあって、近くで見ても相当の美形だったな、伊木真一朗。毎日は勘弁だけど、スズが大変なときとか、代わりに俺が取材受けてもいいくらい」

「それが、スズじゃなきゃ駄目なんだとさ」肖はやや声を低めて言った。

「は? なんで、」

「そりゃあ普通に考えたら、伊木真一朗の興味の矛先が、ザ・サーカスじゃなくて、スズ個人に向いてるってことじゃねぇの?」

「……へぇ。それわかって相手してんなら、スズの方にも結構気があんのかもな」

「気ってなんだよ。もしそうなら、ただの気じゃなくて浮気だろ」不機嫌面を最高潮にして、肖が低く呟く。

「あのなぁ、俺が言ってんのは、取材期間中に誘惑して作家先生を得意客にするつもりなんじゃないの、ってこと。気で言うなら商売っ気だよ」

「あぁ、そっちか」

「そっちかって、あとどっちがあんだ」固めのパンをスープに浸してから口に入れ、綾は眉を顰める。「気だの浮気だのって、こんな仕事しといて言うことかよ、アホくさ。百歩譲って、俺たちに浮気って概念が当て嵌められるとしたって、スズに付き合ってる相手なんか」

「いるだろ」肖は、いっそう低い声を出した。

「誰だよ。って、聞かなくてもわかるけどさぁ……」面倒くさそうに、綾は肖から逸らした目を、スープ皿に注ぐ。

「どう見たって、あいつらそうだろ。……スズもスイも、別に否定しねぇし」肖の声は、もうほとんど泥に埋もれたようなかぼそさだった。

「そうかなぁ」綾は惰性だけでそう返し、さっさとスープを飲み干して、陰気な席を立った。

「そうかなぁっておまえ、冷たすぎんだろ。友達じゃねぇのか」

「その件については、俺とおまえの現状認識に差がありすぎて、コメントしようがない」綾はそう言い置いて、食堂を出た。自分にしては親切なことを言ったなと、玄関のスロープを下りながら思い返す。普段なら、「うるせぇ寒天脳みそ、俺にそんな阿呆の友達はいねぇ」などと言い捨ててもおかしくない場面だった。

 肖のあのトンチンカンっぷりには、うんざりする。叶いそうにない長い片恋が、明晰なはずの頭脳を狂わせるのだろうか。そういう感覚に、覚えがないわけではないことが、余計に綾を苛立たせた。

 自分でも心に引っかかっている、乗り越えたと胸を張って言えない類のことに、同じように引っかかってもがき苦しんでいる人間を見ると、どうしてこんなにも、意地悪な気持ちになるのだろう。励ましてやろうとか、一緒に悩んで頑張ろうとか、そんな優しいことは全然思えなくて、ただただ、腹立たしさのまま罵倒の言葉をぶつけるか、それをどうにかして飲み込むので、精一杯になってしまう。

 きっとリリーなら、そんなことはないんだろうな。

 綾は、地下駐車場に入る前に、晴れ渡る高い空を見た。リリーのことを考えると、自然に、目線が上に向く。空に天使を探すみたいに。自分の持たない、欠落した、何かきれいなものを、彼が大事に持っている気がして、憧れている。

 もう少しで、あの美しい命を、俺は、見殺しにするところだった。

 時々、綾はそのことを思い出しては、心臓が凍りつきそうな恐怖に射竦められる。忙しいとか、面倒とか、下らない理由をつけて、根拠なく現状を楽観視したり、ちょっとした違和感を見過ごしたことで、取り返しのつかない結末を招くこともある。綾はその教訓を、リリーとロスを救い出したときの一件で、全身が粉になるほど厳しく、自分自身に刻み付けたはずだった。なのに時が経てば、そんなことはすっかり忘れて、同じような見て見ぬ振りの毎日だ。

「クノさん……」ひとりのとき、綾の脣が勝手に呼ぶのは、いつもその人だ。もう何年会ってないだろう。会いたい。抱きしめて、キスしてほしい。大丈夫と、波音のような声で、温かな腕で、魔法をかけてほしい。

 ひとつ頸を振って、綾は、フルフェイスのヘルメットを被った。

 こんな風に、スズの口からも、ふいにクノさんの名前がこぼれることがあるのだろうか。

 一瞬、頭にのぼった考えは、駐車場に轟く愛車の嘶きで掻き消した。


     ★


 浴室の扉がノックされ、湯船でうとうとしていたスズは、目を覚ました。扉の方を見なくても、そこにいるのが誰かはすぐにわかる。こうやって、部屋の中にまで勝手に入ってくるのは、遠慮のない古株の団員たちの中でも、スイしかいなかった。

「スズ、ちょっといいか、今夜の予定だけど、」

「んー、開けていいよ。キャンセルでも入った?」

 眠たげな自分の声が、浴室いっぱいに反響する。スズは、その響きを聞いて、目を大きく見開いた。

「…………こんな声、だったよね」

 扉を開けて入ってきたスイが、「は?」と不思議そうにしてスズを見下ろした。

「こんな風に、響いてたと思って。あの人……《ラーテル》の、暗殺者の、声」

 世界一美しい人間が、自分を殺しにやって来た、十年前のあの日のことを、スズはもう、ぼんやりとしか覚えていない。ただ、動いている口もとを見てもなお、どこから聞こえるのかわからなくなるような、あの、不思議な音色の声だけは、今でもスズの耳の奥に、愕くほどの新鮮さで保存されていた。

「ああ……、そういや、妙な声してたよな。けど、何で今さら……」スイは、表情をにわかに固くした。「まさか何か、気になることでもあったのか?」

「ううん、なんか今、自分の声聞いてそういえばって思い出しただけ」スズは、スイの頭を過っただろう恐れを払うために、注意深く、普段通りの何でもない言い方をした。「で、今夜の予定がなに?」

「ああ、今日の貸切予定、先方が急な仕事で2時間しか時間取れなくなったそうだから、16時〜18時でお受けした。外出は取りやめで、ここに来るってよ。飯は要らないって」

「諒解」スズは頭の中で、さっと午後の予定を組み直した。今日はリアルタイムで聴講しようと思っていた講義があったのだが、諦めるほかない。

「じゃ、残りの時間は、キャンセル待ちから適当に埋めとくから」それだけ伝えて退出しようとしたスイの背中に、スズは、「スイが今夜予定あるなら、そうして」と、声をかけた。

「今夜は、特に急ぎの用件はないけど」スイが振り返る。

「それじゃあ、決まり」と微笑みかけて、スズは、バスタブのふちに組んだ腕を載せ、上目に、じっとスイを見つめた。

「おまえ……、」スイは、その場にしゃがみ込んだ。少しだけ低い位置にあるスズの頬を両手で挟んで、僅かに眉を顰め、何か言いたげに口を開きかける。その脣を、スズが、自らの脣で塞いだ。

「…………っ、」服が濡れるのも厭わずに、スイは、浴槽の中にいるスズの体を抱きしめた。スズの両腕がスイの背にまわって、口づけはさらに深くなる。洩れる吐息や、湯の跳ねる音が、真昼の浴室に反響して、湿った空間を、ますます淫靡に濡らした。

 舌と舌をくっつけて、絡め、ケンカするみたいに擦りあって、恍惚の予感が頭から下腹の方へ溜まりはじめても、入浴中のキスは味気ないと、スイは思う。石鹸と湯気と、バスオイルのにおいに、スズのにおいが、洗い流されているせいだ。だからスイのスズとのキスは、寝室や、ほかのどの場所でするときより、浴室でするときの方が烈しくなる。

「……ッ、はっ、も、……スイ、本気出しすぎ、だって、」ようやく脣が離れてから、スズは、上気した頬で笑った。キスで疲れた舌のせいで、発音が少しあやしくなっている。

「おやすみ。また後でな」スイは、最後にもう一度、スズの脣を音を立てて吸って、立ち上がった。

 しばらくして届いた、部屋の扉が閉まる音を合図に、スズは、ふたたびゆっくりと、肩まで湯に浸かった。

「……好きだよ、スイ…………」

 まだ痺れる脣で呟いた声は、あの日、冷たい公園で聴いた暗殺者の声のように、淡く拡散して、どこから発された声なのかも、誰の声なのかも、すぐにわからなくなった。

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