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The Circus<スズ>

 腹が減っていないかと訊ねると、ナウムは、素直に「へってる」と答えた。迎えが来るまでには、どんなに早くても、あと1時間はかかるだろう。スズはナウムを、2階の食堂へ連れて行った。

 昼の忙しい時間を過ぎた食堂は、もうだいぶ空いている。何人かの後輩団員が、スズの姿に気づくなり、「お疲れ様です」と大きな声で挨拶した。笑顔で挨拶を返して、スズは厨房の、カウンターのところへ近づいた。

「揺ちゃん、お疲れ」

「よう、スズ。お疲れ」中で皿洗いをしているエプロン姿の男が顔を上げる。彼は、スズの斜め後ろに隠れるようにして立っている少年に、すぐに気がついた。ほがらかな笑顔を浮かべる。「お客さん? 初めまして。コックの、揺です」

「ゆり……」ナウムは、目をぱっちりと開いて、揺の顔を凝視した。

「うん、そうだよ」揺も、不思議そうに目を見開いて、ナウムの顔をじっと見返した。ナウムはハッと姿勢を正す。

「あ、えっと、初めまして。ナウム・バルマンです」

「ナウムか、よろしく。食べたいものあったら、何でも言って。何でもそれっぽいもの作るから」

「それっぽい?」

「そ。不勉強で知らない料理もあるからさ。そういう場合は材料言ってもらって、それっぽいものを想像で作ることにしてんの」と、揺は歯を見せた。

「でも、まずいものは出さないのが揺ちゃんのコック道なんだよ」スズが付け足して言う。「だから、何でも頼んじゃって」

「あ……、じゃああの、パンケーキ、を、お願いしても、いいですか、」

「もっちろん、任せて。それなら『ぽい』じゃないちゃんとしたやつ作る自信あるからさ。甘いやつがいい?」

「はい!」

「スズは?」

「俺は今夜お客さんと食べる予定だから、残念だけどよしとく」そう言ってスズは、ほかの団員たちのいる席からは離れた、厨房に近い、窓際の席についた。ナウムも、その斜向かいの席に腰掛ける。

「刺青のこと、訊いてもいい?」低い、スズの言葉に、ナウムは少しだけ周囲を気にする素振りを見せたが、卵を泡立てるにぎやかな音や、団員たちの、テレビを見ながらのおしゃべりの声を聞いて、小さく頷いた。

「どうして、レオ・ハハキの絵を選んだの?」

「……それは、……えっと、……自分じゃない、誰かのために、痛みに耐えるのが同じだって……、彫師の人が、そう、言ったから」

「ああ、……そういえば、そうだね」

 レオ・ハハキは、後の初代国王となる彼の領主を、危地から逃がすために、総身を刺し貫かれても敵の前から一歩も引かなかった、という逸話で知られる、建国時代の英雄だ。

「自分がレオと比べられるほどの人間じゃないのは、わかってんだけど、……でも、これ、その場で、俺のために、デザイン画描いてくれたやつで、」これ、と言うときに、ナウムは、刺青のある脇腹の辺りを、服の上から愛おしそうに押さえた。「本当は、オリジナルの絵でこんな大きなサイズなんて、すっごい高いんだよ。けど、俺の傷痕見てから、彫師の人が、一番小さいサイズの料金でいいって言ってくれて、」

「そっか。いい人に出会ったな」

「うん。見た目は、刺青だらけで、結構怖かったんだけど、」ナウムは言いながら、自分の両腕や頸すじを、両手で撫でるように動かした。彫師のその辺りがすべて、刺青で埋め尽くされていたのだろう。

「さっきも言ったけど、俺、刺青彫ってもらいに行くたびに、ずっと、ほんとにずーっと、スズの載ってるページ見てたんだ。……それまで、移動娼館のこととか、あんま知らなかったんだけど、その彫師の人が、東部出身の人でさ。俺があんまり熱心に見てるから、色々、教えてくれたんだ。ザ・サーカスが、どんだけたくさん路上の子供を救ってきたか、とか、スズはレオ・ハハキの子孫だってこととか、色々……」

「ああ……、それで、俺のとこに来たんだ」

「うん」ナウムは頷く。

 スズの戸籍上の父親、ザ・サーカス前団長のクノは、レオ・ハハキの、直系の子孫だ。つまり書類の上では、スズも、レオの子孫ということになる。だが、血統という意味では、全くの他人である可能性も、大いにあった。

「その人から、ザ・サーカスのスズは、クノさんより凄い、この世で一番凄い大スターなんだ、って、聞いて、……」

「クノさん……?」スズは、ナウムの言葉の途中で、その名を繰り返した。表情が険しくなる。ナウムは肩を少し後ろに引いて、スズを上目に、心配そうに見た。

「え……、っと、確か、そう言ってたと、思ったんだけど……。昔、この店にいた、伝説のスターのこと、だろ? 今はストリートチルドレンを助ける活動をしてる、偉い人だって……」

「その彫師が、『クノさん』って、言ったの……?」

「え……うん……たぶん、そう、言ってたと……思う……」

 東部出身の人間なら、クノのことは十中八九、《毒蛇》と呼ぶはずだ。『クノさん』という呼び方をするのは、ほとんどの場合、ザ・サーカスの団員など、かなり近しい人間に限られる。そして、元団員の中で、その後の消息がわからなくなっている人間といえば、スズの母親である鈴音と、かつて《ラーテル》というギャングを率いていたフィル・トップセルの外には、たった一人しか存在しない。

「揺ちゃん、」スズが厨房に呼びかけたのと前後して、揺が、フライ返しを片手に、厨房から飛び出してきた。

「なぁ、その人の頸の刺青って、赤くなかった? 何か、顔の特徴とか、何でもいいから、覚えてることあったら教えてほしいんだ」揺は、ナウムに半ば縋りつくような勢いで、言った。

「え……、と、待って、…………えーっと、…………何か、カラフルな感じだったから、赤もあったとは思うけど……、……他の特徴、は……、髪は長くて、…………でも、その、とにかく刺青だらけだったって印象が、凄くて、……顔とかは、あんまり……、……ごめんなさい……」困った様子のナウムに気づいて、揺が、上体を退く。

「あ……、ごめんな、ちょっと……、知ってる奴かと、思ったもんで」調理途中であることを思い出したのか、揺は、厨房に急ぎ足で取って返す。改めて、きれいな色に焼けたパンケーキを運んできたときに、ナウムは揺の顔を見上げて、「あの、」と口を開いた。

「ゆり、さんって、お名前でしたよね、」

「ん? うん」

「あ、あの、関係ないかも、しれないんですけど、……その、名前が、似てて、」ナウムはそう言いさして、一度、スズの方に向けた目を、再び揺に戻した。「その彫師の人、ユーリっていう、名前でした」

「ユーリ……?」スズは、揺の顔を見た。揺は瞳をぐらつかせ、しきりに瞬きを繰り返していた。


     ★


 ナウムは、迎えに来た両親にこっぴどく叱られ、泣きそうになっていたが、刺青を入れた理由を彼が母親に白状することはなかった。だがスズは、床に膝をついてナウムをきつく抱きしめた母親の姿を見て、彼女が、その理由をすでに知っているような気がしてならなかった。もしかすると、父親が話したのかもしれない。しかし、ナウムがそれを話すときが来るまで、彼女もまた、知らない振りを続けるのだろう。

 ナウムの顔は、母親によく似ていた。

 親子を玄関の外まで見送ってから、揺が、菜園の手入れをするというので、スズも手伝うことにした。2人で言葉少なにエントランスのスロープを下り、敷石を踏んで、店の裏手に回る。

「……蒼唯(あおい)ちゃんかも、しれない」

 靴の裏がやわらかな土を踏んでから、スズはついに、その言葉を、口にした。

「けどあいつ、自分の刺青、あんな嫌いだったのに、彫師になんか、なるかな……」揺は、畑にしゃがみ込んだ。心ここにあらずといった様子で、手近の雑草を引き抜きはじめる。スズも揺の傍にしゃがんだ。

「確かめてみようよ、」

「……いや、いいよ、もう……」

「でも、揺ちゃんさっき、」

「さっきのは、不意打ちだったから」揺の声が、低くなる。「冷静になったら、……あんな奴、どうなってようと、知ったことじゃない」

「そん……、違うよ。俺、言ったよね。あのとき蒼唯ちゃんは、俺を助けてくれたんだって、」

「だからもう、いいんだって。もう、あんな奴のこと庇わなくたって、ラーテルもハンドレッドアイズも、もう、いないんだから……」

「庇ってるんじゃない。本当なんだよ、蒼唯ちゃんは、」

「わかってるよ……!」揺は、手の中の雑草を地面に投げつけた。「それでも、許せないんだ。どんな理由があったって、あいつが俺たちのこと裏切って、おまえを、あんな……っ、……惨い、目に、遭わせたのは、……事実なんだから」

「だけど、あのときの蒼唯ちゃんが、父親の命令に従わないと殺されるかもしれないって状況だったのも、救急車呼んで、応急手当してくれたのも、事実なんだよ、」

「…………やめよう、この話。手伝いも、いいからさ。おまえ忙しいんだから、休めるときはちゃんと休んだ方がいいよ」揺はきっぱりとスズに背を向け、草むしりを続けた。呼びかけても、もう、返事をしてくれそうになかった。

 スズは、仕方なく、一人で店に戻った。玄関を入ると、ロビーの待合席から、こちらを見ている青年と目が合った。綾が贔屓にしているテーラーで、アルバイトの配達係をしている大学生である。

「あれ、マリオ来てたんだ? ごめんね、さっきお客さん送りに出てきたとこだったから、気がつかなくて」言いながら、スズは閑散としたロビーの全体を見渡した。受付にも人の姿が見えない。今日は業者の出入りも少ないのだろう。たまに、こういう日もある。

「あ、いえ、隅っこにいたんで、」

「最近、しょっちゅう顔見るけど、もしかして綾に無理なこと色々頼まれてんじゃない?」スズの言葉に、マリオは、しっかりした眉をハの字にして笑った。返事をごまかす笑い方だ。図星だな、と思って、スズは鼻から息を抜く。「綾って、気に入ったバイク乗り見つけると、こき使う悪いくせがあるんだよ。業務範囲じゃない面倒かけられそうになったら、フツーに断っていいからね」

「いや、全然、大丈夫なんで。でも、お気遣いありがとうございます」

「マジで、綾に直接言いづらかったら、俺に言ってくれていいからな。じゃ、また。お疲れさま」自分の喋る声を耳で聞いて、だいぶ眠くなってるな、と、スズは人ごとのように思う。「お疲れさまです」マリオが返すのに手を振ってから、スズは足早にロビー奥の通路を、エレベーターホールの方に曲がった。

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