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The Circus<スズ>

 耳の奥に風が吹き溜まるような、背筋をぞわぞわさせる感触がして、スズは、ベンチに置いた両手に、密かな力を込めた。眩暈が来る前には、だいたいこういった予兆がある。対処には慣れたものだ。ベンチの端から漫然と水車を眺めている、それまでと何も変わらない表情をキープしたままで、スズは、目や額の裏あたりをくすぐるように通り過ぎてゆく、いくつもの淡い眩暈をやり過ごした。

「……あ、」その低い声に、スズは、視線を右隣の真一朗の方に遣った。

「わかった、レイト、ちょっと痩せた?」真一朗は、スズの頬の辺りを見ていた。

 跳ねた心臓を体の奥に押し込むような気持ちで、スズは、「そうかな」と軽く笑ってみせる。「てか、『わかった』って、どういう意味?」

「ああ、いや、なんか、ここ何日かのレイト、微妙に感じが違うなって思ってて、」

 大衆受けする恋愛小説家でも、作家の観察眼は甘くないらしい。スズは内心で舌打ちしながら、「そういやここんとこ、体重計乗ってないかも。ナウムの件とかもあって色々忙しかったし……。気をつけてよく食べないと、すぐ痩せるんだよな、俺」と、当たり障りのない返事をした。

「高級なものに限って燃費が悪いのって何でだろうな」真一朗は鼻から息を抜くようにして笑った。「運動しないとすぐ太る俺からすれば、羨ましいけど」

「サイズがコロコロ変わると、スーツの直しが大変だもんね」スズは笑って言った。人を物のように言いやがって、という心の中での悪態は、当然ながら表情のどこにも現れていない。笑顔を作った拍子にまた湧いた眩暈を、笑いながらいなした。「そういや、ナウムのこと……っていうか、紅の店に押しかけてきた例の子供、あいつがナウムって名前だってことも、あんたにはまだ、話してなかったっけ」

 スズの言葉に、真一朗はただ、「うん」と浅く頷いた。どうやら、ナウムについての詳しい話を欲していないようだ。それを伝えるだけの力のある、絶妙な返事の仕方だった。作家なのだから、事の仔細を知りたいという欲望がないわけではないだろうに、遠慮しているのだろうか。

 そもそも、取材という割に、真一朗は、仕事のことをあまり聞き出そうとしてこない。昼間に過ごすほとんどの時間が、世間話だとか、共通の友人の話で終わってしまう。

 だったらどうして、俺なんか取材しようって気になったんだろう。最初の日に、その話をしようとしていた気がするけど……、そうだ、トラタが部屋にやってきて、うやむやになったんだったか……。

 川から吹いてくる穏やかな風が前髪を撫でて、思考をだんだんぼやけさせる。額をくすぐる前髪をゆっくりと掻きあげて、スズは、緩い瞬きをした。

「眠い?」真一朗はそう言って、腕時計を確かめた。「あと30分あるから、眠ったら?」

「ここで?」スズは辺りに頸をめぐらした。人通りは少ないし、水車や橋が目隠しになってはいるが、それでも外だ。人目がまったくないわけではない。

「タンデムシートで寝られたら危ないし」真一朗はそう言って、左の膝を叩いた。枕に使えということらしい。

「うーん……」スズは唸りながら、まず、ベンチの上に胡坐を組んだ。足首を両手で掴んだ格好で、右側に体を傾けて、倒れる前に、起き上がり小法師のように元の姿勢に戻すのを、何度か繰り返す。

「何してんだよ」真一朗が吹き出した、その瞬間に、スズは体を水平に倒しきった。

「こんなとこ写真屋に撮られたら、後のフォローが大変だな……」目を閉じながら呟く。「まぁ……、これで言い訳のデートが嘘じゃなくなったから、いいけど……」

「本当だ」真一朗の笑い混じりの声が、急に遠ざかるような感覚があった。まるで自分ひとりが、川の底に落ちていくような……。気持ちいいのか、悪いのかわからない、水底から湧き上がってくる泡の集合体に取り込まれるように、スズは、短い眠りに落ちた。


     ★


 目を開いたばかりの、ぼやけた視界に、男の腕が浮かんでいる。何であんなところに、不自然に腕が浮いているんだろう。生地のいいジャケットに包まれた、長い腕。軽く開かれた五本の指も長く、節くれ立っているというほどではないが、男らしい輪郭で描かれていた。

「ちょうど起こそうと思ってたとこだった」

 柔らかな声が頭の上でする。スズは視線を、昼下がりの空に浮いた逆光の腕から、もっと手前に引き戻した。見覚えのある、端正な男の顔が、こちらを見下ろしていた。

「真一朗……」

「おはよう」真一朗は微笑んで言った。

「はよ……、あ、ごめん、重かっただろ、脚、」スズは急いで体を起こす。寝る前に比べて、ずいぶん頭が軽かった。この数日ずっと、当たり前のように続いていた頭痛も、ほとんど治まっている。

「いや、全然」そう言う真一朗のスーツの膝に、皺が寄っているのに気づいて、スズは、反射的にそこへ手を伸ばしていた。「ごめん、皺が、」

「このくらいすぐ取れるよ」スズの手の上に、真一朗の手が重なる。冷やりとするような、一瞬の愕き。スズは顔を上げた。真一朗の顔が、すぐ傍にある。

「それより、そろそろ駅に行かないと」真一朗はそう言うと、先にベンチから立ち上がった。握ったスズの指先を、軽く上に引っ張る。

 ああ、なんだ。キスでもされるのかと思った。愕きが去ってから、心臓が少しざわめきはじめる。

 男の膝を枕にしてちゃんと眠ったのは、これが、初めてだったかもしれない。


     ★


 生まれて初めて、スズは一人でトラムに乗っている。

 中央駅まで真一朗に乗せていってもらうつもりだったが、途中で、目的地に行くにはトラムの方が便利がいいということがわかった。それで、旧市街広場近くの乗り場まで送ってもらったのだった。降車時に金を払うシステムで、小銭が要るというのも聞いて、紙幣しか持っていなかったスズは、それも真一朗に貸してもらった。駅で切符を買うつもりでいたから、小銭じゃなくても構わないだろうという腹だった。しかし、財布の中に入っていたのは、高額紙幣のピン札ばかり。これでは駅の窓口でも、きっと嫌がられたことだろう。

 テレビか映画で見たトラムは、バスのように、前向きの座席が整列していた覚えがあるのだが、スズの乗った車両は、向かい合った長細い座席が、窓に沿って設けられているタイプのものだった。落ち着かない気持ちで、とりあえず向かい側に誰も座っていない、後部車両のちょうど真ん中あたりに腰を下ろす。そこから、斜め前方の扉の上に表示された路線図を見上げた。降りる停車場の名前は、5駅先にある。それを、3回も確認した。

 座席には、青っぽい、としか表現できない、色褪せた布が張ってあった。向かいの席の座面から汚れた床へと、窓の形に切り取られた陽が、斜めになって落ちている。光の中に舞う埃が、ちかちかと点滅しているように見えた。

 同じ車両にいるのは、連結部のすぐ近くの席に座っている、見事な白髪の女性。その近くの扉の前で額を寄せ合っている、男女のカップル。座席の最後方には、勤め人らしきスーツ姿の男性3人組と、その向かいには、大きなバックパックを脚の間に下ろした男性が、地図を片手に座っている。

 彼らの注意は、3人組以外は非常に遠慮がちにではあったが、それでも明らかに、スズに向けられていた。それに気づいていながらも、スズは澄ましていた。しかし、嫌に今日は、視線が気になる。知らん顔をつくるのも一苦労だ。見られることにも、それを無視することにも慣れているはずなのに。ここが、すぐには逃げ出しづらい場所だから、緊張するのだろうか。

 別れ際に、真一朗が言ったことを思い出す。

「そんな勇気のある奴そうそういないとは思うけど、ナンパとか、諸々、一応、気をつけて」停車場の手前の路肩で、停めた単車に跨ったままの格好だった。「おまえの普段の生活では絶対遭わないような下品な輩も、娑婆にはいるから」

「わぁかってるよ、もう」スズは相手を手で追い払うしぐさをした。

「子供扱いみたいで微妙だろうけど、大人相手にこんなこと言う方も、結構微妙な気分なんだからな」真一朗は片眉を上げた、ちょっと皮肉っぽい表情で言った。

「護身術の心得があるから、大丈夫だよ。防犯グッズも持ち歩いてるし」スズは言って、口の端を吊り上げた。わざとらしく目を見開いてみせた真一朗は、「よーく覚えとく」と言って、笑った。

「じゃ、帰りは連絡してな。迎えに来るから」

「過保護はいいって、」

「おまえがつけたスーツの皺、取ってくれないつもりか?」

「……わかったよ。ありがと」スズは鼻から息を抜いて、今度こそバイバイと手を振った。


     ★


 無事に運賃の支払いも済ませてトラムを降り、ビルの立ち並ぶ商業エリアを、用意してきた地図を確かめながら、歩いて移動する。停車場から十数分、入り組んだ道を辿ってようやく、目的の雑居ビルを見つけた。知らない場所だったので時間がかかったが、もし次また来ることがあれば、たぶん、5分ちょっとの道のりだろう。

 ずいぶん古びた、長細いビルだった。6階建てだが、エレベーターはないらしい。昼なのに、切れかかった灯りが点けっぱなしの暗い階段を、4階まで上がっていく。階段から通路に出ると、左手側は、スズの腰の上くらいまである、錆の目立つ鉄柵が取り付けられていて、手を伸ばせば届きそうなところに、隣のビルが迫っていた。おかげで日の光はほとんど届かず、通路にも陰気な照明が灯されている。

 狭い通路の右手側に、ペールグリーンの扉が四枚、一直線に並んでいた。階段に一番近い扉には屋号はなく、代わりに蓮の花が描かれた10センチ四方の紙が、ドアノブの横に貼り付けられている。その次の扉には、不動産会社の連絡先が掲示してあった。空室らしい。さらにその次には、何とかデザインという表札。一番奥の部屋も、似たような職種の零細企業の事務所であるようだ。

 スズは一番手前の扉の前に戻ってきた。消去法でいけば、目的地はここだ。息を一度止めて、扉をノックする。

「どうぞ」

 愛想のない、高めの声が返ってくる。スズは無言で、その扉を開けた。

 店の中にも愛想はほとんどなく、コンクリート打ちっぱなしの壁に囲まれた部屋には、ふたつのデスクと施術台以外に、家具と言えるようなものは置いてなかった。窓は、正面左寄りの位置に申し訳程度についていたが、ブラインドが下りていて外の様子は見えない。見えたとしても、やっぱり別のビルがすぐそこに迫っていることだろう。

 窓の右側にあるデスクで、何か書き仕事をしていたらしい細身の男は、椅子から立ち上がりながらも、作業を中断するのがいかにも惜しいという様子で、色鉛筆を動かし続けている。オーバーサイズの黒いTシャツから伸びた腕は、手首まで、極彩色の刺青で埋め尽くされていた。緩いうねりのある色褪せた金髪は、顎より僅かに長いくらいで、毛先にだけ派手な色が入っている。こちらを振り向く頸にも、隙間なく刺青が彫り込まれていた。それは鎖骨を越えて、切り取られたTシャツの広い襟ぐりの下に隠れるくらい、広範囲に及んでいる。もしかすると、服に隠れた部分にも全て、一続きの絵柄が入っているのかもしれなかった。

 スズの口から、ため息にならないほどの、声を伴わない声が、洩れた。

 スズは、男の方に近づいた。扉の閉まるちゃちな音が、背後に聞こえる。刺青の男は、裂けるほど見開いた目でスズを見返していたが、やがて素早い瞬きをしたかと思うと、身を翻そうとしたのか、左足にあった重心を、右の方へと移動させた。

「誰にも言ってない!」スズは慌てて手を伸ばし、男の刺青の腕を掴んだ。「俺が一人で、勝手な判断で来たんだ!」

 間違いなかった。

 これは、蒼唯(あおい)だ。

 見た目はずいぶん変わったけれど、この人は、蒼唯ちゃんだ。

 しばらく、蒼唯はスズの手から逃れようと抵抗をしていたが、力の差を認めて諦めたのか、大人しくなった。それもそのはずで、蒼唯は、スズの記憶の中の彼より、ずいぶん痩せていた。こけた頬には、うっすらと、影がついている。

「……ナウム、か……、」蒼唯は、掠れ声で呟いた。きつく寄せた眉の下で目を閉じ、その目を2、3度、合間をとって瞬かせてから、スズの顔を見直す。「あいつも、おまえの差し金か……?」

「違うよ。ここで見た雑誌で俺のこと知って、それで訪ねてきたんだ。俺が今日来たのは、ナウムと色々話してるうちに、自分に親切にしてくれた彫師がいるって話になって、そのときにクノさんの名前が出たから、もしかして、って、思って……」

「あぁ……、自業自得ってわけか」蒼唯は息を吐くと、スズが握っている腕を、軽く振った。「……痛いんだけど、」

「あ、ごめん」スズはすぐに力を緩めたが、手は離さなかった。

「別に、逃げたりしないし」蒼唯は、息をこぼして呟くと、さっきまで座っていた回転椅子に、ほんの数冊だけ積み上げた本が崩れるときのように、腰を下ろした。

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